【大衆の政治=祭り】はインボイス、ノン・フルールマン原則を反故、神宮外苑の伐採、ウクライナ、グローバルサウス、気候危機、強権政治、政治への不信、これら《家父長》による《奴隷》体制ならば一つの希望か
いきなりこのようなタイトルを目にしてしまうと、「またあ女尊男卑かあ?」と思う方もおられるかもしれないが、しかし今の私と今の世界情勢を見た時、やはり私はこれを避けては通れないと思うのである。
私が《家父長》というものを書いて重要なものと感じ取ったのは、ハナー・アレントの「人間の条件」に依る。これも非常に優れた本なので是非とも読んで欲しいのたが、その部分だけ抜き出すと、人間の生きること=活動力は《労働》、仕事、【活動】の3つである。
《労働》は《生命維持》のための活動力。
仕事は橋や家といった永続性、耐久性を持つモノを作り出す活動力。
【活動】は私なりの解釈だが、【より善き人間であろうとする】活動力である。
問題は《労働》である。3つの活動力は三様にバランスがとれて良いとされるのだが、国家が《労働、生命維持》のみに偏った状態を《国民国家》と呼びそれは《労働》のみに縛られた恥ずべき《奴隷状態》であり、古代ローマでは《オイキア=家》と呼ばれもし隠されていた。私は《オイキア=家》というならその《国民国家》のリーダーはさながら《家父長》とでも言えようかと考え、そこには《家父長》と《奴隷》がいる。そしてハナー・アレントが何を見てそれを考えたかといえば、ナチスである。であるならば、ヒトラーを《家父長》として、当時のドイツ国民を《奴隷》と言えるのだろうか。「アイヒマン裁判」における彼のホロコーストへの無責任さとはまさに《奴隷》だったからとするならば、救いようもない。
話を戻そう。なぜ私がこの話をしたか。それは今の日本に「独裁者」はいないかもしれない。しかし《家父長》はいる、そう考えるからだ。日本という《家》において《家父長》たる政治リーダーに国民が《奴隷》的に盲目に服従、敬愛、無関心になっていやしないか。確かに国が国民の《労働、生命維持》を守ることは責務である。しかしそのためならば【より善き人間であらんとする活動】を蔑ろにして何が起きるか? インボイスか、ノン・フルールマン原則を反故が、神宮外苑の伐採が、ウクライナ侵攻が、グローバルサウスが、気候危機が、強権政治が、政治への不信が、【より善き人間たらんとする活動】を満たすのであろうか? 結局はせっせと一部のお友達が甘い蜜を吸うための《労働》ではないか。しかし今現に政府は《家父長》と化しており、その《家=国民国家》において国民の道は《家父長》におもんばかる《同属》か、負けて非人扱いか盲目になった《奴隷》しかいない。
とは言ったものの私はこの文章を何かしらの抵抗やアジテートを目論んでいるかと問われると、返事に困る。となると結局は勝つ気も勝つ見込みも打ち捨てられる搾取される側に寄り添わず自分の正義ごっこを振り回すだけと嘲笑されるだろう。これを逃げ口上のように言ってしまえば。もはや《奴隷》である私も含めた国民に、一体何の意思を持って《家父長》に物申せばよいのだろう、「《奴隷》のくせに! 分をわきまえろ!」《家父長》にどつき回され引きこもるしかない。しかしそれが《家父長》の思う壺、ジーン・シャープの「独裁体制から民主主義へ」の「猿の寓話」に同じ「主人に従うのが当たり前のことだから」と《奴隷》状態を受動的に受け入れる。「猿の寓話」では一匹の猿が言う。「主人の食べ物は猿が主人の命令に従って持ってくる。つまり主人の生存は猿の手が握っており、猿の服従いかんで決まっている。猿が不服従し逃避すれば主人は食えない。立場が上なのは猿だ」猿は主人への不服従を示し、主人は飢え死ぬ。《家父長》は《奴隷=家族》がいなければ《家父長》たりえない。しかし。では「猿の寓話」よろしく今の日本国民が《家父長》に不服従を示せるか? 悪夢の民主党政権だ消極的だが今の政権しかないそう言って《家父長》に服従する。しかしその諦観がタイトルの悪行であるならば、我々はそれもまた《奴隷》として受け入れるのか?
