第二章 裏切られて裏切っても
今日の空は、ひどく淡いスカイブルーか。いや、どちらかといえば灰色に近い。そうだ、今の俺には灰色に見える。
今、八階建てのビルの屋上にいる。
金と銀行のカードと通帳を盗まれた。五百万。必死で貯めた大金だ。それを親友と思っていた奴にやられた。裏切られるなんて思いもしなかった奴にやられた。
「晃平、よくやった。おめでとう」
一週間前、この時点で俺の大切な親友だと信じていた章吾は、そういって俺を祝福してくれた。
俺にはいつか自分の会社を興すという夢があった。人と人とのつながりを大切にする、コミュニケーション能力を上げるための授業をする塾をやることだ。そのために、起業の勉強をしながら会社に勤め、三年間かけてようやく五百万円という大金を貯めた。苦しいこともあったけれど、金が貯まっていくのが嬉しかった。少なかった貯金が貯まっていき、あと少しだ。もう少しだって。俺はそのことを逐一、章吾に話していた。そのたびに章吾は一緒に喜んでくれた。目標だった五百万円に届いたときには、天にも昇る気持ちだった。あらかじめ決めていたように、会社には退社届を出した。俺は銀行の口座から全額、五百万円を下ろすと自分の家の小型金庫に入れた。近くのホームセンターで売っていた、一番高いやつだ。そして、それが嬉しくて章吾に見せることにした。一週間前、章吾を家に呼んで鍋をして、そのときに見せたんだ。
章吾は、喜んで祝ってくれた。章吾が祝杯だといって持参してきたワインを、二人で飲んだ。しこたま飲んで深夜まで馬鹿騒ぎした。章吾が見たいというので、金庫から五百万円を出した。なんか自慢するみたいで悪い気もしたけれど、章吾が縁起物だから神棚に飾ろうぜというので、踏み台を神棚代わりにしてそのとおりにした。章吾はますます俺を褒め称えてくれる。
すごく嬉しかった。だから、余計に裏切られたことがつらかった。
章吾は俺が酒に弱くて、大量に飲むと眠ってしまうということも知っていた。だから、計画的な犯行だったというわけだ。俺は章吾の思惑通り、いつの間にか眠ってしまっていて、起きたときには章吾はいない。二人で「晃平の起業が成功しますように」って手を合わせて祈った、神棚の上の五百万円もない。その五百万円を貯めていた銀行のカードも、通帳もない。
そんなわけない。何かの間違いだと思って章吾の携帯にかけたら、「おかけになった電話番号は現在使われておりません」だって。
それでも信じられなかった。章吾が俺を裏切るなんて。だって章吾は、あんなに俺を応援してくれていたから。何より本当にいい奴だってことは、中学の頃から一三年間付き合ってきた俺が、よくわかっていたから。
実は俺、中学から大学三回生までの八年間、漫画家を目指していた。がんばっていた。勉強のさなか、年に三本は漫画を投稿していた。だけど、才能はなかった。八年間での最高成績は高二のときのある賞での一次予選突破が最高で、あとは落選の連続だった。そして就職活動が迫る大学三回生の十二月。クリスマスの二日前に俺はついに認めた。自分に漫画の才能がないことを。
必死に努力すれば夢は叶う、とかいう人もいる。才能の世界だから、どんなにがんばっても叶わない人は叶わない、とかいう人もいる。
中学、高校の頃は、前者の言葉を信じていた。がんばれば夢は叶うと信じて疑わなかった。いつか才能は花開くと。だけど、結果が出ない日々がつづき、大学生になった頃には、後者の言葉も無視できなくなっていた。自問する日々が続いた。どちらの言葉が正しいのだろう、と。夢を叶えるための方法を謳った本もよく読んだ。十冊以上は本棚にあったと思う。占いも気にするようになっていた。
だけど結局俺は、他人の言葉なんかではなく、自分で道を選び、その道を歩いていって見えた景色でしか判断できない人間なのだ。そして八年目の冬、俺はこれ以上は描けないと判断した。
それを決めた夜、十一時頃、省吾にメールを送った。俺の八年間の努力を知っていて、八年間応援しつづけてくれた省吾に、漫画家を諦めたと。
メールの返信を待っていたが、なかなか来なかった。省吾は今どき珍しい若者で、夜十時には寝て、朝五時に起きてランニングするような奴だったから、もう寝てしまっているのだろうと思った。結局、一時まで粘ってみたがそう思ったので、俺も寝ることにした。
返事が来たのは、翌朝、六時だった。眠りの浅かった俺は、携帯の着信音で目が覚めた。
すぐに返信を見る。とても短い文章だった。とても短い文章だったけど、俺はそれに泣かされたんだ。
「そうか。お疲れ。でも、俺は、おまえの漫画好きだから」
いつか嬉し涙を流したくて、漫画で賞でも取れたら流せるんじゃないかと思っていた。でも悔し涙ばかりで。
なのに最後の最後で俺は泣けたんだ。省吾、おまえのおかげで、俺はただの負け犬にならずに済んだんだ。また全力で、新しい景色を見に行こうと思えたんだ。
その日、泣き腫らした目で大学に行くと、省吾も泣き腫らしたみたいに目が充血していて欠伸を連発していた。すぐに原因は分かった。きっと昨日の夜、省吾は俺のメールを見て、寝ずに一晩中、俺への言葉を考えてくれていたんだ。もしかしたら俺の無念を思って、泣いてくれたのかもしれない。そういう奴なんだ。
なのにあの省吾が?
