1話 誕生
ーーーーい。
ーーーきろ。
『おい。起きんか貴様』
誰かのぶっきらぼうに呼ぶ声で、急速に意識が引っ張りあげられる。
何日も眠っていたかのように、辺りの眩しさに目をやられながらゆっくりと身体に力を入れる。
何故か、身体があることに違和感を覚えた自分に、さらに違和感を覚えた。
自分が言ったことながら、訳が分からんなとくだらない事を考えている間に、正直声のことは忘れてた。
『ぼけっとするな起きろ。ヒトの庭に入ってきて、爆睡かましてるとは何事だ』
再び、乱暴に言葉が投げかけられた。2秒後にでもため息が聞こえそうだ。
さすがに寝起きからため息なんか聞きたくないので、仕方なくちゃんと目を開ける。
目を開けて一番に飛び込んできたのは黒い塊。毛が生えフサフサらしいその塊を、声の主であると認識するまで数秒を要した。
なにせ、声を聞く限り明らか人だと思ってた。
まさか目を開けたら、毛むくじゃらが飛び込んでくるなんて誰が思うのか。
『ようやく起きたか。貴様は何者だ?
何しにここへ来た?と言うよりなんで寝てるんだ』
俺の意識がハッキリしたことを見計らって、問いかけてくる毛むくじゃら。
よくよく見ると、こちらを見る2つの瞳がある。深く神秘的な海の色と、目に焼き付く夕陽の色だった。
そこが顔だと認識すると同時に、毛むくじゃらの正体がどデカい狼であることを知った。
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しばしの混乱の中、俺の脳が再び動き出すまで何だかんだ待ってくれた狼は、顔に似合わず案外優しいらしい。
落ち着くのを待って、幾度目かの質問が来る。
『再度聞くが、何者だ。何用だ。なんで寝てた』
とりあえず狼の目前に座り込み、縄張りを侵した状態で、質問を重ねられてるのは把握した。
それでも上手く思考は纏まらないが、ひとまず答えない事には進まないと、思ったまま話す。
「何者か分からない。そもそもここどこ。
寝る前の記憶が一切ない」
簡潔に事情を話したのだが、我ながら何も答えになっていない回答だった。
悲しいことに事実であるのだが。
自分の名前すらも分からないし、この森らしきところも記憶にない。
こんなところで寝てたのは、不思議なこともあるもんだと。
少し現実逃避も兼ねて、呑気に考えてみる。
ただ、不思議なことに俺の中には、見知らぬ常識があった。
目の前の生き物は狼で、狼はこんなにデカくない。目の色も不思議だし、そもそも動物とは喋れない。
何もかも分からないことだらけで、どうしたものかと戸惑う俺と違い、目の前の狼は何かを納得したようだった。
『ふむ……。であれば、お前は今生まれたのだな。突然反応が現れたのも、それなら理解出来る』
生まれた?俺が?いま?
「どういう意味だ?俺は赤子じゃないが?」
『見てくれこそ人間だが、魔力の質からしても魔の者だろう?自然発生型の魔物は、別に赤子でなくても生まれる』
魔力?人間ではない?
ふと、明らかに自分の持つ謎の常識とのズレがあるのを理解した。
どこのものかも分からない常識が、このズレを説明する知識を持ってきた。
自分がこの常識を得た世界とは、確実に違う理の中にいると。
ただ分かるのが、魔力のある世界に人外として転生したのだと。
ある程度、自分の置かれた状況を把握した。
それまた常識外の出来事ではあるのだが、とりあえず一気に脱力する。
「あーー、マジここどこ」
『ここはオレの家だ。正確には、放浪の拠点であり、それなりの魔物が出る森だ』
特に誰に聞くでもなく、ただ吐き出した言葉を律儀に拾ってくれる狼。
せっかくなので、自分の常識という名の謎知識を整理するためにも、頭の中に漂うものを目の前の巨大狼に話してみることにした。
と言っても、はっきりした事はほぼない。
自分の名前すら分からないのだから。
ただ、地球という星の日本という島国。
そこで生まれ育ったのは、漠然とわかるし、なんなら二次元の記憶は割とあるようだ。
けれど、自分の家族や過去。身の回りの事がさっぱり思い出せない。そもそもなかったのではと思うほどに。
『ほほう。ではお前は前世の記憶が、一部だけあるということか。
前世の記憶など、長い間生きているオレですら、噂でしか聞かないのに。さらに異世界の記憶とは、数奇な生まれ方をしたものだな』
目の前の狼は大変愉快そうに笑う。
話すことで、状況の整理も出来て少し余裕が出来たのか、ふと自分に意識が向いた。
今俺は胡座をかくように座っていたのだが、何気なしに下を向いて固まった。
全裸だった。全裸で、草の上に座ってた。
だがまぁこれはいい。よく分からんが、自然発生とかいうので生まれたばかりだというし、誕生直後であれば服を着ていないのは、納得出来る話だ。
だが、目に映るのはそれ以上の常識外。
……なかった。
なかったのだ。性別を表すものが何も。
起きてから何度目かの停止。覚えた不明瞭な喪失感的に、前世は多分男だった気がする。
だが、つまりはあれか。
俺は今世、性別無き者として生まれたのか。
じっくり眺めてみても、触っても。
上も下もつるぺただった。骨格も筋肉の付き方も。少年とも少女とも取れるような姿。
前世の感覚からか、少し少年寄りに思える。
ふむ。確認完了。どうやら今世は無性らしい。てか、何者なんだろうか?
