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第三章 奇妙な二人暮らし

 深夜0時ごろ、親友の晃平は酔い潰れて眠ってしまっていた。晃平の傍らには神棚代わりの踏み台があり、その上には晃平が起業のためにと貯めた、軍資金の五百万円と銀行のカードと手帳が無造作に置かれている。


「バカだなあ。俺がこれ盗んだらどうするんだよ。お人よしだよ。こんなんで会社大丈夫かあ? 俺、借金あるんだぜ」


 俺は悪い顔をして、ゆっくりと晃平を見下ろす。


「親に二万だけど。だはは」


 俺はほろ酔い加減で、晃平が成功への第一歩を踏み出したことへの喜びの余韻に浸っていた。先ほどまで、そのことを祝して二人で宴会を開いていたのだ。


「あ~、楽しい」


 そのときだった。

 町内放送が流れてきた。閉めきった部屋の中にもよく響く音だった。


「夜分遅く申し訳ありません。町内会です。高岡貴子さんのお子さんで、小学二年生の唯ちゃんが行方不明になっております。服装はピンクのセーターに白いスカートを履いていたそうです。お心当たりのある方は、XXX―XXXXまでご連絡ください」


 それを聞いて、俺は酔いも覚め、失踪したその子を探しに町内を歩いて回りたくなった。

 今頃、町内会の人たちが夜警と化して、その子を探し回っていることだろう。微力ながら俺も力を貸したくなったのだ。

 しかし、晃平は眠ってしまっていて、今この部屋には晃平の大切な五百万円がある。

 晃平の部屋の鍵を探してみたが、どこにも見当たらない。このまま、このアパートの部屋を出て行って、泥棒にでも入られたら事だ。だが、失踪した子のことも気になる。

 そこで俺は、この五百万円と銀行の手帳とカードを持って外に出ることにした。これなら盗まれる心配はないし、晃平が目覚めたとき、俺が金と共にいなくなっていることにびっくり仰天することを考えると面白い。

 そう思い、五百万円と銀行の手帳とカードをリュックの中に入れ、それを背負い部屋を出た。出る際に玄関の靴箱の上に、車のライトなどに反射する蛍光塗料のなされてあるたすきがあったので、借りることにした。


「あばよ。晃平。俺はこれでドロンだ」


 俺はわざと悪ぶってそんなことをいってみた。まあ、晃平が起きるまでには、俺も戻っているだろうけど。


   ◇


 町内をさまよっていると、懐中電灯を持った数人の夜警らしき人たちが、街灯の下でぼそぼそと情報交換をしていた。俺はそれを尻目にまた歩きつづけた。

 携帯で時間を確認すると、もう三時間ほど経っている。さすがに歩き疲れてきたな。

 そう思っていると、前から子供を背負った女性が歩いてきた。

 俺は注意深くその背負われた子供を見た。眠っているようだ。ちょうど小学二年生くらいの背丈で、町内放送でいっていたピンクのセーターを着ているのがわかった。髪はツインテールだったので女の子だろう。


「あの、なんですか?」


 俺が凝視しているのがわかったのだろう。女性の方から声を掛けてきた。


「いえ、あの、先ほど町内放送があって、女の子が行方不明になっているらしくて。あなたが背負っている女の子に容姿が似てるんですよね」


 俺は少しドキドキしながら答えた。


「え、そんな放送あったんだ。その行方不明の女の子の名前いってましたか」

「ええ、高岡唯ちゃんだったと思います」

「ああ、この子ですね」

 その女性は困惑した表情で背負った女の子を見ながらいった。

「放送聞いてなかったんですか」

「うち、完全防音だからなあ」


 完全防音?


