第1話 泣かない令嬢は、何を捨てた?
謁見の間に、自分の婚約破棄が宣言された瞬間、私が思ったのは「引き継ぎには3ヶ月かかる」という、まったく情緒のない計算だった。
高い天井から差し込む光が、金髪の王太子レオナルド殿下を眩しく縁取っている。その隣に、白い衣の令嬢が寄り添っていた。涙ぐんだ目が、どこか申し訳なさそうに私を見ている。
「セレスティーヌ・リーデルハイト。余は、そなたとの婚約を解消する。理由は……」
殿下が一拍置いた。言葉を探すふりをしながら、実際にはとっくに決めている顔だった。
「……地味で、退屈だからだ」
広間がざわついた。私は動かなかった。
動けなかった、ではない。動く必要がなかった、だ。
5年間。禁書庫管理官として王宮に勤めた5年間で、私はとっくに学んでいた。感情は飲み込む。仕事は最後まで終わらせる。そして、泣くのは誰もいない場所でだけ、にする。
腰に提げた鍵束が、わずかに揺れた。7つの鍵。7つの魔法錠。私が5年かけて改良し続けた、禁書庫の扉たちに繋がる金属の塊。
握り直したとき、左の手首が少しだけ痛んだ。古い話だ。守るために変えた、それだけの話だ。
「……承知いたしました」
声は平坦に出た。自分でも驚くほど、きれいに。
「鍵束と管理簿は、執務机へ戻してまいります」
また広間がざわめいた。今度は違う種類のざわめきだった。
すがりつくはずの令嬢が、業務連絡を口にした。それだけのことで、謁見の間の空気がどこかおかしな形に歪んだのを、私は背中で感じた。
「待って。争いにならなかったのは……よかった、ですよね」
リリアーナ様が、安堵したような声で言った。殿下の腕にそっと手を添えながら。
私は心の中でだけ、首を傾けた。
(争い……?)
最初から、そんな元気は残っていなかった。5年間でそれを使い切っていた。上申書を出すたびに戻ってくる赤い文字を、何十回見ただろう。今も瞼の裏に焼きついている、あの赤い2文字が。
――不要。
赤字で斜めに走った文字は、いつも短かった。それ以上の言葉をかけるに値しない、という態度がそのまま形になったような字だった。
「礼を」
私は腰を折り、頭を下げた。婚約者として最後の礼を、完璧な角度で。
そして顔を上げたとき、もう鍵束を外し始めていた。
音を立てないように、指の腹だけを使って、ひとつひとつ丁寧に。リングから外れた鍵が手の中に収まるたびに、7つ分の重さが腕に移ってくる。
鍵束は私のものではない。官職に付随する備品だ。辞表を出せば返却義務が生じる。だから、返す。それだけのことだった。
「……あの、セレスティーヌ様?」
誰かが声をかけた。文官だろうか。よく知らない顔だった。
「執務机に置いてから、退室いたします」
「いや、そういうことではなく……」
「では、どういうことでしょう」
返答がなかった。私は最後の7番目の鍵を外し終えて、手の中のそれをまとめてきつく握った。
冷たかった。いつも冷たい。夏でも冬でも、鍵だけはいつも同じ温度だった。
5年間、毎朝握った感触だ。
(……最後まで、やり遂げてから去る)
価値観は変えない。それだけが、私の誇りだった。
広間を歩いて出るとき、後ろから声が聞こえた。殿下の声だった。
「……なんだ、あれは。普通、もっと泣くだろう」
私は振り返らなかった。
泣く、という選択肢を、私はずいぶん前に引き出しの奥にしまい込んでいた。どこの引き出しかも、もう忘れた。
回廊に出ると、石の床を踏む靴の音だけが響いた。
手の中の7つの鍵が、私の歩調に合わせてかすかに鳴いた。
執務机に戻ったら、管理簿を並べる。引き継ぎ注記を最終確認する。辞表を封書に入れて封蝋を押す。それから、退室する。
やることはすべて決まっている。決まっていることをひとつずつ終わらせていけば、終わる。
ただ、終わる。
回廊の窓から、王宮の庭が見えた。見慣れた景色だった。今日が最後だと思って見ると、何も変わらない景色なのに、どこか違う重さで目に入ってきた。
私は視線を戻した。前を向く。
誰もいない廊下を、私は1人で歩いた。7つの鍵を手に握ったまま。
それが、何を止めているのか。
そのことを、今は誰も気にしていなかった。
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