人間ではないと言われたし、ここまで完璧な肉体的無性の人間など、見たことは無いが。
立って、身体を捻ったりしてじっくり観察する。立ち上がった目線的にも、歳は15、6くらいだろうか?あくまでも見た目的には。
華奢で色白。我ながら、芸術点高いのでは?と思う身体である。
動いたことで、視界の端に長く垂れた髪が映った。これまた綺麗な白金の髪。
サラサラな髪は、中々見ないほどの綺麗さだった。長さは鳩尾くらいだろうか?割と長い。
髪をクルクルと指に巻き付けながら、どこかで顔を確認できないかと辺りを見回す。
ちなみに、狼は俺の事情をある程度聞いたあと、満足したのか丸まって寝ている。
改めて見ても、かなりデカい。
頭からしっぽの付け根まで、3メートルほどだろうか?高さは立ってくれないと分かりそうになかった。
その毛皮に埋もれたくなる衝動を我慢して、とりあえず確認を先にすることにした。
ちょうど狼で隠れて見えなかったが、狼の向こう側に木々に隠れて水の光が見えた。
狼が、魔物がいると言っていたことを思い出し、少し耳を済ませ慎重に安全を確認する。
その時、妙に五感が冴え渡っているような、鋭くなっているような感じがした。
これは、人外となった特典だろうか。
裸足で踏んだら痛そうな枝は、一応避けつつ水辺に到着する。
どうやらすこし小さめの湖らしき所のようで、幸いにも風は少なく、いい感じに顔を反射してくれそうだった。
鏡より見にくいのは仕方ないことである。
水辺のふちに手を付き、顔を確認してみる。
太陽とは反対側に髪を避けて、少しでも見やすくしつつ。
水面に映った顔は、かなり美しいとされるものに見えた。最も、多少なりとも歪む水面では正確な形も分からないし、ましてや瞳の色などほぼ見れないが。
しっかりした鏡が、はやく欲しいものだ。
さて、容姿の確認を終えてさっそくやる事が無くなった。強いて言うなら、服が欲しいとは思うのだが、無性ならば倫理観的にもセーフでは?と馬鹿な考えもある。
特にお腹も空いていない。そもそもここどこ。狼はそこそこの魔物がいる森と言っていたが、どこに街があるとか聞いていない。
とりあえず、歩いてみるか?
だが、戦い方も自分のことも分からない俺が、果たして魔物から身を守れるのか。
少なくとも、狼は平気なんだろう。呑気に寝てるし。
というか、街に出ていいのか?
人間でないかもしれない俺は、なんか魔人だーとか言われて狩られたり……しそうだな。
なんかこう、チュートリアルはないのか。
不親切にも程があるぞ。せめて生まれて一週間くらいサポートあってもよくないか?
いきなり転生して、人外として森に放り出された人って何するの?
試しに魔法でも使ってみるか?
そう考えて適当に唱えてみても、構えてみても特に何も起きず。
魔力とやらを操ってみよう、なんて浅はかに考えたが、結局『魔力とは?』から解決しなければならない事に気が付いた。
ウィンドウとか開けないかな?とか、色々試して見たが結局全て不発。
いよいよやることが無くなった。困った。
自分の能力が分からない。つまり何が出来るのかも分からない。
すよすよと呑気に眠る狼を見る。
木漏れ日で濡れ羽色の毛が照らされて、キラキラと光を反射する。
穏やかに風は流れ、遠くから鳥の声が優しく響く。空気は暖かく、太陽はちょうど真上を通り過ぎしばらくした頃。
つまりは、絶好の昼寝(二度寝?)日和である。
よし。と心の中で唱えて吸い寄せられるように歩いていく。
目標は黒い大きな大きな塊。
そのまま「ぼふっ」と音が聞こえそうな感じに、脱力して毛に埋もれた。
狼の心音と、お日様の光を吸収した毛に包まれて、最高の寝床となる。
そうして俺は、この世界に生まれて初の二度寝をした。