銀行から大金を下ろさなければよかったか? せめて金庫に入れておけば。いや、親友とはいえ章吾に見せなければ。
そもそも章吾を親友だなんて信じていなければ。
そう思ったとき、そんなこと思っちゃだめだ、まだ章吾が犯人と決まったわけじゃないという罪悪感が生まれた。でも現実に章吾は、五百万円と俺の銀行のカード、通帳と一緒に消えている。
被害届を出さなければと思った。でも、もしも章吾が犯人だったらと、章吾を相手に裁判を起こしたくないと訳のわからない気持ちが起こって、更に訳がわからなくなってしまった。
それから一日経って、冷静になって、これはもう章吾が五百万円を持ち逃げしたのだと理解した。ずっと騙されていたのだと。章吾と共通の知り合いに訊いたら、あいつ借金してたんだって。足がつかないように会社も事前に辞めてたみたいだ。
なあ、章吾。あんなに応援してくれたのは、自分が盗むためだったんだな。最低だよ、おまえ。
俺は、今いる屋上のペントハウスを出たばかりの場所から、落下防止用のフェンスに向かって歩いて行った。そして、俺より背の高いフェンスを左右の手で同時に掴む。フェンスは頼りなさげに、ガシャっと音を立てて俺が力を入れた方向にたわむ。フェンス越しに下を見た。高い。
「帰るか」
もしかしたら、ここに来たら死ぬ気にでもなるのかなと思ったけれど、特に死のうとは思わなかった。
◇
「タテヤマさんですか?」
またか。
「いえ、違います」
三、四ヶ月に一度くらいの頻度で、こうして俺の家に、タテヤマという人物だと勘違いして、間違い電話をかけてくる奴がいる。それぞれ違う奴だ。あるとき、思い切って電話番号を間違えてないか確認したら、相手のいう電話番号は確かにうちの電話番号だった。どこでその電話番号を知ったのかと訊いてみたら、古い電話帳に載っているといわれた。どうやら同じ電話番号を使い回すこともあるようだ。
やれやれと思っていたら、またすぐに電話が掛かってきた。
「タテヤマさんですか?」
「はい、タテヤマです」
なんだかどうでもよくなってしまった。今までつづけざまに間違い電話が掛かってくることもなかったが、こんな返答をしたこともない。なんだかどうでもよくなって、タテヤマと名乗ることにした。
「わたくし、竹田と申します。タテヤマコウジさんは今もカウンセリングをしておられますでしょうか?」
通話相手のおじさんらしい人よると、タテヤマコウジという人物はカウンセラーのようだ。
「ちょっと、今は、やってないですね」
適当にそういうと竹田さんは、「ああ、そうですか。失礼しました」といって電話を切った。
次の日、また竹田さんから電話がかかって来た。もし、知り合いにカウンセラーがいたら、紹介してくれないかというのだ。どうも竹田さんの息子が引き篭もりになっていて、そのためにカウンセラーを探しているらしい。そこで竹田さんは知人に、その知人が随分昔にお世話になった、タテヤマコウジというカウンセラーを紹介してもらったらしい。
この人は困っている。そのときふいに、残酷な気持ちが湧いてきた。
「僕はその息子です。父は亡くなっているのですが、僕もカウンセリングをしているんです」
竹田さんは、それはご愁傷様でしたといい息を詰まらせたようだったが、もしよろしければ、と俺にカウンセリングの依頼をしてきた。俺はそれを快諾してみせ、カウンセリングの日取りを決め、電話を切った。
間違い電話をかけてきた方が悪いんだ。俺が不用意に章吾を信じて五百万を見せてしまったように。うまいこといいくるめて金を奪ってやろう。どうせばれたって、こっちには失うものはない。
◇
引き篭もりということで竹田さんの家の息子の部屋でカウンセリングを行うことになった。息子の名は純也。病院でもなんでもない六畳一間のアパートに住んでいる俺にとっては都合が良かった。
まあ、もしうちでやることになったら、「うちも不況の煽りを受けてましてね。事業縮小というやつです」とでも答える気でいたけれど。