第二次世界大戦時にインパール作戦というものが行われた。現ミャンマーのインパールという都市を大日本帝国陸軍が攻略せんというものである。当初は軍の兵站の専門家が進軍は不可という結論を出したが、羊に荷物を運ばせて腹が減ったら食う、だから一石二鳥というジンギスカン作戦なるものを提案した牟田口廉也中将が決行したが、往路でかなりの数の羊が死んでしまい、結局不可と言われた進軍をそのまま続け、多大な損失を出して敗退した作戦である。私はこれを聞いて耳が痛い。それは今まさにこのインパール作戦と同じあやまちなど起こさない! と自信を持って言うことができないからである。タイトルの悪行は今まさに現在進行形で起きているインパール作戦に見えて不安以外の何ものでもない。《家父長》がリーダーたる《国民国家》で国民は《家族、奴隷》として《労働、生命維持》を人質に取られ服従するならば、ナチスやインパール作戦の《家父長》の暴走による悲惨は容易に準備され、インボイス、ノン・フルールマン原則を反故、神宮外苑の伐採、ウクライナ、グローバルサウス、気候危機、強権政治、政治への不信、もその水脈に他ならない。
だから私は言う、【大衆の政治=祭り】をしよう。そして《家父長》からの《奴隷》状態ではない新しい生存を、世界を創り出そう、そして【対等な関係】で《家父長》と向き合うのである。ゆえに、《家父長、国民国家、家》が《奴隷》に《労働、生命維持》を押し付けるなら、国民はそれとは異なる【大衆の政治=祭り】を行い【より善き人間たらんとする活動】を示すのだ。民俗学者の折口信夫は民間芸能を日本の芸能の始まりと説いたが、それはそれらが根付いている農村共同体においては【より善き人間たらんとする活動】かつてはそして今でなおそうのではないか。《家父長》制による《奴隷状態》で世界が衰亡してゆく道なら、我々はあらゆるレベルあらゆる方法を模索し我々が同じ【大衆の政治、祭り、活動】として《家父長》によるインボイス、ノン・フルールマン原則を反故、神宮外苑の伐採、ウクライナ、グローバルサウス、気候危機、強権政治、政治への不信に対面する強固さがあること、連帯し肩を組むことができるんだ、衰亡を回避するための活動力があることを示すはずだ。
最後に、マルキ・ド・サドの小説に「悪徳の栄え」と「美徳の不幸」というものがある。「悪徳」は姉、「美徳」は妹が主人公なのだが、姉は詐欺や不倫や殺人などの悪徳の限りを尽くし意気投合した悪徳貴族と結婚して豪奢な生活をおくる。一方の妹は敬虔に美徳を示そうとするが、それがいいように食い物にされてあれよあれよというまに転落し、人買いにまで売られるようになる。しかし彼女は美徳を捨てない。そしてラストは姉は自らの悪徳を反省し悪徳が稼いだ金をすべて教会に寄付し姉は聖人となり晩年を尊敬の中でゆったりと過ごす。対して妹は雷にうたれて死ぬ。美徳を信じ続けた彼女は最後は天によってうたれたのだ。この作品は「金がすべて。力がすべて。美徳なぞ意味無し」というサド当時の世界への皮肉をあえて露出させながら「どうだこれがお前らだ! 希望と本当の美徳を示してみろ!」と言わんとしているのだと私は感じた。美徳を信じ続けた妹を「美徳で飯は食えない」と言い、姉を「悪名は無名に勝つ。最後の寄付で沢山の命を救ったなら、美徳美徳といって何もせずに死んだバカな妹より姉の方が優れて賢明」と言われるかもしれない。しかし姉の聖人とは《労働、生命維持》として命救ったかもしれぬが、【活動】と見たら結局聖人を金で買ったに過ぎず、真の聖人であろうか、彼女の悪徳の栄えとどう向き合ったというのか。妹は、最後の最後まで美徳を、【より善き人間たらん】と最後まで信じ続けた。それはまぎれもない【活動】でありそれにおいては確かに彼女は聖人に近づこうとし美徳だった。姉の《労働、生命維持》は実体として命を救ったやもしれぬ、しかしそれと比較してもなお妹の無惨に雷にうたれたが【より善き人間たらんとした活動】を評価することが、今の我々には必要では、と考える。