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第一章 ニートのたしなみ―2

   その七、全力


 土曜日になった。ただいま午後五時、一分前。また至福の時間の始まりだ。

 だけど、その回は違った。橘愛子務めるヒロインのナルミが、戦闘に破れ、落ち込んでいる主人公にこういったのだ。


「全力だけが、くだらない現実を変えてくれるのよ!」


 俺はこのセリフに違和感を覚えた。俺の鈍痛のような記憶が、このセリフに猜疑心を投げかけるのだ。

 俺だって全力を出したことはある。中学の時の部活の話だ。

 

 俺はバドミントン部に入っていた。毎日毎日、俺は全力で練習していたと思う。

 ランニング中、あんまりきつくて脳内麻薬が出て景色が真黄色のフィルターを通したように見えたこともある。

 部活の後は、気持ち悪くて食事が喉を通らなかった。部活仲間の、腹減ったーという言葉の意味がわからなかった。

 そういえばテレビの情報番組で、ボクシングの世界チャンピオンが昔、貧乏で食費がないものだから激しいトレーニングをしていたというエピソードが流れていたことがある。

 コメンテーターたちは「運動したらお腹が空くでしょう」と笑っていたが、俺には意味がわかった。

 もっとも、世界チャンピオンクラスのボクサーの運動量と俺の運動量では雲泥の差があるのだけど。

 まあ、とにかく俺は頑張った。そして、中学最後の年に、俺はようやくレギュラーに選ばれた。団体戦のメンバーには選ばれなかったが、特別にシングル戦でのメンバーに選ばれたのだ。

 努力が報われた気がした。うきうきした。試合の日をカレンダーで赤い丸をつけて、指折り数えて待った。

 だけどついてない奴は、結局駄目だ。

 試合目前の練習で、体育館の中を全力ダッシュしていた時のことだ。

 各列に分かれて、体育館の端から端まで往復ダッシュしていたのだけど、運悪く後輩と交錯する瞬間、ぶつかってしまった。後輩の膝が俺の右足に喰い込んだ。今まで味わったことのない激痛だった。

 その痛みは次の日以降、やわらいだものの、力を入れると痛いことに変わりはなかった。俺はその痛みを誰にもいわずに、練習中、足をかばって手を抜いてしまった。そうしたら顧問の先生にこいつは使えないと思われたらしく、直前でレギュラーを外された。その日、家に帰ってからベッドに潜り込み、嗚咽を漏らして泣いた。

 別にぶつかった後輩のことは恨んじゃいない。ただ運が悪かっただけだ。そいつの名前も忘れた。 

 ん? あ、名前は覚えてる。でも、どうでもいい。

 大学受験のときもそうだ。俺は高三の夏休みから追い込みをかけて、センター試験前の最後の模試では、夏休み前よりも一二〇点も合計点を上げた。

 しかし試験前日、泊まったホテルが急に揺れ出した。地震かと思ったら、気分が悪くなってくる。揺れていたのは俺の頭の中だった。

 明日には治っていてくれと祈ったが、試験当日も気分が悪いままだった。頭がぐわんぐわんしていた。絶望的な気持ちで試験を受けた。結果、第一志望の大学のボーダーラインには遠く及ばなかった。

 結局俺が引き篭もりになったのも、そういう不運の積み重ねによるものかもしれない。俺の全力は、未来を変えてくれるどころか俺を絶望の谷に突き落としただけだ。

 

 だからこそ、「全力だけが」のセリフに違和感、いや、不快感を覚えたのだ。

 その回は、頭の中が嫌な記憶をリピートするばかりで、そのセリフ以降の内容は頭に入って来なかった。

 嫌なこと思い出させやがって。

 俺はアニメが終わると、すぐにアニメの公式サイトにある掲示板に書き込んだ。


俺「全力出したところでどうにもならないことがあることくらい、いい年した社会人ならわかると思いますけど? 子供に嘘教えていいんですかあ?」と。


 いつもは応援メッセージしか書かないし、荒らしを嫌悪していた自分が荒らしをやってしまったのだ。

 ざらざらとした罪悪感が残るだけだった。

 