とりあえず電話で、竹田の親父さんから引き篭もりになった理由であろうことを訊いておいた。
「純也、就職活動に失敗したんですわ。五十社くらい受けて全部駄目で。その上、私の父が亡くなりましてね。純也はおじいちゃん子でしたから、余計ショックだったんでしょうな。それから引き篭もるようになりました」
事前に、メンタル医療系の雑誌で鬱についてちょっと勉強しておいた。親族が亡くなることで鬱になることもあるらしい。そのとおりみたいだなと思った。
竹田さんの家に着くと竹田の親父さんと息子の純也が玄関で迎えてくれた。あ、一応、部屋からは出られるんだと思った。
純也は、身長は俺と同じくらいだから一七〇くらいで、ジャージを着て黒ぶち眼鏡をかけていた。髪は肩まであって、ぼさぼさだった。まあ、床屋に行けないんだからこんなもんか。歳も俺と同じくらいらしい。これからペテンをやろうとしている俺と引き篭もりの純也。どっちが人間としてマシなんだろうか?
挨拶もそこそこに、さっそく純也の部屋でカウンセリングをすることになった。俺のアパートと同じ六畳一間の部屋で純也と一対一。これからこいつをペテンにかけるのか。緊張するな。
緊張を悟られないように極めて軽い感じで純也に話し掛けた。純也は「はあ」と覇気のない声で返してくる。
カウンセリングらしく、何か気になることはないかと尋ねてみた。そしたらテレビの合いの手によくある『え~』がうざい、ときた。
これは困った。じゃあ、テレビ観なければいいじゃん、と返せばいいのかもしれないが、カウンセリングとして、それはありなのかなしなのかわからなくて悩んだ。正確にいうと少し悩んだが、あとは悩んだ振りをした。すぐに答えられない場合は、次回のカウンセリングで答えを出すということにしているのだ。答えが見つからなければ、ばっくれればいい。
純也の部屋の天井を仰ぎ見る俺。二個ある丸い蛍光灯の小さい方のコードとの接触部分が黒ずんでいる。こっちは使えなくなっているなと思った。
とりあえず純也に今考えてるよということを話してアピールした。
そして今度は、下を向いて考える振りをした。畳の上に染みがある。醤油かソースこぼしたな。
しばらく時間が経ったので頃合かと思い、予定通り、次回のカウンセリングまでに対策を考えておくことを告げた。
純也に診察料を尋ねられたが、相場がわからないし、さすがにまだ何もしていないので、最後にまとめてもらうことにした。だまして金を盗るにしても、何かしら結果を出しておきたいのだ。俺、割と完ぺき主義。まあ、そのときはがっぽり頂こうと思う。
余裕を見せるために軽い感じで席を立った。
「よっこいしょ」
帰り際、竹田の親父さんから声を掛けられた。
「いってなかったんですけど、実は純也の奴、女の子にも振られたみたいなんですわ。あいつは私には何もいってないんですが、夜中にリビングで、あいつが酒に酔って、女の子の名前を呼んで泣いているのを見たことがありまして」
就活が駄目で、好きだったじいちゃんが死んで、女子にも振られる。こいつもついてないな、と同情したが、俺だって負けてないと思い、このまま続けることにした。だけど、ちっとはこいつの役に立ちたいかな、と思った。
◇
さあ、次回のカウンセリングまでに『え~』の対策を考えなければいけない。俺は本屋に向かった。
最初、メンタル医療系の本があるコーナーで適当に本をぱらぱらと捲ってみたが、それらしき対策は見つからず、そもそも俺には書いている内容が理解できないことも多く、しばらくしてそのコーナーから離れた。そしてしばらく脳を休めると、またメンタル医療系のコーナーに戻り本を捲る。そんなことを繰り返し、もう一週間が経った。カウンセリングの日だ。俺はなんの具体的な対策も見つけられないまま、純也の家に向かった。
◇
純也は、期待しているのかどうかよくわからない表情で俺の目の前に座っている。まあ、期待感一杯の目で見られるよりはいいな。
「じゃあ、前回の続きだけど」
俺はほぼノープランで切り出した。
