常夜灯
歪んでいる気がする。
俺は煙草の煙が夜の闇に消えるのを眺めて、そう呟いた。
ずれた眼鏡を押し上げる気にもなれず、外灯横のベンチにもたれてため息混じりの紫煙を吐く。
月明かりをかき消す光の下で、茂みから尻尾を立てて出てきた猫をを目で追ってから、俺の肩にもたれかかる黒髪をひと掬い指に絡めると、それはするりと俺から逃げた。
まだ幼さを残す、赤く腫れた少女の眠った瞳は俺を見ない。
折角買った雑誌を開く気にならないまま、俺は煙草を足元で消すと、また新しい煙草に火を付けた。
いつもにこにこと笑顔を絶さないイメージを持っていた。
少なからず思う所はあったものの、自分の立場を考えれば何か行動する訳にもいかず、ただそのイメージを抱くのみで俺は自分を留めていた。
俺は教師で彼女は生徒。
このまま彼女は卒業し、俺はまた日常を生きていく。
それが定められた未来。
しかし。
「……何?なんで泣いてんの?」
放課後の教室。
暮れた空を背景に、ぽたりぽたりと頬を落ちる雫。
それはただ一人の為に。
「先、生ぇ……」
見たことのない泣き顔で、赤い目に涙を溜めたまま、偶然居合わせた俺に手を伸ばす。
何かに縋っていなければ自分を保てないのかと、俺はただ愛しくて、どうしようもなく切なくて、伸ばされた手を牽いて抱き寄せた。
嗚咽まじりの話はあまり聞き取れやしなかったけれど、それでも好きなのだと、ぽたぽたと涙を溢しながらうつ向いた。
夢に描くよりリアルなこの胸によぎる痛みは、慰める事も忘れて錯覚を芽生えさせる。
「俺ならお前をこんなに泣かせやしないのに」
口から漏れた本音。
しまったと思った。
踏み込んでも、そこには後悔しかない。
俺を見上げた彼女は泣き腫らした目を細めて、
「先生は優しいね」
と笑った。
かわされたのか、ただの慰めだと受け取ったのか、残酷な言葉に悲しい笑顔をのせて彼女は俺から離れた。
そうして俺は教師としての立場に戻る。
「ラーメンでも食いにいくか」
からかうような薄笑みを浮かべて、震える手をズボンのポケットで隠した。
思い出しては泣いていた生徒は、公園のベンチで休むなり泣き疲れて眠った。
無防備に俺の肩に体を預けて。
艶やかな黒髪は何度指に絡めようとしても逃げていく。
と、
ざりっと強く砂地を踏む音が、ほんの数メートル先で鳴った。
猫ではない音。
「……何やってんだ、テメー」
「遅いよ、斉藤くん」
顔を上げると、着崩した制服姿の斉藤が立っていた。
俺がメールで呼んだのだ。
全員ではないが生徒とアドレスを交換している。
「それ俺の女だっつってんだろ」
見下すように顎を上げて、俺の隣を指差す。
「……なら、もうちょっと大切にしたらどうなんだよ」
ボソリと呟いた声が聞こえなかったのか、斉藤は苛々とした素振りで近づいてくる。
その時、つい立ち上がろうとしてしまった俺の動きで彼女が目を覚ました。
一瞬あたりを見回そうとして気づき、
「……達也…!」
嬉しそうに顔を綻ばせ、俺の元を離れて斉藤へ走り寄る。
斉藤は少し勝ち誇った顔で俺を見てから、彼女の肩を抱いた。
「お前、何浮気してんだよ」
「浮気なんてしてない!」
それは達也でしょう?と、続いた語尾は掠れて消えた。
斉藤は聞こえなかったフリをして、
「生徒に手ぇ出してんじゃねーよ」
と俺に悪態を吐いた。
「いや、出してないから。……さっさと帰りなさい。先生は早く帰ってビールみたいから」
追い払う仕草で手を振って、斉藤の腕の中で頬を染める姿から目を逸らした。
「先生!ラーメン美味しかった!ありがとう!」
今日初めて聞く明るく弾んだ声に手を振って、足元に落ちた吸殻の数を数えた。
14本。
気付かぬ内に随分吸ったと顔を上げ、ぴたりと寄り添いながら消えていく影を見送る。
俺はまた煙草に火をつけ、天を仰いだ。
ジリジリと小さな音を立てて明かりを落とす外灯を暫く見上げ、
「歪んでるよなぁ」
俺は再びため息のように煙を吐いた。
泣いている姿を見る位なら、俺はやっぱり幸せそうに笑っている姿を見る方がいい。
どうやっても俺には出来そうにないから。
俺はただ傍に立って、君の夜を常夜灯のように照らす。
立ち止まった君が、夜に呑まれてしまわぬように、導いてあげよう。
君の好きな彼の元へ。
それが、
教師である俺が、君に出来る最大限の事だから───
先生はきっと世話焼き。生徒に人気もあると思います。
あと書いてませんでしたがそれなりに若いです。
読んでいただきありがとうございましたっ。