「失礼ですが、あなたは?」

「私は唯ちゃんの叔母で、唯ちゃんは私の姉の子なんです」


 叔母といってはいるが、とても若く見えた。暗がりではっきりとはわからないけれど、街灯に映し出されるその姿から、少なくとも二十代前半ではないだろうか。


「この子、お姉ちゃんには、いってあるっていってたのになあ。ちょうど今、姉のところに連れて行く途中だったんですよ」


 俺は本当かな? と疑った。完全防音の家? まあ、そういう家もあるんだろうけど。


「なんですか? 疑ってるの? なんなら一緒に付いてきてくださいよ」

「はあ、そうします」


   ◇


 暗がりの町中をしばらく歩いていたが、気になることがあったので女性に声を掛けた。


「あの」

「なんですか」


 疑われているのに腹を立てているようで、女性は不機嫌そうに答える。


「重いでしょう。俺が背負いますよ」


 そういうと、今度は向こうが俺に疑いの目を向けてきた。


「いいです。うちの大事な姪を見ず知らずの人に任せられませんから」


 そうはいうものの、やはり小学二年の女の子ともなるとそれなりに体重もあるようで、重そうにしている。外套の下を通ったときに、うっすら汗を掻いているのが見えたのだ。


「心配しないでください。俺、変な奴じゃないですから」

「じゃあ、そのリュック、私が持ちます」

「え、これは駄目です。友人の大切なものが入ってるんです」


 突然の申し出に俺は驚いた。さすがにこれは渡せないだろう。


「なんですか。じゃあ、私の姪はそのリュックの中身よりも大事じゃないというんですか? それって失礼じゃないですか」


 え、そういうことになるのか? そういえばそうだな。


「交換条件です。私の大切な姪を背負いたいなら、その大切なリュックを渡してください。私だって変な奴じゃないです」


 これは困った。どうしたものか。見ず知らずの人にこの晃平の軍資金の入ったリュックを渡すことはできない。そう考えてみればこの女性のいうことは、至極真っ当なことのように思える。この女性は本当にこの子の叔母かもしれない。

 しかし、本当に重そうにしている。どうしたものか。


「じゃあ、こうしましょう。このリュックをあなたに預けます。その代わり、このたすきをしっかり握っていてください。俺はこれを腕にかけてその子を背負いますから」


 そういって、肩にかけていた蛍光反射たすきを腕にかけて見せた。


「わかりました。私、絶対離しませんから」


 その言葉を聞いて、俺は安心した。


「はい、お願いします」


 俺は眠っている唯ちゃんを背負い、彼女は俺のリュックを背負いぎゅうっとたすきを握る。そうしてしばらく歩いていると、女性が尋ねてきた。


「このリュックの中に何が入っているんですか?」

「え、それはいえません。とにかく大切なものです」

「そうですか」


 さすがに中に大金が入っているということはいい辛かった。金は人を魔物に変えることがあるからなあ。


   ◇


 やがて唯ちゃんの家に着き、女性が玄関のチャイムを鳴らした。するとすぐにこの子の母親であるお姉さんが出てきた。


「お姉ちゃん、ごめん。唯、ずっとあたしの家にいたんだ。唯もお母さんにはうちに来てることいってあるからっていうから」

「あらあ、そうだったの。愛音、こっちに帰ってたのね。この子ったら。本当にみんな心配してたんだから」


 お姉さんはそういうと涙ぐみながら、俺の背から唯ちゃんを受け取った。


「あの、こちらの方は?」

「えっと、俺は」

「この人は、町内放送を聞いて唯のこと探して回ってくれてたんだよ」

「まあ、そうだったの。本当にご足労かけて申し訳ありません。ありがとうございます」

「町内放送のこともこの人が教えてくれたの」

「ああ、そういえばあなたの家、完全防音だったわね」


 ここでも完全防音という言葉がでた。どういう家なんだろう?


「ちょっと、上がって行ってください」

「いえ、あ、でもすみませんが、おトイレ貸してもらえませんか?」


 晃平と大量に酒を飲んだせいか、さっきからトイレに行きたかったのだ。お姉さんは快く貸してくれた。

 トイレから出ると、お姉さんがお茶とお菓子を用意しましたからといってきた。でももう明け方近くになっているし、早く晃平の元に戻りたかったので断りを入れた。それより、さっきの女性の姿が見えないことが気になった。


「あれ、ところで妹さんは」

「え、帰りましたけど」

「ええ?」


 俺は、すっとんきょうな声を出した。


「リュックサック持ってませんでしたか?」

「ああ、そういえば」


 なんてことだ。俺は慌てて外に飛び出した。家の前の通りの左右を見回してみたが、どこにも姿が見当たらない。

 パニックになりそうだった。俺は闇雲に町を走った。

 どこだ? どこに行ったんだ? あのリュックの中には晃平の大切な軍資金が!

 どのくらい走っただろうか。息も絶え絶えになり、俺はついに膝をついた。

 あ、そうだ。さっきのお姉さんに妹さんの住所を訊けばいいんだ。なんで気付かなかったんだろう? 俺はまた走ってさっきの家に向かった。

 家に着き、お姉さんに事情を話すと、「あら、大変」といい、妹さんの家まで案内してくれた。

 妹さんの家に着いたが、部屋の明かりが点いていない。まだ帰っていないのか?

