第3話 開かない扉に、最初に震えるのは誰?
翌朝、私は王宮に戻った。
理由は単純だ。宰相府への正式退官届は、口頭ではなく書面で直接提出しなければならない。それが規定だ。昨夜のうちに封書はできていた。ただ届け先の受付が開くのは、朝の鐘が3つ鳴ってからだ。
だから戻った。それだけのことだった。
正直に言えば、もう1度あの廊下を歩くことになるとは思っていなかった。回廊に差し込む早朝の光は淡く、石畳がひんやりと音を返してくる。手の中には封書だけがある。7つの鍵がない手が、まだ少し奇妙に感じた。
宰相府へ曲がる手前で、声が聞こえた。
複数人が、慌てた足音を立てている。方角は禁書庫だった。
……聞かなくていい。私には関係のないことだ。
そう思いながら、足が止まっていた。
職業病だ、と内心で結論を出して、ため息をつきながら廊下の角だけ曲がってみた。
禁書庫の扉の前に、すでに10人近くが集まっていた。
文官たちが鍵束を手にしている。正確に言えば、私が昨日机に置いてきた7つの鍵だ。その1本を錠前に差し込もうとしているのが見えた。差し込まれた。回らない。差し込まれた。また回らない。
文官の1人が、首を傾けた。
「……なんで?」
なぜか、という問いが廊下に落ちる。
私は答えなかった。答える立場にない。
鍵は物理的には正しい。だがあの扉の魔法錠は、鍵を差すだけでは開かない。官職登録と紐づいた魔力刻印の照合が通って、初めて回転する仕組みになっている。それは5年前の侵入事件の後、私が改良した仕様だ。
扉の継ぎ目に、古い補強の痕がある。石工の手ではなく、魔法師が後から充填した跡だ。あの痕を見るたびに、私はいつも同じことを思い出す。守るために変えた。それだけだ。それだけ、のはずだった。
「どういうことだ!」
声が割り込んだ。金色の髪が朝の光を受けながら、廊下を大股で歩いてくる。王太子殿下だった。その後ろに、カルヴィン宰相が書類を抱えて続いている。
「刻印が反応しておりません」
カルヴィンの声は静かだった。感情がない、というより感情を計量して使う声だ。
「7本すべての鍵を試しましたが、扉は沈黙しています。刻印照合が通らなければ、あの錠前は開きません」
「魔法師を呼べ、こじ開けろ!」
「壊せば、中の保存魔法が誤作動します。原本がすべて劣化します。紙になります」
殿下が言葉を飲んだ。カルヴィンは続けた。
「扉を壊すことは、禁書庫を壊すことと同義です」
文官たちが黙って下がっていく。人が減ったぶんだけ、扉の前の静寂が広がった。
私は廊下の端で、石壁に背中をつけたまま動かなかった。
白い衣の令嬢が、足音なく前に進んだ。リリアーナ様だった。両手を組み、目を閉じている。祈りの形だ。その手の中に、小さな淡い光が灯り始めた。聖なる光属性だ。
周囲の視線が集まった。誰かが息を詰めるのがわかった。
光が強くなった。白い輝きが廊下に流れた。
扉は、沈黙した。
光がある。輝きがある。そして鍵穴は何も反応しない。
リリアーナ様が、もう1度、まったく同じ角度で両手を組んだ。同じ祈りの形。同じ光。
同じ沈黙。
周囲が固まっていた。誰も動かない。誰も何も言わない。ただ、祈る形の令嬢と、閉まり続ける扉と、凍りついた文官たちの顔があるだけだった。神殿の者が何か言いかけた声が、自分で口の中に戻っていくのが聞こえた。
「……万能なら、まず扉ひとつ開けてみせろ」
殿下が低く言った。
その言葉が廊下に落ちた瞬間、私は胸に何かが刺さるような感覚を覚えた。痛みではない。もっと静かな、認識が変わる感触だった。
今まで「地味で退屈」と言われたのは私だ。鍵束を持つだけの職能だ、と思われていたのも私だ。そのくせ、いざ鍵束がなくなれば、万能とうたわれた光も扉の前で止まる。
逆転は、静かに起きていた。
私が地味と呼ばれた5年間の積み重ねが、今この扉を止めている。
カルヴィンが書類の束から1枚を取り出した。決裁箱の赤字紙だ。赤い文字が、廊下の光の中でも鮮明だった。
「条約更新期限は——残り6日です」
その言葉が廊下に冷たく並んだ。
殿下が何か言いかけて、止まった。
私は封書を胸に引き寄せ、音を立てずに廊下を引き返した。
宰相府の受付に届出書を置いて、王宮を出る。それだけだ。
手の中に、鍵はない。
だというのに、今この廊下で、何かが確かに軋んでいた。
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