第6話 地味と言った口が、助けを乞う日
廊下に叫び声が響いたのは、応接間で私が茶を待っていた時だった。
「あの女を呼び戻せ! 今すぐ呼び戻せ!」
怒鳴り声が石壁に反響して、二重三重になって聞こえてくる。ラグランジュ王国の王太子レオナルドの声だ。側近のくせに平然と紅茶を運んできた文官が、申し訳なさそうに視線を落とした。
私は答えない。ただカップを受け取り、一口だけ飲んで置いた。
味が薄い。王国の急発注だろう。管理官が辞したあと、細かな采配ができる者が誰もいないのだ。
「……ヴィクトル公爵閣下。今少々、お時間をいただけますか」
宰相カルヴィンが入室したのは、それから間もなくのことだった。
彼は決裁書の束を小脇に抱えていた。角がきちんと揃えられている。この男は常に揃えながら考える。今日も変わらない。
「お時間はあります。ただ、期限はない」
私の答えに、カルヴィンが微かに眉を動かした。感情が表に出ることのない男が、それだけで驚きを示した。
彼は椅子を引かずに立ったまま、決裁書の一枚を取り出した。
「昨夜、セレスティーヌ・リーデルハイト嬢が出立したことはご存知かと」
「ええ」
「辞表は正式に受理されました。……以上が現状です」
以上、という言葉の重みを、私は反芻した。
カルヴィンは書類をゆっくりと机へ置いた。一枚ではなく、重ねて、だ。上から順に目を落とすと、最上段に赤い文字が見えた。
赤字、二文字。「不要」。
後任選定の上申書だ。半年前の日付。殿下の筆跡で却下されている。
私は顔には出さなかった。出す必要はない。その紙が何を意味するかは、見ればわかる。
「王太子殿下は、呼び戻すよう命じておられます」
「命じて、それから?」
カルヴィンは束の間、答えなかった。
「……手段がございません」
廊下から、またレオナルドの怒声が届いた。今度は言葉にならない。
窓の外では、霧が回廊を白く塗りつぶしている。昨夜の雨が石畳に残った染みがまだ乾いていない。出立した馬車の轍も、もう消えかけていた。
私は眼鏡に指先で触れた。
(昨夜の出立、か)
セレスティーヌ・リーデルハイトが昨夜発ったのなら、今はもうこの王都の境を越えている。
帝国使節団の照会文書は、私の机に三年分積み上がっている。正確には、私が意図的に送り続けた照会の返書が。月に一度では足りず、二度になり、三度になった時期もある。側近のヴェルナーには「また、ですか」と言われた。黙って受け取った。
返書には毎回、同じ筆跡があった。
端正で、一切の省略がない。問いへの答えが過不足なく、余白には必要な補足だけが添えてある。書いた者が何を大切にしているか、一行で分かる文章だ。
それを月に三度読みたいと思ったことを、私は業務照会と呼んでいた。自分に嘘をつくのが私は得意ではないが、それだけは例外だった。
「公爵閣下」
カルヴィンが静かに言った。
「呼び戻す命令は、現状、外交問題になります。リーデルハイト嬢はすでに帝国側の招聘状を……」
「私が出しました」
間があった。
宰相は目を細めた。驚愕ではなく、確認のための表情だ。
「存じています。だからこそ、王国側からは手が出せない。殿下が怒鳴るほど、それは鮮明になる」
廊下の怒鳴り声は続いていた。「地味な女一人に」「なぜ国が止まる」「呼べばいいだろう」。
私はカップを置いた。
「六日前に来た時、管理官室の前を通ったことがあります。書類を抱えた者が何人も出入りしていた。扉の横に小さな棚があって、温湿度の記録簿が並んでいた」
カルヴィンが聞いている。
「あの記録簿の端が折れていました。同じ角、同じ折り方で。全冊。……誰かの癖です」
宰相は答えなかった。ただ、持っていた書類の束を、指先でそっと揃え直した。
私は立ち上がった。
応接間の窓から見えるのは、王宮の内庭と、その向こうに続く通りだ。霧の中に石畳が続いて、馬車が止まっているのが見える。帝国使節団の車輪だ。動かずにいる。
廊下では、まだ誰かが走り回っている。「書式が分からない」「どの部屋の鍵か」「だから言ったではないか」。
七つの魔法錠は、今も沈黙している。
王太子は今日もまだ、引き継ぎ書類を読んでいないだろう。読んでも、一行目の「後任管理官を選定のうえ」で詰まる。後任がいない。なぜいないか。半年前の赤字が答えだ。
「不要」、とだけ書かれた未来が、今ここにある。
私は扉に向かいながら、ふいに口を開いた。
「……外に出ます」
「どちらへ」
カルヴィンの声は静かだった。答えを知っている声だ。
「筋を通す。——彼女に、先に会う」
宰相は何も言わなかった。ただ書類をまた一枚、机の上に置いた。「不要」の赤が上を向いた。
馬車に乗り込むと、ヴェルナーが待ち構えていた。
「ヴィクトル様、出立の準備はよろしいですか。……また照会の件で」
「違う」
ヴェルナーが黙った。
私は窓の外の霧を見た。轍の跡がまだ残っている方向が分かる。昨夜発った馬車が通った道。今から急げば、追いつく距離ではないが、先回りできる宿場はある。
「行き先を変えろ」
「……は?」
「北の街道、ジェリダ宿場だ。夜明けには着く」
ヴェルナーが声を飲み込んだ気配がした。やがて「業務……ですよね?」と確認する声がした。
私は答えなかった。
窓の外で、霧がゆっくりと動いた。
三年分の返書が、鞄の中で重かった。
馬車が動き出した。
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