 一応、チャイムを鳴らしてみる。だが、誰も出てこない。お姉さんが携帯で妹さんにかけてみたが、繋がらないようだ。


「どうしましょう」


 お姉さんが心配そうにしている。


「とりあえず、俺はしばらくここで待ってみます。お子さんのこともありますから、お姉さんは家に帰ってください」


 そういうとお姉さんは、妹さんと連絡が取れたらすぐ連絡するからといって、俺と携帯番号の交換をし、帰っていった。

 お姉さんが帰ってから五分ほどしただろうか。妹さんの家の玄関を背にして俯いていると、背後からガチャリと扉の開く音が鳴った。驚いて振り向くと、扉の中からあの妹さんが顔を出していた。


「お姉ちゃん帰ったみたいだね」


 なんといっていいかわからず口をパクパクしていると、扉の中から妹さんの右手と共に、あのリュックが出てきた。


「返してほしいんでしょ。この五百万円」


 ギクッとした。何かやばい感じがして、俺は喉を鳴らした。俺は「うん、うん」と素早く頷いて、「返してくれ」といった。

 すると妹さんは今度はにゅっと左手を扉の外に出してきた。どういう意味かわからず待っていると、妹さんが意地悪そうににやっと笑った。悪戯を心底楽しんでいるかのようなその表情、仕草に俺は鳥肌が立った。


「五百万円はこれに化けたわよ。カルティエの腕時計。五百万円もしたわ」

「え?」


 妹さんの左手にしてあるその時計を見た。心臓が波打ち、泡を吹きそうになった。


「嘘よ。こんな時間にお店が開いているわけないじゃない」


 そりゃそうだ。さっきから冷静な判断がくだせずにいる。だが、妹さんの脅しはとても効果的だった。


「返してほしかったら、しばらく私と付き合って。これから島に行くの」


 今度は真顔でいってくる妹さんに従うしかないと思った。さっきから妹さんの言動、表情はやばい。


「わかった。その前にその金、友達に返しに行くから返してくれ」

「駄目よ。そんなこといって逃げるつもりでしょ。そのお友達には悪いけど、島に着くまで返せないわよ」

「そんなの無茶苦茶だ」

「そうなのよ。今、私、無茶苦茶な気分なの」


 意味がわからない。それ以前になんで俺がこんな目に。


「頼むから返してくれ。本当に大事な金なんだ。友達の人生が賭かっているんだ」


 俺は心底、懇願した


「だから返すわよ。ちゃんと島まで付いてきてくれたら。それに今すぐ返さなきゃいけない理由でもあるの? 借金の返済とか?」

「そういうんじゃない。会社を興すための開業資金なんだ。今すぐにとはいわなくても、それが俺と一緒になくなっていると知ったら、びっくりするだろう?」

「そうでしょうねえ」


 妹さんは可笑しそうにからからと笑っている。


「それに明らかにあなたが犯人にされるんじゃない?」

「そ、そうだろう? だから返してくれよ」

「たまにはいいじゃない。あなたいい人でしょう。たまにはそのお友達の度肝抜いてやんなさいよ」

「ふざけないでくれ。とにかく返せ」

「それはそっちの都合ね」

「そのセリフ、使い方間違ってるぞ。もし俺が警察に連絡したらどうする? 君、捕まるよ」


 怒りが湧いてきたのが相乗効果となって少し冷静になってきた。


「脅す気?」

「どっちが脅してるんだよ」


 さっきからセリフをいう人間が逆になっている。


「そんなことしたら、私死ぬから」

「ええ?」

「私、今、そんな気分なの」


 本当に無茶苦茶だ!


「じゃあ、こうしよう。一緒に友達の家まで付いてきてくれ。その金返したら、ちゃんと君に付いていくから」

「あら、唯のときもそうだったけど、提案上手ね。でも駄目よ」

「なんでだよ!」


 俺はたまらず怒鳴り声を上げた。冷静さを保てなくなっている。


「もうチャーターした船が着く頃だわ。時間がないの。私に死なれるか、大人しく私に付いてくるか。今すぐに選んで」


 この女の目が座っているのがわかり、ぞっとした。頭の回線がぐちゃぐちゃになりそうだった。実際、痛くなってきた。なんでこんなことになっているんだ? しかもこの女の目、言動、正気の沙汰とは思えない。俺が断ったら、本当に死ぬんじゃないか?


