学会が好きになれない
華やかな舞台を夢みていたのは昔のことでした。
研究職として働いていると、ある年齢を境に、学会との距離が否応なく近くなります。専門委員として名を連ねたり、分科会の運営に関わったり、企業研究者であっても、学会の肩書きが増えていくことが「自然な流れ」として扱われます。会社の評価制度もそれに歩調を合わせており、学会での役職や委員歴が増えるほど、研究者としての“格”が上がったように扱われます。
しかし、私はこの構造にどうしても馴染めませんでした。学会の活動が嫌いだった、というより、学会が評価される理由が、私の研究の価値とはまったく別の軸で動いていることに、強い違和感を覚えたのです。
私は、研究の本質は「現象の背後にある因果構造を理解すること」だと考えています。電子がどのように物質内で振る舞うのか、電磁場がどのように試料に影響を与えるのか、観測されるスペクトルの背後にどのような力学が潜んでいるのか。こうした問いに向き合うとき、学会の肩書きは何の役にも立ちません。必要なのは、手を動かし、数式を追い、実験と理論の間を往復しながら、少しずつ構造を掘り進めることです。
しかし、学会はそうした「構造を掘る営み」を評価する場ではありません。学会の多くの活動は、既存の研究領域を維持し、コミュニティを安定させるためのものです。専門委員の役割は、研究費の流れを整えたり、次のシンポジウムの座長を誰にするかという政治的調整を行ったり、他組織の有力者に顔を売ったりすることに終始しがちです。
そこにあるのは「科学の進歩」ではなく、純然たる「組織の維持と権益の管理」でした。気がつけば、学会誌の巻頭言や、名誉あるシンポジウムの登壇枠は、現場で最も手を動かしている人間ではなく、最も「学会政治」に長けた人間に割り振られていきます。若手研究者の優れた成果さえも、そのコミュニティの重鎮を「立てる」ためのスパイスとして消費される構造を見て、私は胸の奥が冷めていくのを感じました。
かつて学生だった頃、きらびやかな壇上でスポットライトを浴びるシニア研究者の姿は、研究の最先端を走る英雄のように見えていました。華やかな舞台を夢みていたのは、確かに昔のことでした。
しかし、今の私にとっての「華やかな舞台」は、学会の壇上にはありません。夜遅く、静まり返った実験室で、誰も気づかなかったデータの一致を発見した瞬間。あるいは、複雑な数式が納得の答えを導き、現象の因果関係がカチリと音を立てて繋がった瞬間です。その孤独で静謐な瞬間にこそ、研究者としての至上の喜びがあります。組織の評価や、肩書きという名の虚飾から距離を置き、ただ目の前の現象の真理だけを追い求める。泥臭く、しかし純粋に「構造を掘る営み」に立ち戻ることこそが、私が研究職として生きる唯一の道なのだと、今では確信しています。
お読みいただきありがとうございました。
学会そのものを否定するものではありません。学会の意義を見つめ直し続ける組織であれば。




