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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第1章 禁書庫が黙った翌朝

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第4話  残り6日——原本が出なければ

 決裁箱の底に、赤い紙は眠っていた。


 取り出すべき時が来たと分かっていた。分かっていて、それでも半年間、私はその紙の上に別の書類を積み続けた。宰相として果たすべき職務があると言い訳しながら、その赤を見ないようにしていた。愚かなことだと、今なら思う。


「……宰相」


 禁書庫へ続く回廊の、石畳を踏む音が止まった。レオナルド殿下が振り返る。金の髪が朝の光を跳ねかえして、場違いなほど眩しい。昨夜から一睡もしていない目に、その輝きは少し刺さった。


「状況を、整理いたします」


 私は一歩前に出て、手の中の羊皮紙を広げた。


「不可侵条約の更新期限は、本日から6日後でございます」


 殿下の眉が動いた。6という数字を聞いた瞬間の、あの顔だ。理解した顔ではない。現実が追いついていない顔だ。


「……6日」


「6日です。条約原本なしには更新署名は成立いたしません。帝国使節団はすでに王都を目指して移動中と、昨夜の早馬で報告が入っております」


 殿下は口を開いた。閉じた。また開いた。


「ならば扉を壊せ。禁書庫ごと叩き割ればいいだろう」


 予想していた言葉だった。だから驚かなかった。驚かなかったが、私は一瞬だけ目を閉じた。


「殿下」


 隣に控えていた王宮魔法師のルーカスが、書類を抱えたまま静かに口を開いた。白髪交じりの老魔法師は、殿下の言葉を受けても顔色一つ変えない。


「禁書庫の扉は七重の保存魔法で覆われております。強引な破壊を試みた場合、魔法の干渉によって内部の温湿度が急激に変動し、保管された文書の劣化が……まず紙の繊維から崩壊が始まりますので、インクの定着率が低下して筆跡が消え、次に保存媒体の羊皮紙自体が収縮を起こして……」


「待て待て待て」


 殿下が片手を上げた。老魔法師の言葉が止まる。


「つまり」


 殿下は苛立たしそうに言った。


「壊すと、中身も壊れるということか」


「端的に申し上げれば、左様でございます」


 ルーカスが小さく頭を下げる。横でカルヴィンは「殿下には最初からそう言えばよかった」と思ったが、口には出さなかった。老魔法師の解説が丁寧すぎるのはいつものことだ。


 問題は、その後だった。


「……では、リリアーナに任せればいい。聖女の光なら……」


「殿下」


 今度は私が遮った。


 回廊の奥から、神殿の侍祭が一人、こちらを窺うように立っているのが見えた。昨日の失敗を見ていた男だ。私と目が合うと、男は口を開きかけて——閉じた。何かを言いかけて、飲み込んだ。その仕草が、答えだった。


「聖女殿の御力は、治癒と浄化の領域において卓越しておられます。しかしながら禁書庫の魔法錠は精密制御型の術式。これは属性の問題ではなく、刻印照合の問題でございます」


 殿下が壁を拳で叩いた。


 乾いた音が石造りの回廊に反響して、消えた。沈黙が落ちた。


 ここが、感情で押すところではないと私は知っていた。だから声を落とした。


「これは命令ではありません。期限です」


 殿下がこちらを見た。


「命令は覆せます。期限は、覆りません」


 また沈黙。今度は長かった。


 私は決裁箱に手を入れた。革張りの箱の底で、あの紙は今日も待っていた。半年間、待っていた。取り出した瞬間、赤いインクが朝の光に反射した。


 後任育成の上申書。欄外に走った二文字の判断を、私はそのまま殿下の視界の前に置いた。


「……っ、これは」


「殿下がお書きになったものです」


 赤字で記された「不要」の二文字。殿下の筆跡で、殿下の印で、殿下が押した判断が紙の上で静かに主張していた。


 扉を壊す?


 殿下は紙だけを壊すおつもりですか。


 声に出しては言わなかった。言う必要がなかった。赤いインクが、代わりに語っていた。


 殿下の顔から血の気が引いた。あの眩しい金の髪の下で、白くなった顔が、そこにあった。


 これが「命令で解決できる」人間の、期限を前にした顔だ。


 私は書類を静かに折り畳んだ。


「いずれにせよ、解決の糸口は一本しかございません」


 言いかけて——禁書庫の扉の前で、全員が揃って足を止めた。扉は昨日と変わらず、黙って立っていた。七つの鍵穴が整然と並んで、鍵は全て差し込まれたまま、一ミリも動かない。


 国家が、沈黙していた。


 こうなることは、分かっていた。


 半年前に、あの赤を止めていれば——その考えを、私は脳の奥に押し込めた。今更だ。今更悔やんでも、期限は6日のまま動かない。


 後ろで、ルーカスがぼそりと呟いた。


「……それにしても、これほど完璧な刻印の設計を頭の中だけで——」


 誰も答えなかった。


 扉の向こうで、条約の原本は眠っている。


 そして今この瞬間も、帝国使節団を乗せた馬車は王都へ近づいている。


 文官の一人が、震える手で紙を差し出してきた。今しがた届いたという早馬の報告書だった。私は受け取って、目を走らせた。


 一行目で、手が止まった。


 本日到着予定——使節団団長、ヴィクトル・ノヴァルティス大公爵閣下。


 「氷の公爵」と呼ばれる男が、今日、この王都に入る。


読んでいただき、ありがとうございます。


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