最終章 荒らし事情
「あ~め~に、ぎょ~せん」
時計は朝の九時半を示したところだ。俺は軽トラに乗りながら、車の上に取り付けた拡声器から流れる声を聞いている。声はテープレコーダーからえんえんと繰り返される。うちの社長のお母さん、先代の社長の声らしい。
俺の仕事は、『ぎょうせんアメ』といううちの自社ブランドである水アメを売ることだ。そのために、こうやって街中を軽トラで走って宣伝しているのだ。自社ブランドといっても別に大きな会社ではない。社員は俺を入れて二人で、社長と経理の奥さんがよく「儲からない、儲からない」とぼやいているような、小さな店だ。そして水アメは、ここ三ヶ月で一瓶売れたきり。縁日の前にはある程度店に注文が入るらしいけれど、平日こうやって街宣車で走っても利益は出ない。今どき水アメなんてそんなに必要ないよな。甘いのが欲しければいくらでも菓子はあるし。コーヒーには砂糖かシロップだし。わざわざ水アメをチョイスする必要がないし。売っている俺ですら、これといった使い道をイメージできない。そして今日も俺は、その売れない水アメを売るために営業中。
でも、宣伝も兼ねてもう一度いっておくと、縁日では重宝されるみたいだ。大量に使うのに使い勝手がいいんだろうな、うちの水アメ。
◇
いつもと同じように売れないまま、正午になった。一応、一時間の食事休憩を入れることになっている。水アメは売れないが特にノルマはなく、プレッシャーは感じないので、普通に休憩を入れる。
食事もそこそこに、携帯ケースから愛用のスマートフォンを取り出す。俺の趣味であり、恐らく一生のライフワークとなるであろうもの。俺はある複合巨大掲示板に潜む「荒らし」である。
俺のやる荒らしを簡単に説明しておくと、何かの書き込みに対しとにかく因縁をふっかけて、相手を罵倒していらいらさせてやるのだ。そしてそれを想像して悦に浸る。
なんでそんなことをやっているのか。仕事のプレッシャーはない。しかし日々、朝出掛けるときと変わらない数の水アメの瓶を会社に持ち帰るたびに、己の無能さを実感するのだ。そんな仕事の憂さを晴らすために、荒らしにはまり、その快感を覚えてしまった。
ふと、奥さんの口癖、「儲からない」が俺への叱責の声に思えた。もしかして俺へのプレッシャー? 今、気づいた。急に圧迫感を覚える。いかん、いかん、ネットに集中しなければ。
早速、獲物を見つけ、罵倒してやる。相手がいらいらしているのが分かり、悦に入る俺。バックミラーを見ると、いやらしい笑い顔をした俺がいる。
やっておいてなんだけど、荒らしは悪いことだと思う。そして他人の悪口を書くことは、麻薬と同じ効果があると思う。背徳感。快感。良くない脳内麻薬が本当に出ているのだろう。一時は本気で辞めようと思ったこともある。だけど、脳が知ってしまったこの快感を捨て去ることはできなかった。完全依存。そして今も、俺のどこかが蝕まれているのだろう。
◇
定時になったので、店に戻る俺。水アメの瓶の数は変わらない。
「ただいま戻りました」
「お帰りー」
奥さんが電卓を打ちながら声を掛けてくれる。
「売れた?」
「いや、ぜんぜん。はは」
「だよねー」
奥さんにいつもの報告をして、帰る準備をする。すると奥さんが、何やらぼそぼそと社長に口ばせしているのが目に入った。もしかして、俺のことか? 俺の進退? 圧迫感が押し寄せてくる。ぐ、いかん。早く帰って、ネットのつづきをしなければ。
「お疲れ様でした」
「はい、お疲れー」
店を出る際、後ろから「儲からない」と聞こえた気がした。
◇
自宅のアパートの部屋に着くと、すぐに服を脱いだ。今は梅雨時。車の中の湿度もなかなかのものだ。汗ばんだ体をシャワーですっきりさせたい。
地方の県庁所在地で家賃三万円。こんな安さでも一応ユニットバスは付いている。学生のときから十年間住んでいる、築二十年だかの安普請のアパートだ。
金がまったくないというわけじゃない。店には手取りで一七万貰っている。二八歳でこの額が大したことはないのは知っているが、アルバイトを転々として、去年ようやくありついた仕事だ。文句はまったくない。酒も飲まないし煙草もやらない。彼女も友達もいないので、交際費もかからない。趣味といえば、というかライフワークは荒らし。飯代と光熱費と家賃以外に携帯代さえあればいい。だから一万くらい家賃に上乗せすることは問題ない。貯金すれば引っ越すことは可能だろう。
