1 船出
断崖の縁に立ち、海を見下ろす。
視界の果てまで、ただ蒼い水面が広がっていた。規則的な波音が、足元の岩を浚っていく。
「俺は全部知りたい。この世のすべてを」
声にしてみても、風に浚われて消えるだけだった。
シキが暮らしているのは、果てしない海にぽつんと浮かぶ小さな島だ。時は1400年代。少数民族である彼らの村は、産業も未発展で言語の語彙も少なく、島民の営みは素朴で静かだった。朝になれば畑を耕し、日差しが落ちれば家へ帰り、母が摘んできた山ぶどうや麦の粥を食む。植物や動物を中心とした食料を食み、五穀豊穣を祈り、身の丈に合った暮らしを愛する。病も飢えもなく、誰もが現状に満足しきっていた。
運動もそこそこでき、何一つ不自由に感じない環境。だが、シキの胸の奥で渦巻く知的好奇心だけは、この完璧で狭い世界を「退屈」だと叫んでいた。村の仲間に色々と聞いてみても、島民は何もわからないと返すだけだった。
「外に行きてぇ……」
一度芽生えた欲は、もう抑え込めなかった。かつては海の方で魚が捕獲されていたが、ある日を境に「海には立ち寄ってはならない」と村の伝承になり、固い掟で禁じられている。だが、向こう側に何があるのか知らずに死ぬことなどできなかった。
思い立ったその日の夜、シキは干し肉と水を袋に詰め、暗闇の断崖から海へと飛び込んだ。泳ぎには自信があった。このまま沖へ出れば、外の世界へ辿り着けるはずだった。
冷たい水面を割り、沖へ向かって腕を掻く。
行ける、そう確信した直後だった。
水面に映る黒い影。赤黒い目が近づいたと思ったら、背後から巨大な黒い影が急降下するように覆いかぶさってきた。
視界が暗転する。息が詰まる。
――〇(リロード)
「はっ……!?」
息を呑んで跳ね起きると、そこは見慣れた自宅の部屋、板張り天井だった。
隙間から温かな昼の光が差し込んでいる。
「おかえり、シキ。誕生日おめでとう」
目の前で母が穏やかに微笑み、摘んできたばかりの果実を皿に盛っていた。
……意味が分からなかった。さっきまで冷たい夜の海で何かに襲われていたはずだ。それに、誕生日なら昨日迎えたはずではないか。時間が巻き戻ったのか?
いや、それだけじゃない。昨日発見したはずの何かの記憶が思い出せない。死んだと思ったら生き返っているが、明らかに記憶が欠けてしまっている。
(なんなんだこれは……。この謎の能力は、あの村や伝承と関係しているのか? いや、待て。ここで考えていても知識は得られない。海に出てこの謎を解く。そして村を豊かにし、第一に自身の欲を満たす。時間が戻ったなら、まだ外を目指せるってことか?)
混乱を強引に抑え込む。問題はあの黒い影だ。ただ泳ぐだけでは逃げきれない。海の出方と、あの近くにいる影からの逃れ方を考えていたとき、村に祀られているオブジェに目が留まった。
「シキ、神殿に行きなさい」
母がふと思い出したように言った。
「神殿……?」
聞き慣れない単語に、シキは思わず眉をひそめた。
「どうしたの? いつものよ。島の深部にある、祭壇を祀ったあの場所へお参りに行っておいで」
「あぁ……あれか」
口ではそう返したものの、頭の中は強烈な違和感で満たされていた。
神殿。祭壇。村人は昔からそこに祀られた「神具」に手を合わせ、豊作を祈ってきた。だが——なぜだ?
