淳之介
沙也夏と再会して二週間が過ぎようとしていた。
街はまさに〝夏がきた!〟という感じで、道ゆく人のファッションもカラフルになっていた。
沙也夏からは、あれから連絡もなく、健太もさぞがっかりしているだろうと思っていたら、それどころではなかった。
健太は仕事とバンドの練習でクタクタであった。ライブが八月の下旬なので、本格的に練習できるのは約一ヵ月半ぐらいだ。週に二回集まり、なんとか様になってきた。もちろん、平日はみんな仕事があるから全員集まるのは無理なので、来れるメンバーでそれなりの練習をした。
健太は今夜もバンドの練習を終え、今アパートに帰ってきたところであった。
健太のアパートは玄関をあがると、左手がバスルームで右手がキッチンだ。そして、その奥に六畳と四畳半の居間がある。独身の独り暮らしにはちょっとぜいたくである。
そのぜいたくな部屋に入るなり、健太は寝転がった。むろん、布団はひきっぱなしである。圭子が来たときは布団を上げてくれるのだが、圭子も練習があるので、今は人の世話どころではない。
健太は大の字になりながら、目を閉じた。頭のなかで今日練習したフレーズが響いていた。この一ヵ月いつもそうなのだが、今度ライブで演奏する曲のフレーズが頭から離れないのである。
バンドをやった人ならわかるだろうが、演奏というものは自分でもいやになるくらい練習してはじめて身につくものなのだ。だからフレーズが頭のなかから離れないというのは、いかに練習しているかの証拠でもある。
過去に健太は何度かライブをしたが、終わった後やってよかったと実感する。
でも、歌うのはしばらくいいと思う。ライブはしばらくやらないと思う。それが2週間もするとまたやりたくなる。音楽とは不思議である。
もっともプロになるとこうはいかない。自分がやりたくなくてもやらなければならない。そこがプロとアマの違いでもある。
健太は曲のフレーズの波に心を預けていた。いつのまにか気持ちよくなり、うたた寝をしていた。
その曲のフレーズになにやら雑音が混じってきた。電話のベルのようだ。
〝なんだ、この音は?電話のベルみたいだなぁ〟
みたいではなく、実際電話が鳴っているのである。健太は夢と現実が一緒になっているようだ。
健太は突然ガバッと起きた。さすがの健太もやっと現状を把握したようだ。
「誰だ、今頃!電話なんかしてくる奴は!」と相当機嫌悪そうだ。
人間なにが一番頭にくるかといえば、寝ている時に無理やり起こされた時である。
それに時間も午前零時を回っている。
健太は頭を掻きながら、電話の受話器を取った。
「もしもしっ!」と怒ったように健太は電話にでた。
「あのぅ、夜分すみません。谷川さんのお宅でしょうか?」と申し訳なさそうな女の声がした。
「ええ、そうですが」と健太は相手が女だったからか、すこし柔らかい口調で言った。
「あぁ、よかった。私、須藤です」
「須藤・・・さん?」
健太は須藤、須藤と頭のなかで繰り返して思い出そうとした。
なにせ、まだ寝呆けていて頭のなかがスッキリしていない。
「忘れられました?須藤沙也夏です。コンサートの時、偶然お会いした・・・」
「あぁ!〝捻挫の君〟か!あっ、失礼しました。どうもこの頃忙しくて、頭の回転が遅いんです」
「谷川さんの頭のなかでは、私は〝捻挫の君〟なんですねぇ。いやだなぁ、変なあだ名つけられちゃって」
「ハハハ・・・すみません、勝手につけてしまって。でも、いいじゃないですか、それだけ印象に残ってるってことですよ。まあ当人にとってはあまり有り難くない印象だろうけど・・・」と、ふたりともひとしきり笑った。
「ほんとうにすみません、こんな夜中に電話して・・・何回か電話したんだけど、いつもいらっしゃらなくて」
「そうですか。それはすみませんでした。ここのところ、バンドの練習で忙しくて」
「がんばってますね。じゃあ、そろそろ見に行ってもいいかな。約束でしたよね?」