「わかった。その代わり、島に着いたらちゃんと返せよ」


 女を刺激しないように極力声を抑えて答えた。苦渋の決断だった。とにかく金を返してもらおう。晃平に返すのはそれから考えよう。そうだ、電話をすればいい。幸い携帯も持って来ている。


   ◇


 だが、その考えは甘かった。俺は船の上で急に不安になり、デッキにでて携帯の電波をチェックした。

 圏外。ああ。

確認したいんだけど、島では携帯使えるの?」


 デッキの穂先で風を受けている女に訊いた。


「無理でしょうね」


 ああ。


「でも、電話なら島にもあるわよ」

「本当に?」


 助かった。これで晃平と連絡が取れる。


「あ、でも晃平の携帯番号覚えてない」


 また愕然とした。


「バカね。携帯でチェックすればいいじゃない。そこに保存してあるんでしょ」


 今度は女の声が救いの声に聞こえた。まあ、俺を窮地に追い込んでいるのもこの女なんだけど。とにかく俺はほっとして携帯のアドレス帳を開いた。その瞬間だった。

 ふっと画面が暗くなった。


「ん? あー!」


 俺は突然、大嵐が来たかのように慌てた。なんだこれは。何が起きたんだ?


「あれ、なんで? なんで?」

「電池切れね」


 横から携帯を覗き込んでいた女がそういった。俺の体内電池も切れたかのように脱力し、その場にしゃがみ込んだ。


「そうだ、晃平から電話があれば!」


 突然、閃いたがすぐにまたしぼんだ。


「いや、俺は電話番号を変えたばかりだった。忘れていた」


 そのことを晃平に連絡するのも忘れていた。本当は宴会の最中に教えるつもりだったのに。俺は会社を辞めたばかりで、しがらみを絶ちたくて、番号を変えていたのだ。

 打つ手なし。


「ご愁傷様」


 俺はうな垂れていて女の顔は見えなかったが、本当に哀れんでいるような声に聞こえた。

 ちゃんと、こまめに充電しておけばよかった。そもそも俺たちは文明の利器に頼りすぎなんだ。親友の電話番号くらい覚えておけばよかったんだ。でも、こんな不測の事態なんか誰が予想できるんだよ。不測の事態だから不測なんだよな。

 そんなことを延々と考えていたら、やがて島に着いたようだ。女に声を掛けられて、船着場に船が泊まっているのがわかった。日もすっかり昇っている。

 俺はふらふらとした足取りで女の後をついて行った。なんとはなしに周りを見てみると、港町のようで堤防には何艘か船が。後は山とその木々ばかりのようだが、少ないながらも民家も見えた。

 そのうちの一軒の前に来ると、女は鍵を取り出してガチャッと玄関の扉を開けた。


「ここでしばらく一緒に暮らしてもらうから」


 暮らす?


「どのくらい……」


 俺は「暮らす」という疑問を反芻するのが嫌なくらい沈んでいたので、受け入れたかのように訊いた。


「私の傷が癒えるくらい」


 傷? なんなんだよ。


「もう、いいだろ。返してくれ」


 リュックを奪いとるように受けとると、俺はさっき来た波止場に向かおうとした。


「待って! 帰るつもり?」

「もういいだろう? これ以上、俺をどうしたいんだよ」

「死ぬわよ」


 また、これだ。


「なんなんだよ、さっきから!」


 俺は苛立って声を荒げた。すると女はぽろぽろと涙を流し始めた。そして、えぐっえぐっと嗚咽を漏らした。

 さっきまで傍若無人で強気だったとは思えない、儚げなその姿に俺は戸惑った。


「何があったの?」


 それから彼女は、しゃくりあげながら答えた。俺はじっくりと耳を傾ける。


「ごめんなさい。私、仕事ですごく嫌なことがあって」

「うん」

「一人になりたくて、人のいないところに行きたくて」

「うん」

「でも、一人になったら、私、何するかわからなくて。怖くて」

「うん」

「あなた、優しい人だってわかったから。ほら、あなたが唯を背負いたいといったとき、こんな大事なお金を私に預けてでも、拘って、背負ってくれたでしょ。私が重そうにしてたからでしょう?」