 この書き込みはちょっとした反響を巻き起こした。


「全力を出すことの重要性がわかっていない」「子供の夢を壊すようなこというな」「すれた大人が見てんじゃねえよ」といった批判から「まあ、全力出したところで変わらないものは変わらないし、正論なんじゃない?」「ナイス大人」といった賛同のコメントまであった。


 そして次の週のアニメで変化があった。それはまるで俺の書き込みに呼応するように、ヒロインがこういったのだ。


「何度全力を出し切っても、動かないものもある。でも、全力を出し切って得られた力で、全力を出し切れば、動くものだってあるわ!」


 そのセリフはまるで俺に訴えかけているようにも感じられた。

 でも、所詮、アニメの決められたセリフじゃん。くだらないよ。


   ◇


 次の日、親父がいつものように自己啓発本を買ってきた。俺の知識は親父が買ってきてくれた本によることが大きい。


「積極思考がいいんだとよ。悲観的なことを思い込み過ぎないようにポジティブにってな」


 親父は俺のために勉強してくれたのか、いつものように本に数箇所だけ付箋を貼って渡してくれた。「全部読まなくてもいいけど、そこ読んでみた方がいいぞ」と。「ま、読む気になったらな」と付け加えて部屋を出て行った。

 俺に過度のプレッシャーをかけないように親父は親父で考えに考えているのだ。俺のことで悩んでいるのは俺だけじゃない。わかっている。わかっているのに何もできない俺。

 せめてと、付箋の貼ってある部分を開いてみた。


「諸行無常。変わらないものはありません。あなたにも必ず夜明けが来ます」


 夜明けか、俺の夜明けはいつだろう?

 そういえばこの間、ネットの辞書で「ぎょおぉぉてん」を「ぎょうてん」として調べてみた。

 そしたらこんな言葉があった。


暁天ぎょうてん 意味「明け方の空、夜明け」』


 明け方の空、夜明け。

「ぎょおぉぉてん」の正体を知ることは、果たして俺の夜明けとなるのだろうか?

 

   ◇


 何度、逃避行の眠りをむさぼれば、月を恐れずに済むのだろう? 何度、絶望の朝を迎えれば、朝日は優しくなるのだろう?

 詩を読んでみた。この狭い空間じゃそんな日が多い。今日みたいに鬱状態が強いときは、何もする気になれない。こういうときは無理やりにでも、運動をするか、声出しをすれば幾分気分がマシになる。そうわかってはいるが、不安が大きすぎて、体を動かすことすらできない。ただ何もできないことを、悔やむばかりだ。

 自分を責めてもしょうがないんだと開き直ろうとするが、結局、悪いのは自分なんだから、自分を責めるしかないじゃないかという結論に至る。


 その日も朝から俺は、リズムよく踏み台昇降運動をしていた。すると階下から階段を上ってくる音が聞こえた。


「入っていいか、話があるんだ」


 その言葉に俺はもろに身構えた。何か重大な話の気がしたのだ。なんだろう。襖を開けると親父の表情からも緊張が伺えた。きっと一大決心をしてここにきたに違いない。


「カウンセリングを受けてみないか」

「え」


 話を聞いてみると、なんでも知り合いにカウンセラーがいるらしく、その先生に俺のカウンセリングを依頼したらしい。

 俺が部屋で色々やっているのも、いつかは社会復帰したいと願っているからだ。だから「受けてみたい」と答えた。正直、人に会うのは怖い。だけど、そこに何か望みがあるのならば。

 

   ◇


 次の日、午後三時に早速カウンセラーがやってきた。立山という男の先生だ。二十代だろうか。玄関の中で立っているその先生は、俺と同じくらいの歳に見える。きちんとスーツを着て職のあるこの先生と、ジャージ姿の引き篭もりの俺。同じくらいの歳だとしたら、この差はなんだろう?