「世の中の自分に起こることって、全て意味があると思うか」
「禅問答ですか?」
「いや、そんな堅苦しいことを訊いているつもりじゃないんだ。ただ、純也はどう考えているのかな、と思ってな」
純也はしばらく考え込んだ。
「よくこの世の全てのことには意味があるっていいますね。俺もそうあって欲しいと思うことはあります。でないと、なんのために今、俺がこういう状態でいるのか、意味がないなんてことになったら、やりきれないじゃないですか」
「そのとおりだ。答えは意味がある、だ」
俺はにやりとした。純也がそう思ってくれるなら、事は運びやすい。違っていてもこう答えていたけれど。とにかく何か『え~』に理由をつけられる。
「では、なぜ、純也が『え~』をうざがるのか」
純也は真剣な面持ちで聞き入っている。
「この答えは次回のカウンセリングで」
純也は、眉をひそめ、この人、本当は何もわかってないんじゃないのっていう顔をしている。そのとおりなんだけど。
「何も俺には答えがわからないから、時間稼ぎしようってわけじゃないぞ。純也にも自分のことだから、考える時間が必要だと思ってな」
適当な言い訳をして、その日のカウンセリング(?)を終えた。さあ、どうするべきか。少なくとも俺の頭の中には答えはないので、またせっせと本屋でインプット作業だ。
◇
例のごとく、本屋でメンタル医療系の本を読んで熱くなった頭を冷まそうと思い、そのコーナーから離れた。あてもなく店内を漂っていると、スピリチュアル系の本があるコーナーで、ある言葉が強調されているタイトルの本が目に付いた。平積みされている本だったので、注目されている本なのだろうと思い、その本を読んでみた。「はじめに」の部分をじっくり読み、項目に目を通す。そして本の内容をざっと目で追った。そしてあるページのところで目が止まった。
これだ。ぴんときた。これは応用できるんじゃないか?
そこには感謝の気持ちが感謝を引き寄せると書かれてあった。その作者は何か機会があるたびに『ありがとう』と唱えることを習慣にしているという。
だったらテレビで『え~』というたびに、『ありがとう』と唱えてしまえばいい。どうせ『え~』が気になるのなら、『え~』を自分に訪れたいい機会だと捉えて、『ありがとう』と思ってしまえばいいのだ。そうやって『ありがとう』を貯めていくのだ。いってみれば、『ありがとうポイント』だな。ポイントが貯まっていって、いつか『ありがとう』と思えることが返ってくる。本当に効果があるのかどうかは、半信半疑だったけれど、その本の帯に書かれてある世界で売上部数900万部という言葉を信じて、賭けてみることにした。まあ、やるのは純也だし、効果がなければばっくれればいい。
◇
そして、またカウンセリングの日がやってきた。俺は秘策を手に入れて、心なしかうきうきしている。でも、純也は疑問に思うんだろうな。
「どうだ? 自分ではわかったか」
純也は首を横に振って答えた。
「そうか。じゃあ、待たせたな。秘策を持ってきたぞ。では、なぜ純也が『え~』を気にかけるのか」
俺は自信満々な様子を装って純也に説明した。本に書かれてあったことから、俺が生み出した『ありがとうポイント』に関してまで。
それは、「え~」という合いの手が聞こえるたびに、いい機会だと捉えて「ありがとう」と思うということだ。ありがとうという言葉はありがとうと思えることを引き寄せる。ありがとうと思うたびに、『ありがとうポイント』が貯まっていき、いつかありがとうと思えることが起こるという作戦である。
しかし予想どおりというか、純也に反論された。そんなの心からありがとうと思わなければ意味がないんじゃないか、と。まあ、本当は俺もそう思うけど、ありがとうという言葉自体に意味があるからいいんだといい切った。ただそれだけでは説得力がないだろうということは俺も分かっていた。そこで用意していた成功例を話すことにしたのだ。
「俺もな、嫌なことがあったんだ」
そう切り出した。少し愁いを帯びる表情をして。