「ほんとに見に来てくれるんですか?嬉しいなあ」
「当たり前じゃないですか。楽しみにしてたんですよぉ。今度の日曜日、時間が空きそうだからいいですか?」
「そりゃぁ、ちょうど良かった。今度の日曜日は全曲通してやることになってて、メンバーも全員集まる予定だから」
それから健太は沙也夏にスタジオの場所と時間を教えて、受話器を置いた。
健太は眠気も疲れもいつのまにか忘れていた。そして、胸が高鳴るのを感じていた。
〝沙也夏が見に来てくれる!〟というよりも〝沙也夏に逢える!〟ということが健太は嬉しかった。
つくづく〝早く日曜日が来ないかな〟と子供のようなことを思うのだった。
「やはりここはいつ来ても、空気が違うようだった。楽器やPA類でほとんどの場所が占められていた。しかし、健太はそういうごちゃごちゃした感じが好きだ。
そう、ここはスタジオである。
今日は沙也夏と約束した日曜日で、健太は珍しく一番乗りに来たのだ。
沙也夏と逢えると思うだけで、気持ちがそわそわして家にじっとしてるよりも、早くスタジオに入りたかったのだった。
健太はスタジオの中にいると、不思議とホッとする。やはり自分が一番落ち着ける所はここじゃないかなといつも思う。
健太はキーボードの前に座り、鍵盤を弾きながらボイス・チェックを始めた。と言ったら難しく聞こえるが、要はドレミファソラシドを弾いて、それに合わせて声をだすのである。始めはハ長調から始めて、だんだんとキーを変えていく。
ほんとうに基本の基本で、はたから見れば笑われそうだが、これはウォーミングアップに最適なのだ。現に圭子や純子はこれを演奏前に必ずやり、指のウォーミング・アップにしている。
ただ健太の場合、キーを変えてやるのが特徴だ。歌の善し悪しはその曲に合った自分の声のキーを把握しているかどうかにかかっている。
他の楽器はボーカリストのキーに合わせて演奏するので、最初にキーを決めておかないと、途中からキーを変えようものならドラム以外の楽器は大変である。
だから健太は必ずキーを変えてボイス・チェックする。
そのボイス・チェックが終わって、セッティングでもしようかなと思った頃、ドアが開いた。
「いやぁ、ここは涼しくて天国だなぁ」といかにも健康そうな若い男が入ってきた。
「おう」と健太は笑って言った。
「あれっ、健さん早いっすね。雪でも降るんじゃないっすか?」
「ばーか、こんな暑い時に雪なんか降るかよ!」
「ハハハ・・・今のはすこし願望もはいっているんすよ。この暑い時に雪でも降ったら最高じゃないかって。でも、ほんとうに毎日暑いっすね。40度ぐらいあるんじゃないっすか」
40度はないにしても、三五度はあるかもしれない。朝の7時でも30度近いのだから。
ところで、その暑いと言っている当の男はもちろんバンドのメンバーである。
彼の名は吉武淳之介といい、ドラム担当である。なにか戦国時代のような名前であるが、バイクが大好きな22歳の青年である。
健太と淳之介が逢ったのは二年前のことである。
その日、健太はビアガーデンで会社の連中と飲んで、電車で帰る途中だった。ビアガーデン1軒ならよかったのだが、二次会ということになり、スナックに行く羽目になってしまった。
健太は本来スナックは嫌いである。なにがおもしろくてあんな所に行くか気が知れない。そうは思っても会社のつきあいなのでしかたなく行ってしまった。
結局、最終電車で帰る事になり、酔いも手伝ってか、うとうとと居眠りをしていた。そして、降りる二番目手前ぐらいの駅で、健太はハッと目を覚ました。乗り過ごしてないことを確認し、ホッとしていたところ、ひとりの青年が目に飛び込んできた。
後姿だったが、ホワイトのTシャツにブルー・ジーンズで、なによりも印象深かったのは真っ黒に日焼けした手にスティックを握りしめて、つり輪に手を掛けている姿だ。
〝あぁ、こいつもバンドやってるんだなぁ。それにしても絵になる姿だ〟と健太は思った。