 カウンセリングは俺の部屋で一対一で行うことになった。六畳一間の部屋の中で先生と向かいあってお互いあぐらをかいている。緊張するな。


「家から出られないそうだね。原因の大体のことは親父さんから聞いた」


 親父には女の子に振られたことまでは話していなかったので、就活失敗とじいちゃんが死んだことが重なってとでも答えたのだろう。


「まあ、挫折や近しい人が亡くなったりして鬱になっちゃう人も多いから、それが重なっちゃったんだから仕方ないといえば仕方ないよな」


 先生は極めて軽い感じで話しかけてくる。俺は適当に相槌を打つ。


「他に何か気になることとかある?」

「気になることですか」

「うん、なんでも気楽に話してよ」


 将来の不安。「ぎょおぉぉてん」とは何か。気になることは色々あったが、とりあえずテレビのことを話した。先生のことを推し量る意味での軽いジャブだ。


「テレビのバラエティー番組とかでよくある『え~』って合いの手がうざいです」

「あ~、はあはあ」


 先生はそういいながら天井を仰ぎ見る。考え込んでいるようだ。そして、また俺のほうを見た。


「確かにテレビではしょっちゅう、『え~、え~』ていってるね。俺もあれは大袈裟だなって思うときがあるよ。う~ん、そうかあ。あれが気になるかあ」


 先生は今度は、腕組みして下を向いた。また考え込んでいる。そりゃそうだ。これどうにかしろっていっても、無理だよなあ。だったらテレビ見なければいいだけだし。

 しばらく沈黙が続いたので、俺も何か悪い気がして「もういいです」といいかけた。すると先生が腕組みを解いた。


「わかった。次来るときまでに対策考えておくから」

「え」

「じゃあ、今日のカウンセリングはここまでってことで」

「今日終わり?」

「うん。次回な」


 俺は思うところがあって先生に訊いた。


「あの、カウンセリング料は……」


 もしもカウンセリングがえんえん続くのならば、金がかさむのではないかと不安になったのだ。


「え、ああ、今日はいいや。カウンセリングが終了したときにまとめて貰うよ」

「はあ」

「うちは成功報酬制なんだ。カウンセリングに成功したら貰うからさ」


 そんなんで経営大丈夫なの? なんか最初、ちゃんとした人に見えたのに、今は随分いい加減な人に見える。

 そして先生は、「よっこいしょ」といって立ち上がり、「じゃあな」といって部屋を出ていった。か、軽い。


   ◇


 次の週のカウンセリングの日、先生は「世の中の自分に起こることって、全て意味があると思うか」と禅問答みたいなことを訊いてきた。

 俺がそうあって欲しいというと、先生は、「意味がある」と答えた。それではなぜ俺が『え~』をうざがるのか、先生は答えようとした。が、結局、答えは次のカウンセリングで、ということになった。

 この人、本当は何もわかってないんじゃないの?

 そう思っていると、先生は次のカウンセリングの日までに、俺自身のことだから自分でも考えるようにいってきた。本当に意味なんてあるのかな? 


   ◇


 また次の週のカウンセリングの日が来た。一週間『え~』をうざいと思う理由を考えてみたが、特に意味は見出せなかった。

 先生が部屋に入ってきた。何かわかったか訊かれたが、答えられない。すると先生は、なぜ俺が『え~』を気にかけるのか? といって自信ありげにこういった。


「『ありがとうポイント』を貯めるためだよ」


 にやりとしながら、どうだ、といわんばかりに。

 意味がわからないので、先生の話のつづきを聞いた。


「『ありがとう』という言葉は『ありがとう』と思える言葉を引き寄せる力があるんだ。『引き寄せ』っていってな。自分の放つ思考の波長によって、それと近しいものが自分に寄って来るっていう宇宙の法則だ。中でも『ありがとう』はいちばん有名なやつだ」