「事業を大きくしようと思って、貯めていた五百万円があってな。それを盗まれたんだ」
演技のつもりが本当に悲しくなってきた。
「親友だと思っていた奴と一緒に、金は消えてしまったんだ」
「え」
純也はひどく哀れんだ顔をしている。そんな顔で見るな。本当に泣きそうになるじゃないか。
「でもな、『ありがとうポイント』を貯めていたら、いいことが起きた」
純也は息を呑んで聞き入っているようだ。
「五百万円盗んだと思っていた親友が、ひょっこり帰ってきたんだ。そいつがいうには、盗んだのは別の奴で、その真犯人から五百万取り戻すために闘ってくれていたらしい」
純也は唖然とした表情をしている。そりゃそうだな。こんなマンガみたいな話。
「で、無事、五百万円も返ってきたんだ」
「本当ですか?」
そう尋ねる純也に俺は、「ああ、だから信じて続けることだ」と答えた。
◇
「嘘も方便さ」
純也の家から出た後、我慢していた涙が溢れ出た。あれから被害届は出していない。
俺はまだ願っている。あいつが消えたのは、俺の金を盗んだからじゃない。何か理由があるんだって。俺が純也に話した夢物語が真実であって欲しいとさえ思った。
俺も『ありがとうポイント』を貯めてみることにした。純也に説明していて、なんだか本当に、ご利益があるのではないかという気がしてきたのだ。
テレビで『え~』というたびにも唱えたが、外で歩いていて人とすれ違うときにも『ありがとう』と心の中で唱えてみた。ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう……。
やがてウォーキングは俺の日課となり、歩いていて前から歩いてくる人を見かけるとラッキーと思うようになった。すれ違いざま『ありがとう』と唱える。
◇
ある夏の日の午後七時頃、空はまだ明るい。俺は急に思い立ち、章吾と五百万円が消えてから一週間後に昇ったあのビルの前に来た。
『ありがとうポイント』を貯め続けている今の俺は、あのときとは若干違っていると思う。荒んでいたあのときに比べると、若干、心が豊かになっているような気がするのだ。
あのとき見た空はどうだろう? 今とでは何か違って見えるだろうか?
エレベーターに乗って一番上まで上り、そこからは階段を使って屋上のペントハウスへ。そして、ペントハウスのドアを開いた瞬間だった。
「うわあ」
それは俺が今まで見たことのない美しい光景だった。
初夏の爽快な青空に、鮮やかなオレンジ色に焼けた雲。周りの空が薄暗さを携えようとする中、俺が真っ直ぐ見つめる先、太陽の隠れている山と空の境の空間にその光景はあった。その空間だけは、スカイブルーとオレンジ、どちらも霞むことも、混ざることもなく、どこにもムラの見当たらないそれぞれの鮮やかな色を強く主張し合っていた。その配色が見事に調和し、奇跡のような空を生み出していた。
何かを超越したようなこの空に心を奪われ、そして心を洗われたような気がした。
世の中は汚いことだらけだ。
俺は目の前に広がる優美な空を見ながら思った。
だけど、今見えるこの光景は果てしなく綺麗だ。もう二度とこんな空は見られないかもしれない。だけど、確かにこの空はこの世にあるんだ。
俺は太陽と地球が生み出した、いつ消えるともわからないこの奇跡の空を眺め続けた。
この風景を忘れないように心に刻みつけよう。なにか嫌なこと、つらいことがあったときは、この風景を思い出そう。神様がわざわざ俺に見せてくれたんだから。
「そうだ、純也にも」
俺は急に思い立ち、純也にもこの空を見てもらおうと思った。ぜひ見るべきだ。確か方角的に純也の部屋の窓からも見えるはずだ。
急いで携帯から純也の家に連絡を入れた。
純也はすぐに空を見てくれたようだ。電話越しに興奮しているのが分かる。
世の中って汚いことがあるけれど。
「あるんだよ。世の中にはこんな綺麗なものが」
だからお前も負けるな。俺も。
純也がこれは『ありがとうポイント』が貯まった効果かと訊いてきた。