「……」

「そんな優しい人に無茶したくなって、ひどいことしたい気持ちになって、一緒にいてもらいたくて」

「うん」

「私、なんてひどい女」


 妹さんはいつまでも泣き続けられそうだった。


「わかった。わかったから。もういいから。怒鳴ってごめん」

「あなた、優しいから」

「わかったから」


 そして、彼女が泣き止むのを待った。気が付くと港町独特の匂いがした。潮と、船のオイルが混じった匂いだろうか。


「帰っていいよ。もう私一人で大丈夫だから」


 そういわれても一人にできない。


「いるよ。一緒にいる。君の傷が癒えるまで」


 すまん、晃平。


「でも、お友達のこともあるし、それにあなた仕事だってあるでしょう? 学生さん?」

「いや、元会社員。辞めたばかりなんだ。俺も嫌なことがあってね。ふさぎたくなる気持ちはわかるよ。だから、時間はあるんだ。安心して」

「本当に一緒にいてくれるの?」

「ああ」

「ありがとう」


 彼女はまだ泣きながら、くしゃっとした顔をして笑ってくれた。


「名前、教えてもらえるかい?」

 そういえば、かなり濃密な時間を二人で過ごしたのに自己紹介もまだだった。まあ、そんな雰囲気じゃなかったんだけど。

「俺は章吾」

「私、愛音あいね


 愛音ちゃんか。


「ごめんなさい。最初に会ったとき、あなた携帯覗いていたでしょ? だからそれでお友達に連絡できると思ってて。まさか電池が切れるなんて考えてなくて」

「まあ、電池が切れたのは充電してなかった俺のミスだから」


 彼女を安心させる意味も含めて、自嘲気味に笑って見せた。


「それより、傷が癒えるまでここにいるっていうけど、そっちの方こそ仕事とか大丈夫なの?」

「大丈夫よ。代役は、私の仕事したい人は幾らでもいるわ」


 彼女は言葉を放り投げるようにいった。自分の立場も放り投げるみたいに。


「失礼だけど、なんの仕事?」

「声優」


 一瞬、時間が止まったようだった。


「声優? あのアニメの声とかをやる?」

「うん、その声優」

「へ~」


 驚いたな。声優さんと生で会えるなんて。そういえば可愛い声してる。ああ、それで完全防音の家か。


「今、アニメをやっててね。そのヒロインをやらせてもらっているの」

「ヒロイン? じゃあ、有名な声優さんなのかな。俺は声優さんのこと詳しくないけど」

「ううん。そんなでもないよ。最近出てきたばかりだし。芸名は橘愛子っていうのそれでね、あるセリフが元でファンの人たちのネットの掲示板がすごく荒れちゃって。翌週の回で、私、すごく頑張ったの。監督さんと話し合って、セリフを考えて、もっとよく伝わるようにって」


 俺は相槌を打ちながら普段では聞けない話に聞き入った。


「でも、駄目だった。売名行為だとかなんとか書かれて、余計、火に油を注いじゃったみたいで。散々悪口書かれて」


 後半の言葉は消え入りそうなほどだった。よほどつらいのだろう。


「でも、いいんだ」


 彼女は顔を上げていった。


「私、ドブみたいな女だから」

「ドブ?」

「そう。ドブ。私ね、昔、売りやってたんだ」

「売り?」

「参ったな。伝わんないか。そうよね。普通の言葉じゃないし。売春やってたの」


 言葉に詰まった。なんて返していいのかわからない。こんな純朴そうな外見の子が。


「清純派アイドル声優で売ってもらってるけど、そんなの嘘っぱち。整形だって、ちょっとしてる」


 自分をあざけ笑うかのような笑顔でそういう。なんて顔するんだよ。


「だけど今の仕事目指して、就いて、ようやく頑張ろうと思えたの」


 売春……そこから自分を押し上げるにはどれだけの努力がいったのだろうか。きっと俺の想像を越えるものなのだろう。


「でも、駄目だった」


 愛音ちゃんは悲哀を込めた目でそういった。


「ドブはドブよ。変わらない」


 自分をドブだといい切る。なんて悲しいことなんだろう。どんな悲しい思いをしてきたんだろう。今の彼女にどんな言葉を掛けていいのかわからない。だけど。


「ド、ドブだって、綺麗な水を注ぎつづければ、綺麗な水に変わると思うし」


 俺はとにかく言葉を探した。彼女を元気付けられる言葉を。


「それに誰かが落っことした宝石だって入ってるかもしれないじゃないか」


 誰かって誰だよ。自分でいっててよくわからなかった。彼女はもっとわからないらしく、口を半開きにしてぽかんとしている。


「えっと、別に君のことを本当にドブって思ってるわけじゃなくて。つまり」


 頭の中で迷走してしまった。そのとき、救い舟を出してくれたのは愛音ちゃんだった。彼女は可笑しそうに笑い始めたのだ。


「ありがとう」

「う、うん」


 少しだけ暖かな空気が流れた気がした。


「それより、やっぱり仕事に戻ったほうがいいよ。声優なんて人気商売でヒロインまでやらせてもらってるんだろう?」

「でも」

「人気は落ちやすいからね。いけるときにいっておいた方が後々いいよ」

「でも、あたし怖くて。それにあなただってこの島を出るでしょう?」

「俺はここにいるよ。それに必死で掴んだんだろう? 今の役」


 愛音ちゃんははっとした顔をして、自分で確認するように頷いた。


「わかった。本当にここにいてくれるの?」

「うん」

「ありがとう! 生活面は私に任せて。この島なんにもないみたいだけど、電気ガス水道は通ってるし、ないものは私が仕事から帰ってくるときに調達してくるから。それにここ、小さいけどスーパーだってあるし。そうそう、そこに銀行のATMだってあるんだよ」