記憶の中にあるあの大きな木の皿と、風を受けるような棒。
さっきまで「ありがたい神具」だと思っていたはずのものが、今はまったく別のものに見えていた。
(……あれは神具なんかじゃない。もしかしたら海に浮かぶかもしれない。あの張られている布が海の風に揺られて推進力を得られる……『船』だ)
なぜそんな言葉を知っているのか、自分でも分からない。まるで誰かに記憶を書き換えられたような気味の悪さがあった。だが、疑問よりも確信が勝っていた。あれを使えば、あの黒い影を振り切って海へ出られる。
それから一ヶ月後。準備を整えた夜、シキは村が静まり返るのを待ち、神殿へ忍び込んだ。
冷ややかな石の台座から「船」を引っ張り出す。木棒に布を巻きつけ、風を受ける帆へと仕立て上げた。
海面に浮かべると、船は滑らかに波を押し分けた。風が布を押し、ぐんぐんと速度が上がる。最初は順調だった。
行ける。そう思って沖へ進んだとき、水底から再びあの黒い影が突進してきた。
ドオン、と激しい打撃が船底を突き上げる。生身ではないので機体は揺れるが耐えた。なんとか行けるかと思ったが、運悪く黒い影が当たった衝撃で機体が破損してしまった。激しい揺れで壁に頭を打ちつけ、額から血が垂れた。視界が赤く滲む。
黒い影の正体が見えた。鋭い牙を無数に並べ、ところどころが不気味に光る、赤黒い目を持ったサメのような巨大な魚だ。
「くそっ……やばい……!」
何度も体当たりを受け、船が悲鳴を上げる。このままでは壊される。機体が揺れる中、何か使えるものはないかと必死に模索した。
そのとき、船の物陰から、奇妙な物が落ちてきた。それは、薄い「しおり」のようでありながら、どこか金属質で、不思議な端子をような形をした、見たこともない遺物だった。
焦りながら船縁を掴んだとき、額からケガをして出てきた血が、その遺物に触れた。
遺物と血が結合するように、突如として手が眩い光を放ち始める。
直後、脳裏に無機質で平坦な文字列が直接叩き込まれた。頭の中に情報が組み込まれていく感覚。
『剣 つるぎ(両刃の刀): 両側に刃がついた刀、または広く両刃・片刃の区別なく大刀や刀剣の総称。』
「な……んだ、これ……!?」
頭が割れるような痛みとともに、辞書みたいな表示の膨大な知識の定義が流れ込んでくる。
ハッと現実に戻ると、手の中にずっしりとした重みがあった。先ほどまで無かったはずの、一振りの剣が握られていた。何かわからないが、これならあいつを倒せるかも。
巨大魚が再び口を開けて突進してくる。
シキは苦戦しながらも、サメが攻撃をしてくる瞬間に合わせて、カウンターで剣を振り下ろした。身を削る鈍い反撃の手応え。しかし、血濡れたサメは一度距離を取り、遠くから波を放って攻撃してきた。このままではジリ貧だ。
(効いている……! でも、離れられたら攻撃が届かない。どうする……!)
サメが海面を叩き、激しい飛沫を上げて加速する。
距離を詰められる前に叩くしかない。シキの頭の中に、ひとつの仮説が浮かんだ。
手のひらを一直線にサメへ向け、放つ。
「ーーっ!!」
次の瞬間、手から離れた剣が目にも留らぬ速度で勢いよく弾け飛び、サメの眉間を深く貫いた。
巨大なサメは激しく身悶えしたあと、黒い霧となって消滅し、撃破した。
「やったのか……」
手のひらを見つめる。剣は跡形もなく消えていた。恐ろしいほどの力だ。
最後に、まるでアップデートされたかのように、脳裏に直接新しい情報が入ってきた。この海のどこかに、あらゆる世界の謎を解き明かす『全知全能のタブ』が存在するという、本能的な確信。
だが、安堵の時間は一瞬で吹き飛んだ。
サメが消滅した途端、海面が狂ったように荒れ始め、漆黒の嵐が吹き荒れた。
制御を失った船は高い波に呑まれ、シキを乗せたまま、見たこともない外海へと激しく流されていった。しかし、シキの目には一切の諦めはなかった。