「ああ、そうかもな。そうに違いないよ」
俺もそんな気がした。もちろんこの空を見た人はごまんといるだろう。だけどこの空にこんなに感動できるのは、きっと、希望を求めて『ありがとうポイント』をせっせと貯めてきた、俺たちだけに違いないから。
やがて夕闇が迫り、その美しい風景は薄暗いいつもの空に変わった。俺は屋上から降り、家路に着いた。
◇
純也が最近、『ありがとうポイント』のご利益があったと話してくれた。なんでも橘愛子とかいう声優のファンサイトでいいことをしたら、本人からありがとうが返ってきたとのこと。だから、もう俺のカウンセリングは必要ないらしい。なんだか知らないけれど、有名人に影響与えるなんてすげえな、と純也を褒めた。
そして、診察料を訊かれた。あ、考えてなかった。
考えてなかったから、俺は見習いってことで、ただでいいことにした。純也は驚いているようだ。まあな。
ちゃんとしたカウンセラーに頼んだほうがいいぞといったら、「見習いでも、先生のカウンセリングはとても役に立ったよ」と答えてくれた。
「サンキュー」
ちょっと泣きそうになった。あ、でも今のはありがとうと返すべきだったか。
「俺な、今、外で歩いていて人とすれ違うたびに、『ありがとう』と心の中で唱えてるんだ。外に出れば『ありがとうポイント』貯め放題だぜ。いつか外に出られるようになったときは、そうすればいい」
すると純也は、絶対そうする、今を越えてみせるから、と漫画の台詞のような言葉を放ってくれた。いつになく大きな声を聞いて、そして純也の目を見て、こいつはきっとやる気がした。なぜなら俺はこの目を知っているから。この目が見据える先は希望。おまえも新しい景色を見る気なんだな、純也。
そして最後に、『ありがとうポイント』をがんがん貯めろよといって、純也の部屋を出た。
帰り際、竹田の親父さんに別れの挨拶をしたら、頭を下げられた。
「ありがとうございました。きっと息子にとっていい結果になったと思います。この間、とても充実した顔でにこにこしていたんですわ。あんな純也を見るのはいつ以来か。本当にありがとうございました」
俺は感極まって、ここでも泣きそうになった。最初は騙して金を奪い取ってやろうだなんて考えていた、だめだめの俺に感謝してくれている。
「とんでもないです。礼をいうのはこちらのほうなんです。まだ見習いで、てんでだめな自分にとっては、とても有意義な時間でした。勉強になりました。ありがとうございました」
純也、あんまり頑張らなくてもいいけれど、きっとおまえは頑張っているから、これからもいいことが起こるといいな。
◇
それから一週間ほうけていたが、そろそろ俺も頑張るかと思い、銀行に盗まれたカードと通帳の紛失届を出すことにした。ただし盗まれたとは告げずに。あれから随分経つから、不信がられないように、気付いたら失くしていたということにしよう。
また0から金を貯めるか。夢は逃げないっていうしな。そうだ。もしまた起業ができるようになって、そのとき純也が必要としてくれたら、純也を雇おう。最初は雑用だし、バイトからだけど、いずれ金が回るようになったら正式に社員に。
なんだかうきうきしてきた。そのとき、ふと章吾のことを思い出してしまった。
本当は章吾を起業に誘うつもりだった。あいつは俺の知る中で一番信用の置ける奴だったから。会社を辞めてるなら尚更、誘いたかった。でも今更、どの面下げて俺の前に現れてくれるっていうんだよ。
俺は、やりきれない思いを残したまま、銀行に向かった。
無事、紛失届を出し、通帳を受け取った。カードは二週間後に家に送られてくるらしい。そして、残高ゼロのはずの通帳を見た。
「ええ?」
そこには5の横に0が6桁、つまり五百万円が記帳されていたのだ。日付を見ると、章吾がいなくなった日の翌日には五百万円入金されている。
「はは、こんなことって」
章吾だよな。おまえはきっと盗まれた俺の五百万円を取り戻すために闘ってくれていたんだろう? なあ、章吾。答えてくれよ。