 なんか似たようなことが書いてある本を読んだことがある気がする。


「だから『え~』って聞こえたら、ラッキーと思って『ありがとう』と思うんだ。言葉に出して唱えるのもいい。あいつら『え~』なんて、しょっちゅういってやがるからな。いい機会だよ。『ありがとうポイント』貯まりまくりだぞ。やったな」


 先生はくくくと笑っている。本気か、この人。


「それでいつかポイントが貯まったら、よくある店のポイントカードみたいに換算されて、ちゃんと『ありがとう』と思えることが返ってくるから」

「でも、そういうのって心から『ありがとう』と思わないと意味がないんじゃないですか?」


 俺は能天気なこの先生の態度に少しむっときて、間髪入れずに早口で訊いた。


「いや、いいんだよ。とりあえず『ありがとう』って思えば。『ありがとう』という言葉自体に意味があるから。信じろ。間違いないから。だいたい人間は、一度に二つ以上のことを同時に思えないんだから、とりあえず『ありがとう、ありがとう』と思っとけばいいんだよ」


 うさんくせえ。

 俺がそういう目をしていることに気がついたのか、先生は取って付けたように、「何事もやってみなきゃわからないぞ」といった。

 カウンセリングの先生がそういう超能力的な話していいの? 大丈夫か、この人。


「だったら、先生はそれを実証されたんですよね」


 すると先生は、身の上話を始めた。なんでも、貯めていた金と一緒に親友が消えてしまったそうな。悲惨だなと思った。しかし先生は、『ありがとうポイント』とやらを貯めていたら、その金と親友が帰ってきたらしい。金を盗んだのは親友とは別の奴で、親友はそれを取り返すために闘ってくれていたのだとか。


「だから、信じてつづけることだ」

 本当かな?

 先生の目は真剣に見えた。だから俺は、半分疑いつつもやってみることにした。少しでも救いが欲しい。


「いいか。おまえは普通の人より有利なんだ。普通の人なら見過ごしてしまう『え~』を、これからは『ありがとうポイント』に換算できるんだからな」


 先生は今日のカウンセリングの最後にそういった。

 それからは、バラエティー番組やワイドショーで『え~』というたびに、『ありがとう』と唱えた。とにかく唱えた。テレビ人はしょっちゅう『え~、え~』いっているので、『ありがとう』には事欠かなかった。先生のいうとおり、確かに『ありがとう』と思ういい機会にはなると思った。あいかわらず、うざいとは思いつつも。

  

   ◇


 『ありがとうポイント』を貯める日々を過ごしていた俺は、いつものように橘愛子のコミュニティーサイトを覗いた。すると、驚くことが書かれてあった。


S「なんとなんとあのセリフ、アイッコのアドリブだったそうですよ~。今月のアニメ☆スターにアイッコの特集があって、インタビューで答えておりました!」


 「アイッコ」とは橘愛子の愛称で、『アニメ☆スター』とはアニメの特集を組む月刊誌だ。部屋から出られない俺が『アニメ☆スター』を手に入れることはできない。さすがに親にも頼めない。恥ずかしいし、書店で親に、そのオタク臭ムンムンのアニメ雑誌を手にさせるのは、あまりに酷だろう。


俺「Sさん、そこんとこ詳しく!」


 俺は慌てて詳細を訊いた。


S「アニメの公式サイトの掲示板に先週のセリフに対して批判的なコメントがあって、それにどうしても答えたかったんだそうです!」


 それが元で、アニメは世間でもちょっとした話題になり、橘愛子の人気も上昇した。すれていた俺は、もしかしたら話題作りであえて、アドリブってことにしたのかもしれないなと思った。

 俺と同じことを思った奴もいるようで、公式サイトの掲示板に売名行為だと批判をする奴も現れた。

 俺もそう思ったけど、橘愛子が本当に俺の声に反応してくれたのかもしれないし、彼女の話題作りに一役買えたのは事実だろうから嬉しかった。掲示板に批判を書いてくる奴はちょこちょこいたけれど、そんなことで橘愛子の人気は揺らがない。だから、ここのルール通り、荒らしはスルーした。