だけどそんな気はさらさらない。なぜか。こんな俺には、このくらいのアパートが丁度いいからだ。これ以上は望むべくもないのだ。
いつからだろう。俺はこのくらいだと思うようになったのは。学生の頃は、どうせこのアパートを出るのだと思っていた。不況とはいえ、なんやかんやでそれなりのところで働いて、それなりの生活をして、それなりの家に住むのだと。大きな夢や野望もなかったけれど、それなりの生活をするのだろうと。
だけど俺のそれなりはここだ。そして今日のそれなりの夕飯は、さっきコンビニで買ったチキン南蛮弁当だ。まあ、うまいし、ボリュームもあるし、文句はないけれど。
◇
「腹いっぱい」
弁当を食べ終え、作り置きの麦茶を飲む。ごろんと横になる。そのままの姿勢で手を伸ばし携帯ケースを引っぱり寄せ、スマートフォンを取り出す。複合巨大掲示板にアクセスし、芸能ニューストピックスの一覧を見る。
「む」
またこの声優か。ずらりと縦横に並ぶニュースタイトルの中で、その声優のニュースタイトルが変色している。一度タイトルをクリックすると他との差別化を図るため、色が変わる仕組みになっている。俺は既に昨日、そのタイトルをクリックしていた。
タイトルは書き込みができる掲示板にリンクされている。その掲示板に書き込みをすると、タイトル一覧の中でそのタイトルが一番上に来るシステムになっている。そして、その声優のニュースタイトルは書き込みがされたばかりなのだろう。目に付きやすい上のほうに来ていたのだ。
タイトルは『アイドル声優、橘愛子、一日店長で声裏返る』。内容は、声を生業とするアイドル声優が一日店長の挨拶で緊張して噛んだっていう、くだらないゴシップだ。
「くそ」
思わずスマートフォンを握る右手に力が入る。頭の中に不快なストレスを押し付けられるのが分かる。鍋底にこびりついた焦げのように、いつまでもいらつきは消えてくれない。このいらつきの原因は一ヶ月前に遡る。
◇
それは俺が、深夜にこの複合巨大掲示板で、橘愛子のニュースタイトルの掲示板をなんの気なしに覗いたときのことだ。ニュースタイトルはしっかり覚えている。『若手声優、橘愛子、びびっと歌手デビュー!』だ。
その掲示板の書き込みは、友好的なものが多く、ほとんどはファンのものと思われる橘愛子を賞賛するものだった。
この和やかで甘ったるい空間をぐちゃぐちゃにかき乱したい。そんな荒らしの血が騒いだ俺は、欲望に忠実に、暴言という爆弾を投下した。
ファンA「やっぱ橘愛子は可愛いわ」
俺「出たよ。信者が」
ファンA「別に信者じゃないけど、好きで悪いか」
(食いついてきた。悪いな、これからおまえをぼこぼこにするわw とりあえずおまえの名前はファンAな)
俺「悪いというか、おまえの趣味は悪いな」
ファンA「橘愛子好きでどこが趣味が悪いんだよ。俺趣味いいほうなんだけど」
俺「あんな女、崇拝しといて、どこが趣味がいいんだよwww おまえの趣味がいい証拠出してみろよ」
ファンA「おまえ、ネット弁慶だろ」
(あ? ちょっといらっときたわ)
俺「はあ? ここも社会の一部なんですけど。それより俺の質問に答えろよ!」
(荒らしにも色々あるのだろうけれど、俺はこのやり方を使っている。「質問に答えろよ」作戦。とにかく質問攻めして、答えさせ、俺の命令を聞かせてやっているという優越感に浸る。そして相手が答えづらい質問で答えられなくなったら罵倒する)
ファンA「本当の社会じゃ責任を持たずに発言できないんだ。 悪口ばっか書きやがって。ここは社会じゃない!」
俺「責任は持ってる! 捕まる奴だっているんだ! それより俺の質問に答えろよ、こら」
ファンA「見えない相手を中傷することのどこが責任だw 責任がないから中傷できるんだろうが。ここは社会じゃない!」
俺「いーや、この世に存在するものは、存在する以上社会の一部。全てリアルなものだ。それより俺の質問に答えろよ、うそつき君www」
(あ、俺、うまいこといったな。どうよ?)