「ATM?」

「あ」二人で声を上げた。

「どこ?」

「すぐそこ」


 俺はリュックを持って彼女に案内してもらい、ATMのある場所に向かった。

 ATMのある場所に着くと、早速そのATMが扱っている銀行名を調べた。

 頼む、あってくれ。

 祈りを込めて探してみると、すぐに見つかった。晃平の通帳の銀行名がある。


「助かったー」


 こっちには通帳とカードがあるから、これで入金ができる。晃平、気付いてくれよ。

 そして急いで入金を済ませた。


「これで心置きなく、ここにいられるよ」


 俺は安堵の表情を浮かべて愛音ちゃんを見た。


「良かったー」


 彼女もそういって、安堵しているようだ。


   ◇


 そうして愛音ちゃんとの奇妙な共同生活が始まった。


「ここ、周りに海しかないんだよね」と愛音ちゃんがいった。彼女が仕事のため、船着場で船を待ちながら話す。

「みたいだね」


 俺は周りを見渡して答える。


「でも私、泳げないんだ」

「実は俺も。ガキの頃、海で溺れたことがあってさ。それ以来、泳いだことがない」

「やっぱり苦しかった?」

「うん、二度と泳ごうとは思えないくらい」

「じゃあ、船に乗るのも怖かったんじゃ」

「ああ、それは大丈夫だった。それどころじゃなかったら」

「ごめんなさい」

「まあ、過ぎたことだから」


 会話は途切れ、かもめの鳴き声が二人の沈黙を埋めた。果てしない水平線が見える。


「訊いていい? 会社辞めたワケ」

「いいよ」


 彼女が曝け出したのに俺が答えない理由はなかった。海を見たまま、心の闇にある重い記憶をたどる。


「いい企画を俺が立ち上げたんだ。自信があった。これはいけるぞって思った。でも直属の上司は駄目だっていうんだ。こんなの絵空事だって。その上司のハンコがないと企画は実行されないことになっててさ。でも俺は諦めなかった。絶対うまくいくっていう自信があった。だからなんとかその上司を説得したんだ。そしてなんとか俺の企画は通った。で、案の定、うまいこといってさ。会社に貢献できたんだ」


 客観的にありのままを、端的に話すよう、心がけた。今のところうまくいっている。


「でもさ、その手柄、持ってかれちゃったんだよね。その上司に。」

「え」

「その上、どういう意図があったのか、部署を異動させられちゃったんだよね。こんなこと現実にあるのかって、信じられなくてさ。でも現実に起きちゃっててさ。さすがにこたえた。会社に居場所はなくなっちゃうしさ。こんなくそ会社辞めてやるって、出てきたんだ」


 ミスった。最後はちょっと感情がでて語気を荒げてしまった。ふと彼女の顔を見ると、眉尻を下げ、とまどいの表情を見せている。こんな話聞かされても答えようがないよなあ、と思った。


「ごめん。なんていったらいいのか……」

「だよね。あ、でも、君には仕事辞めるなっていってるのにおかしな話だよな」

「ううん、そんな会社辞めて正解だよ。その会社、絶対つぶれるもん」


 彼女はそういいながら顔の前で握りこぶしを作り、励ましてくれた。


「ありがとう。そういってもらえると、ちょっと救われる」

 

 そういうと船が見えた。

 

「あ、じゃあ、私行くから」

「うん」


 船に乗り込む愛音ちゃんを見ていたら、彼女はくるっと振り返った。


「負けないよね、そんなのに」


 強い口調でそういう彼女は、明確な答えを欲しがっているように見えた。だから、はっきりと答えなくてはいけない。


「ああ、負けないさ、そんなもんに。だから……」

「じゃあ、私も負けない」


 俺は頷く。いい言葉を聞けた。離れていく船に手を振りながら、話せてよかったのかもな、と思えた。


   ◇


 彼女が仕事に行っている間、俺は一人でここで過ごさなければならない。周りは確かに海ばかりで、泳げないしすることがない。まあ、まだ六月で泳ぐにはちょっと早いかもしれないけれど。

