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どうやら店主は馬だけで諦めたらしく、その後も二人に追っ手が掛かることは無かった。ノアールは酷く苛立った気持ちのまま無言で歩く。ハロルドもあれきり何も話し掛けては来ない。ただ黙々と自分の斜め後ろをついて来る。必然的にハロルドの顔は見えず、その表情を窺い知ることが出来ないことでノアールの苛立ちは更に募った。
(いったいどんな育て方をしたら、こんな無菌培養みたいな男が出来るんだ……!)
ノアールの容貌は他者の目には酷く魅力的に映るらしく、これまでにも男女を問わずそういった意味合いの視線を受けることは多々あった。しかも、欲望の対象として見られるだけならまだしも、中には捕まえてどこかに高く売り飛ばそうと考える輩などもいたので、幼い頃から危険な目に何度も遭って来たノアールは必然的に剣を覚えて自衛するしかなかった。
しかし、今自分の後ろを大人しくついて来ている男からは、そういった『邪念』が全く感じられない。それは昨夜も今朝も同様で、同じ寝台で寝たと言うのに自分の着衣には乱れ一つ見られなかったばかりか、愛用のレイピアまで自分の脇に置かれていた。だが、無意識に発動するはずの防御反応が昨夜に限っては全く作動しなかったのは、この男に邪気が無かったからだけではない。
(自分の命を握られていると言うのは、こういうことか……)
その意味を思い知らされ、ノアールは苦く唇を噛む。今夜こそ何としても目的のものを取り返さなければならなかった。
「今夜は野宿になりそうだな」
物思いに耽っていると、不意にハロルドが長い沈黙を破って言う。ノアールはハッとして我に返ると、無意識に掴んでいたレイピアの柄から手を離した。白い街道は大きな山を回り込み、今は広大な森の中を歩いている。森の中に入ってから既に三時間程が経過しているが、鬱蒼と茂る木々に遮られて太陽の位置がわからないので、今が何時でどちらの方角に向かっているのかはこの道に慣れている者でなければ全くわからない。
「今夜だけではない。次の町まで三日程かかるから、それまではずっと野宿だ」
「そうか……」
ハロルドの沈んだ声音にノアールは振り返る。実に半日振りに見る若者は、ノアールと目が合うと済まなそうに眉尻を下げた。
「俺の為に不自由な思いをさせて済まない。配慮が無さ過ぎた」
「なッ……!」
ノアールはその言葉に唖然としてハロルドを見る。
「何をバカなことを言っているッ。そんなことは全て承知で申し出たと言った筈だ!」
「うん。だから感謝している。ありがとう」
憤慨して語気を荒げると、ハロルドが真っ直ぐな瞳で柔らかく微笑む。何の含みも無い、その素直な感謝の言葉に、ノアールはカッと赤くなった。
「私は別に……!」
感謝されたくて親切にしているわけではない。ノアールはその言葉をグッと呑み込む。そうだ、自分はハロルドが思っているほど親切でもなければ優しい人間でもない。そう思い、その顔が暗く沈む。
「この先に野宿出来る洞穴がある……日暮れまでに着きたい」
ノアールはフイと視線を逸らして独り言のように言うと、再びハロルドに背を向けた。