ファンA「じゃあ、バーチャルゲームの世界はリアルなのか?」
俺「意思を持ってこの世に存在しているものは全てリアルなものだ。それより質問に答えろよ」
(よし、またうまいこと返した。どう答えるよ、あ? でもなんかこいつ面倒くさいな)
ファンA「じゃあ、やかんは意思を持っていないからリアルじゃないのか?」
(……え。やかん? 確かにやかんは意思を持っていない。でも現実に存在するものだ。あれ? 俺の書いたことが矛盾している。なんだ、こいつ、頭いいぞ。やばい奴に粉掛けてしまったんじゃ。くそ、こういうときは無視だ)
俺「それより俺の質問に答えろよ。答えられないの? うそつき君。自分の発言くらい責任持てよ。答えられないなら発言するなwww」
ファンA「あれえ? 答えられないの? 自分の発言くらい責任持とうよw 俺の質問に答えろよw」
(やばい。立場が逆転してる。こいつ余裕かまし始めた)
それから俺は意地になって、「質問に答えろよ」を繰り返したが、質問に答えられないのは俺のほうであるのは明白で、無様な醜態を晒しつづけた。しかし頭にきていた俺も、引かざるを得ない状況に追い込まれていた。時間だ。もう明け方四時。眠いし、四時間後には出勤しなければならない。正直、焦っていた。そこへファンAから、俺が欲しがっていた餌の付いた釣り糸が垂らされた。そう。釣り糸が。
ファンA「答えてくれたら、俺も答えるのに。俺、答えあるんだぜ?」
(ふう。どうせこいつも時間が迫っていて、焦っているのだろう。いいぜ。お互い適当に答えて手打ちにしようや)
俺「ま、やかんはリアルだわな。意思があろうがなかろうが。ネットもそれと同じ」
(よし、答えたぞ! おまえもなんか無理やり答えろよ! それで、手打ち! 手打ちな! あ~、やっと開放される~!)
ファンA「よ~しよし、よく俺の命令に答えたな。おまえは俺の命令どおりに従ったわけだ。おまえは、自分で俺を自分のご主人様だと認めたわけだ。そんな下僕になんか何も教えてやらねえよwwwwwww バーカバーカ」
(は?)
ファンA「じゃあ、俺、すっきりしたから寝るわ。いい夢見れそうw おまえもいい夢見ろよw ばっははーいwwwwwwwww」
(なんだ、こいつー! ふざっけんな!)
俺「おい、俺の質問に答えろよ! 嘘つき野郎! 恥ずかしくないのかよ!」
その後、十分くらいファンAを挑発しつづけたが、恐らくもう、ここにはいないのだろう。まったく反応はなかった。ファンAが本当にすっきりして気持ちよく眠りについたのがリアルに想像でき、俺はとち狂いそうなほど頭にきた。
「んも~、大嫌い! こいつ嫌い!」
スマートフォンに向かって大声で叫んだ。薄壁のアパートであることを忘れるほど怒り狂っていた。しかし怒りはそのままに、結局寝ることもできずに出勤し、その日は最悪の一日となったのだ。匿名掲示板が故に相手を特定することはできず、仕返しもできないまま今日に至る。
◇
あれから思い出したくもないのに、橘愛子のニュースタイトルを見る度に、パブロフの犬のごとく怒りと屈辱を思い起こされる。不幸なことに橘愛子は、時折テレビに出るほどの人気声優で、定期的に取り立たされるのだ。この複合巨大掲示板で芸能ニュースをチェックする限り、見たくなくとも勝手に目に入ってくる。じゃあ、ここに来なければいいのだ。しかし、唯一の憩いの場でもあるここを離れることはできない。だいたい、あんな屁理屈野郎のせいで、俺の大切な場所から追いやられてたまるか。
「はあ」
深い深い溜息をつく。どうしたものか。このままでは一生、この脳天を掻き回されるようないらつきと付き合っていかなければならない。
「あの野郎。橘愛子の掲示板なんか見たくもない」
そういいつつも、掲示板のコメントに目を通してしまった。どうしようもない。しかし、コメントの中に橘愛子のコミュニティーサイトの情報を発見すると、ある閃きが生まれた。
