第5話 氷の公爵が、名を呼びかけて止めた
「——条約の原本が確認できない以上、交渉の場には着けません」
私が言うと、応接間に静寂が落ちた。
王太子レオナルドの眉が跳ね上がる。金髪が日差しを照り返して眩しい。若さと体面だけで動く人間の顔を、私はずいぶん見慣れている。この男も例外ではなかった。
窓の外、王宮の庭園が穏やかに揺れている。今が何の季節か一瞬考えて、やめた。関係ない。
「……帝国の使節団がこちらへいらして早々、そのような物言いをされるとは」
宰相カルヴィンが静かに口を開いた。蒼白な顔に感情はない。この男の淡々とした声が、私は嫌いではなかった。少なくとも、書類を読まずに喚く者よりは話ができる。
「物言いではありません。事実です。不可侵条約の更新期限まで、残り6日。原本の確認なしに署名はできない。——これは規定でございます」
私は眼鏡の縁に指を当てて位置を直した。交渉の顔に戻る。感情は不要だ。
レオナルドが立ち上がった。
「なぜ開かないのか分からんのか! 鍵は揃っているのに扉が——」
「殿下」
カルヴィンが短く制した。それだけで王太子の声が詰まる。この宰相は、書類と沈黙の使い方を心得ている。
私は一度、軽く息を吸った。
この応接間に来る前に、側近のエリクから報告を受けている。禁書庫の魔法錠は、管理官の刻印照合がなければ動かない仕組みになっている。刻印は官職登録と紐付いており、移行には最短でも3か月を要する。聖女の属性光は精密制御型の錠前には効かない。そして——管理官は昨夜、王宮を辞去した。
辞表と共に。
「……失礼ながら、一つ伺ってもよろしいですか」
私は視線をカルヴィンへ向けた。
「禁書庫管理官殿は、どちらへ?」
沈黙があった。
カルヴィンが、手の中の書類の角を静かに揃えた。その仕草だけで、十分だった。
「……昨夜、辞表が提出されました。本日早朝、王都を出立されたと聞いております」
私の隣に立っていたエリクが、何かを言いかけた気配がした。私は視線だけで制した。
辞表。早朝出立。
脳裏に、三年分の文書が一瞬で展開する。
帝国が送り続けた照会に、必ず三日以内に返書が届いた。どれほど複雑な文書の参照を求めても、誤字一つない端正な文字で、必要な情報が過不足なく整理されていた。問いの本質を読み解いた上での回答だった。——ただの管理業務ではない。あの返書を書く者は、文書の意味を知っている。
リーデルハイト伯爵令嬢、セレスティーヌ。
名前を知ったのは一年前だった。エリクに調べさせた。公式の書面には管理官の署名しかなく、長らく担当者の名前すら把握していなかった。
「……後任の見通しは?」
私は声のトーンを変えずに訊いた。
カルヴィンが、一瞬だけ目を細めた。この宰相は観察が鋭い。気づかれたかもしれない。構わない。
「刻印移行まで3か月。後任の選定は——」
彼が懐から紙を一枚取り出した。赤い文字が見えた。
レオナルドがその紙に目をやり、顔色が変わった。先ほどまでの怒声が、水を引いたように消えていた。
「——後任選定は、昨年度の上申の段階で却下されております」
静かな声だった。責めているわけではない。ただ、事実を並べているだけだ。しかしそれが最も残酷だと、私は知っている。
応接間の空気が重くなった。
私は眼鏡の縁から指を離した。
——辞めた。婚約破棄の翌日に、王宮を出た。
三年間、文書越しに追いかけてきた相手の輪郭が、初めて違う角度から見えた気がした。あの几帳面な返書を書いていた人間が、どんな場所で、どんな扱いを受けていたか。
「条約の件は、引き続き協議の余地があるかと思います」
私は立ち上がった。交渉官の顔のまま、一礼する。
「本日のところは失礼いたします」
レオナルドが「待て」と声を上げたが、私はすでに扉に向かっていた。
廊下に出ると、エリクが隣に並んだ。
「……閣下」
「何だ」
「馬車の準備ができております。帝国へお戻りのご予定でしたが——」
「変更する」
私は歩調を緩めずに言った。
「行き先は、王都の東門だ」
エリクが一瞬黙った。
「……それは業務として、でございますか」
答えなかった。
廊下の窓から差し込む光が、床石の上に長く伸びていた。3年間、封書の中にしかいなかった人間が、昨夜この王宮を出た。方角は東。伯爵領へ戻るとすれば——早馬で半日。馬車なら夕刻前後に追いつける計算になる。
「エリク」
「はい」
「照会の返書を受け取ったのは、最初、何年前だった」
エリクがわずかに首を傾けた。
「……3年前の春、と記録にございます。殿下が確認を命じられたのはその翌月で——」
「分かった」
3年前から、あの端正な文字を待っていた。条約の話は、建前だ。最初から、そうだったかもしれない。
口の中に、音にならなかった名前が残った。
「——セレスティ」
喉で止めた。
今は、まだ、言う場所ではない。
馬車が待つ正門へ、私は足を速めた。
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