 だけど、「橘愛子は昔、売春していた便器女だ」って書き込みを見たときは、本当に腹が立った。そしてその批判の火種となった自分にも。橘愛子はあんな卑劣な書き込みをした俺に真摯に答えてくれるようないい子なのに。俺を喜ばせてくれたのに。 

 だからお礼に、『昔のことなんて関係ねえんだよ! 橘愛子を否定する奴はけちょんけちょんにしてやんよ!』つって、その掲示板で橘愛子の批判をする奴とは、例の手を使ったりして、徹底的にやりあった。朝昼晩、掲示板に張り付いて、徹底的に。みんな荒らしはスルーだっていってんのに。

 報われもしないのにくだらない全力の使い方だ。

 だけど俺は、全力を出し惜しみなどしなかった。全力を出し続けた。気が付くとディスプレイの前で突っ伏していることもあった。よだれを拭きつつ、また荒らしと対峙する。えんえんとそれを繰り返した。

 そんな生活が一ヶ月近くつづいた。やがて荒らしをしてた奴らは嫌気がさしたのか、サイトの管理者の規制にあったのか、今回の件に関しては書き込まなくなった。

 人生で初めて結果を出した気がした。人生でもっとも意味のない結果だろうけど。ふと鏡を見ると、目の下にクマを作ったくたびれた自分の顔と目が合った。その顔がなんだかおかしくって、にかっと笑ってしまった。

 うん、自分の笑顔は嫌いじゃない。

 

   ◇


 今は七月。夜の七時ごろ、一階から親父が俺を呼ぶ声が聞こえた。先生からの電話らしい。


「おい、カーテン開けてみろよ。同じ方角だから多分見えるはずだ」


 先生の言葉が俺にはなんのことかわからず、二階の自分の部屋に戻り、恐る恐るカーテンを開けてみた。


「わあ」


 すごい空だった。

 太陽は山陰に隠れている。その代わり、空は吸い込まれそうな綺麗な青空で、雲は自ら発光しているようなオレンジ色だった。今まで生きてきてこんな美しい空は見たことがない。

 しばらくその光景に見惚れていたが、先生のことを思いだし電話口に向かった。


「見ました! 見ましたよ、先生! すごい空です!」


 俺は興奮していった。先生も興奮しているようだった。そしてこういってきた。


「あるんだよ。世の中にはこんな綺麗なものが」


 先生の言葉には、それ以上に何かいいたげな言葉が潜まれているように感じられた。


「あれですかね。『ありがとうポイント』が貯まったから、こんな空が見れたんですかね」


 いつになく物事を前向きに考える自分がいた。

 先生も、そうかもな、そうに違いないと答えてくれた。

 