「あいつ、そのコミュニティーサイトにいるんじゃ」
このままだと俺は、一生、このいらつきと敗北感を背負っていかなければいけない。興味も何もなかった橘愛子から、最悪の気分を思い起こされる。だったら、あいつを見つけて、今度こそこてんぱんにのしてやる。そして、この敗北感を勝利感に塗り替えるのだ。
◇
思いついたが吉日。早速、橘愛子のコミュニティーサイトにアクセスしてみた。
なるほど、ファンの憩いの場となっているわけか。ずらりとファンのハンドルネームと橘愛子を賞賛する書き込みが並んでいた。いらっとくる。しかし来たはいいものの、この中のどいつがあいつかわからない。
そこで、事前に仕入れてきた橘愛子の黒い噂を書き込んでみた。
俺「この間のアニメのアドリブだっていってたセリフ、やらせだったらしいな。売名行為。だっせw」
さあ、食いついてこい!
勢い込んで、荒らしという釣り糸をこのコミュニティサイトに投げ込んだ。しかし、すぐには誰も反応しない。だから連投した。
俺「いや~、スターになりたくてそこまでやるかね。根性ウンコなんだろうなw おまえらも分かってるから反応しないんだよな」
俺「結局、金でしょ。おまえらの夢を金にして、騙して奪ってるわけ。同情するわ。あんなのに騙されてwww」
そんなことをえんえんと書きつづけたが、反応するのは俺と同じ荒らしで、俺に便乗して橘愛子の批判をする奴だけだった。期待を裏切られた俺は、焦る。
こいつら、温厚な羊か。どうしたものか。そこで俺は、別の黒い噂を書き込んでみた。
俺「橘愛子は昔、売春していた便器女だw」
さあ、どうでる羊たちよ。
するとすぐに食いついてきた奴がいた。
2xy「昔のことなんて関係ねえんだよ! 橘愛子を否定する奴は、けちょんけちょんにしてやんよ!」
にやりとした。いいねえ。感情的になってて。手始めにこいつを血祭りにあげてやろう。
俺「え、てことはおまえ、橘愛子が便器だって認めてるわけw なのに応援すんの? すげーwww おまえ、なんて便座?www」
2xy「匿名性を利用して悪いことするのは、やめろ! リアルな社会じゃ何もできないくせに!」
そのとき、俺のセンサーが反応した。社会だ? 何かあいつと同じ臭いがするぞ、こいつ。
期待に胸が高まり、スマートフォンを持つ手が震える。落ち着け俺。一旦スマートフォンを置き、深呼吸をする。そして再びスマートフォンを持つと、かまをかけた。
俺「はあ? ここも社会の一部だろうが。意志を持って存在しているものは、リアルなんだよ」
2xy「じゃあ、やかんは意志を持ってないから、リアルじゃないのか?」
その瞬間、俺は狭い部屋の中で飛び上がった。
こいつだー! 見つけた! 見つけたぞ、このやろう! 絶対、こいつだ! 2xy? 数学が得意なのか、こいつ。変に頭回りやがって~。
俺は歓喜に打ち震えた。この獲物を逃がしてはならない。これからの行為が俺の一生を決めるのだ。絶対逃がさないぞ、てめえ。
そこから俺による2xyへの集中砲火が始まった。俺はもう「質問に答えろよ」は使わずに、こいつの怒りの導火線となっている橘愛子の黒い噂を書くことだけに集中した。
どうだ、いらいらするだろう。だが俺のいらいらはこんなもんじゃねえぜ~。この俺を傷つけたことを一生後悔させてやる。
そして、俺が思っている以上に2xyは激情していることが書き込みから見てとれた。こいつよほど橘愛子が好きなんだな。ざまあみろ。
2xyの激情具合から、俺の圧倒的有利が手に取るように分かる。俺は嬉々として、連日書き込みをつづけた。痛快、痛快。毎日が楽しい。
しかし、他にも怒って反応する奴はいるけれど、2xyだけは何故かいつも俺が書き込むと、すぐに反応してきた。試しに時間帯をずらして書き込みをしてもすぐに反応してくるのだ。こいつニートか? まあ、いいけどね。今回は俺の空いている時間に書き込んでいじめてやるだけなので、俺にはまったく負担がない。2xyが音をあげて書くのを止めるまで俺が止めなければ、負けることはない。