 大きな島でもなかったので、島の探索も五日で済んでしまった。

 どうしようと思い、海岸で海を眺めた。しばらく佇んでいると、突然あることが思いついた。どうしてそうしてみようと思えたのかはわからない。だけど、それが最善のことのように思えた。俺はそれを毎日の日課とすることとした。こんな機会でもなければすることもなかっただろう。


   ◇


 玄関の扉が開く音がして、「ただいま」と愛音ちゃんの声が聞こえた。そして居間に来るとすぐに横になる。いつものことだ。本当に疲れているみたいだった。

 飯時に「食べないの?」と尋ねても「いらない」という。放っておくと本当に食べないので、俺が適当に作って彼女の横に置く。そうすると悪いと思うのか、もそもそと体を起こして食べてくれる。

 ここでは、俺は愛音ちゃんの世話係みたいだった。さすがに下着があるので、洗濯は自分でするようだが、それ以外の家事は大抵、俺がやった。彼女は主に調達係だった。まあ、俺に金がないから必然的にそうなるのだけど。彼女は最初はインスタント食品とか弁当とかを買ってきてくれていたが、俺が料理をするのがわかると、野菜や肉や調味料なんかも買ってくるようになった。

 ちなみに今日はカレーだった。俺の得意料理でもある。幸い、愛音ちゃんの好物でもあった。鶏がらスープの素とウスターソースと牛乳を入れるのが、俺のやり方。材料は彼女にいって揃えてもらった。美味しいといってくれたので嬉しかった。

 カレーなら彼女も作れるというので、次回は作ってもらうことにした。


   ◇

 

 そして三日後、愛音ちゃんのカレーの日だ。

 カレーは誰が作っても、そうそう不味くはならないだろうと思ってはいたが、もし不味かったらどう反応しようかと考えていた。特に今の彼女は繊細だ。批判されることには過敏になっているだろう。うまいことしなければ。

 そして、目の前に彼女のカレーが盛られた皿が置かれる。


「いやー、美味そう」


 そういってどきどきしながら、一口食べる。

 すると意外なほど美味い。もう一口。美味い。なんだろう。出汁が効いている感じがする。


「これ、何入れてるの?」

「麺つゆだよ。私は和風カレーって呼んでるの」


 ああ、確かに和風カレーって感じだ。


「不味かった?」と心配そうに彼女が訊いてきた。あんまり美味かったので驚いて感想をいうのを忘れていた。急いで美味いという。

「良かったー」


 本当に美味だったので、彼女に見せつけるようにもう一杯おかわりした。

 それからカレー研究会と称して、連日カレーを作ることになった。

 チョコレートを入れたり、ニンニクを入れたり、すりおろしりんごを入れたり、豆板醤を入れたり。さすがに酢とブルーベリージャムを一緒に入れたときは、カレーに悪いことをしたなって気持ちになったけれど、そうしている内に段々と愛音ちゃんが元気になっていくのがわかった。カレーは偉大だ。インド人万歳。


「元気が出るわ」


 彼女はそういってくれた。安心する。

 でも、彼女の心の闇は俺の想像以上に深かった。


   ◇


 ある日、愛音ちゃんが仕事から帰ってきたので、「今日は何入れる?」と訊いたら、「今日は食べない」という。表情も曇っているのがわかる。何があったのか尋ねてみると、また例の掲示板のことだった。


「またあの掲示板見てきたの。そしたら、私が昔売りやってたって書いてあって。本当にばれたのかどうかはわからないけど、便器女だって」


 なんてひどい言葉だ。俺は腹が立った。


「そんなの気にすることないよ。書いたそいつがバカなだけなんだから」


 愛音ちゃんは首を振った。


「だって、その通りだもん。やっぱり私変われないって思った。過去は断ち切れないんだ」

「過去は変えられないよ。でも、今は変えられるんだよ、愛音ちゃん」

「変われないよ。人は結局、変われないんだ。過去はいつまでも私を追いかけつづけるんだ。この先、一生。そして追いつかれるんだ」

「変われるよ!」


 俺は大声で叫んだ。愛音ちゃんは驚いて俺を見た。


「人は変われるんだ。俺が今から証明してやる」


 俺は船着場に彼女を連れていった。そして、船着場に着くと突堤の先に向かって走った。俺は百メートル十三秒台。だけど今は風のように走る。そしてそのまま突堤の先に来ると勢いよくジャンプした。風になったつもりで高く。そして着地と共に大きな水しぶきがあがった。