   ◇


 『スカイブレイド』の放映が終わった。充分に堪能させてもらった。こんなに思い入れのあるアニメももうないだろう。寂しい気持ちで一杯になる。

 最終回は橘愛子扮するヒロインの、こんなセリフで締めくくられた。主人公の「未来は誰にもわからない。だから一寸先は闇なんだ」に対するセリフだ。


「だったら私が光になるわ。目が眩むような強い光にはなれそうにないけれど、明るい光に。ちゃんとあなたが一歩を踏み出せるように」


 君が光なら、きっと優しい光だろうね。目に優しい光に違いない。

 『スカイブレイド』の最終回が始まる五分前に、橘愛子のコミュニティーサイトに橘愛子本人を名乗る人物が書き込みをしていった。


アイッコ「批判もたくさんされたけど、私のことを守ってくれる人がいたから頑張れました。ありがとう☆」


 本当に本人だとしてもリップサービスだろうなと思った。でも、報われた気がした。『ありがとう』が返ってきたのだ。


   ◇


 次のカウンセリングの日、先生にそのことを告げ、もうカウンセリングはいいと伝えた。

 すると先生は、「そうか」と答えた。


「あのカウンセリング料は……」


 一番気になっていたことを、どきどきしながら先生に訊いた。


「診察料はいいや。俺、実は見習いでさ。人から金貰うような身分じゃないんだわ。だから、ちゃんとしたカウンセラーに頼んだ方がいいぞ」


 これこそびっくり仰天だ。金がかからなくてほっとしたけど。

 俺は、見習いの先生のカウンセリングは充分役に立ったことを告げた。先生はサンキューと答えてくれた。そこはありがとうじゃないの? まあ、意味は同じか。

 そして、外に出られたときの『ありがとうポイント』を貯めるやり方も教えてくれた。


「これからも『ありがとうポイント』をがんがん貯めろよ」


 先生は最後にそういって帰っていった。最後も軽い感じだったけれど、こんな大人がいてもいいのなら、もうちょっと頑張れば、俺もいけるんじゃないかって気にさせられた。

 それにしても大丈夫なのかな、あの先生の経営。まあ、大丈夫でしょう。『ありがとうポイント』貯めてるんだろうし。

 

   ◇


 橘愛子が結婚することになった。ある日の明け方、ネットのニュースで知ったのだ。声優は引退するらしい。俺は心からおめでとうと思えた。それが嬉しかった。正直、切なさはある。でもわかっていたことだ。自分とは住む世界が違うと。親しくなることなどないと。いつかこんな感情を味わうことになると。

 俺が橘愛子のことを他のファンみたいに「アイッコ」と呼ばなかったのも、精神的に距離を置くためだ。こんなときのためだ。だって、親しみを込めて呼べば呼ぶほど、こんなとき、つらくなるだろう?


「一回くらい生で見たかったなあ。まあ、でもこれ、バーチャル恋愛みたいなものだから、俺は現実には、まだ一回しか失恋したことがないな。まあ、告白したのも一回しかないけど」


 そういっていつになく大きな声で笑ってみた。

 興味本位で橘愛子のコミュニティーサイトでのファン達の反応を覗いてみると想像したとおり、祝福と悲しみで満たされていた。

 俺も、ちょっとだけ書き込んだ。


「何もしてあげられないけれど、今この瞬間、君の幸せを祈りました。アイッコおめでとう! ありがとう!」と。


「あはは。俺、バッカで~。今さらアイッコって」


 笑いながらアニメのセリフを思い出し、声に出してみた。


「ばかやろう。これはオイルかラジエーターの水だ。機械は涙なんか流さない」


 そして、オイルかラジエーターの水を拭った。どうしても我慢できなかったんだ。


「橘愛子の声が聞けなくなるなら、この生活もつまらなくなるな」 


 だから俺は、部屋のカーテンを開けた。そして窓を少しだけ開けた。恐る恐る。だけどそれじゃ物足りない気がして、今度は「えいや!」と全開に開けた。早朝の澄んだ涼やかな風が頬をなでてくれた。

 しばらくその風を楽しんでいると、その風に乗って、またあの声が聞こえてきた。


「あぁぁめぇぇにぃぃ、ぎょおぉぉてんっ」


 珍しいな。こんな時間帯に。そう思った瞬間、あのセリフが脳裏をよぎった。


「全力を出し切って得られた力で、全力を出し切れば、動くものだってあるわ!」


 三年間。三年間、俺は玄関の扉を動かせずにいた。だけど、今の俺ならどうだろう。

 確かめるんだ。「ぎょおぉぉてん」とは何か。全てはそこから始まる気がする。

 俺は自分の部屋を出て、玄関に向かった。玄関には懐かしい俺のブルーのラインが入ったスニーカーが置かれていた。きっと親父がしまわずに置いてくれていたのだろう。俺がいつでも外に出られるように。

 ありがとうと思いつつ、そのスニーカーを履く。そして、玄関の扉のドアノブに手を掛け、三年ぶりに扉を押し開いた。それこそ全力で。ドアの向こうは、一歩を踏み出すのに十分な光で、思ったよりも優しい光で満ちていた。

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