超圧倒的有利。2xyよ。いや、サンドバッグくんよ。これからも俺の好きなときに打たれつづけろよな。
俺は快感に酔いしれた。仕事が休みの前日はうきうきした。徹底的に2xyを打ち続けられるからだ。
正直な話、仕事を放り出して荒らしに集中したかった。仕事場は車の中だ。どうせ水アメも売れない。だから、さぼってもばれないだろう。だけど、それはできない。いずれ首になるにしても、大学を卒業してからアルバイト以外で特に職歴や資格もない自分を雇ってくれた、社長を裏切るわけにはいかない。俺は最低の荒らしだけど、最低にも階層があると信じている。最下層に行ってはならない。
◇
楽しい日々がつづいた。つまらない仕事をしていても2xyのことを思い出すと、張り合いが出てきた。あのサイトに行けば、俺を待ってくれているあいつがいるのだ。
しかしなんでだろう。あれから四週間もこんなことをつづけてきたけれど、橘愛子のコミュニティーサイトに書き込む度に、むなしさを感じ始めていた。原因はなんとなく分かっている。俺の目的は2xyをやっつけることであり、橘愛子を罵倒することではないからだ。
そんな俺の気持ちを察するかのように、2xyが書き込んできた。
2xy「俺への悪口は百歩譲っていい。でも、橘愛子の悪口は止めろ」
俺「なんでそこまで他人のためにがんばれるんだよ」
知りたかった。俺の原動力はおまえへの怒りだ。だからつづけてこられた。だけどおまえはなんで朝も昼も夜も、橘愛子を擁護しつづけられるの? たぶん2xyは、橘愛子の事務所の人間とか、身内なのだろう。そう思うようになっていた。しかし、2xyの返事は違っていた。
2xy「ファンだからだよ。好きな人が傷つけられたら、誰だって嫌だろ。おまえは違うの?」
俺はぽかんとした。すぐには意味が理解できなかったからだ。
え、それだけ? だからそんなにがんばれるの? もっと、こう、なんていうか、肉親だからとか、関係者だからとか、近い関係にあるから、むかついてたんじゃないの? え、それだけなの? ファンだから? 本当にただのファン?
その書き込みに反応できなかった。何かを書き込もうとしたが、何も思い浮かばなかったのだ。
好きだからか。そんなに橘愛子のことが好きなのか。でもそうか。俺が荒らしで傷つけた誰かは、誰かの好きな奴かもしれないのか。大切な奴かもしれないのか。
2xyの情熱がそうさせたのだろう。俺はスマートフォンを片手に、ふと思いを巡らせた。昔を。目をつむり、誰かに恋をしていたときを思い出してみる。
そういえば、俺が大学生のとき、うちの近くに住んでいたあの子は元気だろうか。あの子も名前に愛がついていたな。確か愛音ちゃんていったな。優しい子だった。俺が今のアパートに来たばかりの頃、アパートへの道が分からず迷っていたら、親身になって話を聞いてくれて一緒にアパートを探してくれた。見ず知らずの俺と一緒に。会えば、必ず向こうから挨拶をしてくれた。俺の方から先に挨拶をしようと思っていたけれど、いつもタイミングが向こうの方が早かったんだよな。笑顔が可愛い、いい子だった。確か完全防音の家に住んでるとかなんとかいってた。珍しいよな。会わなくなって久しいけれど、今、何をやっているんだろう。
あの子の顔を思い出してみる。よく思い出せなかった。でも思ってしまった。
あの子が傷つけられたら、嫌だな。そう思ってしまった。
止めなければ、負けることはない。この四週間、ずっとそう思っていたけれど。
瞼を開き、もう一度スマートフォンと対峙する。最後の書き込みをするために。
俺「悪かったな。橘愛子が売春やってたとか、嘘だよ。俺がその噂の情報源だからな。嘘流してすんませんでした」
せめてものお詫びにそう書いて、そのコミュニティーサイトを去った。本当に俺が情報源なわけじゃないけれど、そう書いておけば2xyが、売春の噂は嘘だったのかと安心できるように。