「!」


 愛音ちゃんが悲鳴をあげた。周りに人はいない。彼女は泳げない。だから、誰も溺れる俺を助けてはくれない。死ぬ。

 もしも溺れていたなら。


「あははは、どうだい。人は変われるんだ」


 俺は声を張り上げながら懸命に泳いでいた。犬掻きで。


「変われるんだよ。愛音ちゃん」


 緊張していたけれど笑顔でいった。きっと顔はこわばってると思うし不恰好に違いない。だけど、今の俺の姿を彼女に見せた。


「わかった。もうわかったから。上がってきて」


   ◇

 

 突堤に這い上がろうとすると、愛音ちゃんが手を伸ばして手伝ってくれた。そうして這い上がってくると同時にアスファルトの上に大の字で寝転がった。息を切らせる。


「ばか」


 涙を携えてそういう彼女にいった。


「こっちに来てから、することがないからずっと練習してたんだ。でも息継ぎができないから、クロールも平泳ぎも駄目で、行き着いた先が犬掻きだったんだ。これならずっと顔を上げていられるから、息継ぎの必要がない」


 俺はまた息を切らせ、ゆっくり呼吸を整えた。


「でも、さすがに緊張したな。浅いところでしか泳いでなかったから」

「ばか」


 愛音ちゃんはさっきより語気を荒めた。涙がこぼれている。


「でも、泳げただろ。溺れなかった。かなづちを克服したんだ。俺は変われたんだ」

「なんで、そんなことするのよ。私なんかのために命なんか懸けないでよ」

「その価値があると思ったから。愛音ちゃんにはそれだけの価値があるんだ。おかげで俺は変われた」


 愛音ちゃんのぽろぽろと流す涙が夕日に反射して綺麗だった。俺は思わず「綺麗だなあ」といってしまった。


「え?」

「あ、いや、涙が綺麗だと思って。あ、ほら俺いったろ。ドブの中に誰かが落っことした宝石でもって。愛音ちゃんはドブなんかじゃないけれど、君が自分をドブだって思ってたってそんな涙を流せるんだよ。そんな綺麗なものが入ってるんだよ」


 ちょっと、いや大分くさいなと思いながらそういった。


「変わってるよ」

「え」

「あなた変わってる」

「ああ。よくいわれる」

「すごくいい意味でね」


 二人で笑い合った。こんなに腹の底から笑い合えるのは他に親友の晃平くらいだ。いや、悪い、晃平。今日は晃平のときより上かも。だって命懸けだったから。はは。


   ◇

 

 それから、三週間ほど経って、愛音ちゃんが仕事から帰ってきたとき、彼女の顔はとても晴れやかだった。


「すごく頑張って応援してくれるファンがいて」

「うん」

「色々応援してくれる人はいるんだけど、その人、あのひどい書き込みのあとから、一日中、掲示板に張り付いているみたいに、私の批判があるとすぐに私を擁護するコメントを書いてくれていたの。その人が頑張ってくれたおかげで、もうあの悪口書いてくる人現れなくなって」

「すごいファンがいるもんだね」

「うん。すごいよ。掲示板の履歴を見たら、その人が現れてから最後のコメントを書くまで一ヶ月くらい経つの。一ヶ月だよ? 一ヶ月も一日も休まずに私なんかのこと守ろうとしてくれていたの。ううん、守ってくれていたの。だから、ありがとうってそこに書き込んだんだ」


 愛音ちゃんはとても穏やかに微笑んでいる。


「君には力強い味方がいるんだね」


 俺も、これからも君の味方でいられればいいと思う。


「またあそこで夕日見に行こうよ」


 彼女に誘われ、俺たちはまた船着場に向かった。


   ◇


「ああ、すごい」


 太陽は山陰に隠れていて、空はこれから暗くなるとは想像出来ないくらいはっきりとしたスカイブルーで、雲は自ら発光してオレンジの光を放っているかのようだった。


「綺麗だね」

「知ってた? 愛音ちゃんはこの風景よりも綺麗なんだぜ」


 今日は無礼講だ。思いっきりくさいセリフを。


「くさいなあ」

「や、まあまあ」

「でも、嬉しいなあ」


 心なしか彼女がうっとりしているように見えた。これからも彼女のそばにいられたら。


「さ、帰んなきゃ」


 彼女がそういう。今夜もカレーだ。


「うん、今日は何入れる」

「ううん、そっちじゃなくて」


 俺は愛音ちゃんの大きな変化に気付いた。きっとそうだ。


「完全防音の家に?」

「うん、完全防音の家に」


 明日、晃平に会えるかな。きっとびっくりするぞ。

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