◇
部屋の中で、両手を頭の後ろに組み、寝ころんで天井を見る。結局、また2xyにやられたな。やられたけれど、後味は悪くなかった。
「辞めるか。荒らし」
果たして、あの快感を忘れられるだろうか。分からない。
時刻は夜の七時過ぎ。腹が減ってきた。
「コンビニで弁当買ってくるか」
財布を持って玄関に向かった。そして玄関のドアを押し開いた。
「おー」
思わず声を上げた。ここはアパートの二階。そこから山間に美しい空が見えた。
「青空にオレンジの雲かあ。いいね」
空は爽やかなスカイブルーで、直に雲に着色したかのような鮮やかなオレンジ色の雲が浮かんでいた。雲に影はなく雲そのものが発色しているかのようだ。
きっとたくさんの人がこの空を見上げていることだろう。この瞬間を共有していることだろう。あの子も見ているかもしれない。2xyにも見せてやりたいな。あんないい奴となら友達になりたい。
「やっぱ辞めよう、荒らし。うん。いい空見れたし。うん」
辞めるなら今しかない気がした。
◇
それから俺は荒らしをしない、俺にとっては不自然な日常の中で仕事をした。
あいかわらず水アメは売れない。つまらない。だから思ったのだ。なんとか水アメを売ろうと。特別な案はないが、とりあえず売り回る時間帯を長くしてみてはどうかと思った。それを早速、社長に相談してみた。まあ、どうせ自分ごときの提案など一笑に付されて通りっこないんだけど。
「いいんじゃないかな。やってみなよ」
「え」
まさかすぐに採用されるとは思っていなかったので、驚いた。経理の奥さんが口をだした。
「でも売れるかしら。今どき水アメなんて、縁日前くらいしか売れないわよ。敗戦処理じゃない」
は、敗戦処理って……ひどいな。
「でも須崎くん、やる気みたいだし、案外、うまくいったりしてな。やってくれるかい?」
社長はやる気らしい。びっくり仰天だ。自分の提案が受け入れられるだなんて。
「はい。やらせてください。なんとか売ってみせます。あ、絶対じゃないですけど」
俺らしくもない、覇気のある声を出して答えた。大きな自信があるわけじゃないけれど、期待してもらえるのなら、がんばってみよう。いろいろ考えてみるんだ。
それにしてもうちの会社、水アメ以外に何をやっているんだろう。
「まあ、いいか」
朝七時。営業するにはすごく早い時間帯だけど、一応、社長の許可を得て、軽トラで回ってみることにした。もしかしたら早起きのじいちゃん、ばあちゃんとかが懐かしの水アメを買ってくれる可能性もあるんじゃないかと思い。何事もやってみなくちゃわからない。時間帯の統計も取ってみよう。
「うし。行こう」
エンジンをかけ、勢い勇んで出発だ。
ところでスマートフォン。今はあまり使っていない。代わりに読書する時間が増えた。似合わない経営戦略とか営業の本とかを結構読んでる。
「元気良く、愛想良く!」
そう大声でいったとき、後方から俺を呼び止める声が聞こえた。え、早速? ついてるじゃないか。
車を端に止め外に出ると、髪の毛がぼさぼさの、やけになまっちろい青年が来た。息をぜいぜい切らせている。
「あ、あの」
「はい」
疲れて両手を膝の上に置いている青年に答える。アメ、買ってくれるのかな。若干、訝しがる俺。
「ぎょうてんってなんですか」
「ぎょうてん?」
ああ、「ぎょうせん」を「ぎょうてん」と聞き間違えてるのか。たまにいるみたいだな。なんだ、客じゃないのか。残念。
青年の目を見る。息も絶え絶えで、声も掠れていたけれど、やけに目が輝いている。
ま、いっか。
「ぎょうてんじゃなくてですね」
快く(こころよく)答えてあげよう。この人も何かを見つけたに違いないから。もしかしたら、あの空を見たのかもしれない。
〈了〉
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