Tシャツとジーンズというのはよく見るが、スティックを持ち歩いている人というのはそうはいない。
わざわざスティックを持っているということは、よほどドラムが好きなのだろう。健太はこういう姿を見ると、同性ながらかっこいいと思ってしまう。健太はその青年をしばらく見ていた。
そのうち、その青年が振り返り目と目が合ってしまった。
そしてその青年は「あっ!」とした表情を見せた。健太は慌てて目をそらした。
そのうち、降りる駅に着いた。健太は降りようと思い、腰を浮かした。その青年も降りるようだった。今度はその青年が健太を見ていた。
そのまま素通りして、健太は駅のプラットホームに降り階段を上がろうとした時、後から声がした。
「健さんじゃないっすか!」
健太は自分のこととは思わなかったので、そのまま階段を昇っていこうとした。
「待ってくださいよ。健さんでしょ、この前〝ロコ〟にでてた」
そこまで言われて、はじめて自分が呼ばれているのに気づいた。
振り返ると、スティックを持っている青年だった。これが、健太と淳之介の出逢いだった。
「どこかでお会いしましたか・・・」と健太は淳之介を不思議そうに見ながら言った。
「あ、すみません。いきなり声をかけてしまって。健さんは知らなくてあたりまえっすよ。二週間前、ロコでライブやったでしょ?」
「ええ、たしかにライブをやりましたが・・・」
「俺、見にきてたんですよ。ライブを見て健さんのファンになったんす。まあ、立ち話もなんすから一杯やりながら話しましょう」
健太はアルコールはいやというほど飲んでいたので遠慮しようと思ったが、結局つきあわせられてしまった。
淳之介に連れていかれた店は、寡黙な年配の50代ぐらい(と健太は思った)の店主がやってる静かな店だった。
淳之介は注文をすませると、いきなり喋り始めた。要約すると次のようになる。
自分は22歳のフリーターであること、ドラムを叩くのが三度の飯より大好きなこと(一緒だと健太は思った)、健太の歌い方を非常に気に入ったこと、自分も70年代のロックが好きなことなど、マシンガンのように喋りまくったのだった。淳之介の喋りが一段落したところで健太は気になることを聞いてみた。
「その健さんって呼び方、どうにかならないかな」
「あ、気に障ったらあやまります。俺、変わってんす。親しみを憶える人には、なんか名字じゃ呼びたくないんっす。だけど、健太さんじゃ呼びにくいから、敢えてそう呼ばせてもらったんす。気に入りませか?」
「いやいや、そういうことならいいけど・・・それと喋り方が個性的だね。その語尾に〝す〟とつけるとこなんか」
「ハハハ・・・いゃあ、これは仕事の影響なんす。だめだな、完全にくせになってる。実は今の仕事っていうのは、ほとんどが工事現場とかビルの掃除とかなんす。だから、大学生の連中とかよく来てるんで、そいつらと話しているうちにこんな喋り方になったんす。それと色が黒いのもその影響が大っす」
「ふーん。でも、いつまでもフリーターってわけにもいかないんじゃないの?きちんと就職しなと・・・」
「それはよく言われるんすけど・・・だけど、俺は自分で仕事をもつ時は、自分自身納得した仕事じゃないと嫌なんっす。それが見つかるまではフリーターでがんばりたいんっす。たとえ、いくら歳食っても」
「その考え方、羨ましいね。俺なんか、そこまでの勇気ないよ」
健太は酔いも手伝ってか、淳之介の喋り方に心地よいものを感じていた。しかし、これ以上酔うとヤバイなとも思い始めていた。
その時突然、淳之介が真顔で言った。
「健さん、お願いっす。俺を健さんのバンドに入れてもらうことできませんか?俺、バンドやってたけど、やめたんっす。なぜだと思います?健さんの歌を聞いたからっすよ。歌を聞いて、この人のバックでドラムを叩きたいと思ったから。そう思ったら、今やってるバンドなんてどうでもよくなったんっす。まあ、今でも疑問に思ってたんすけど。このまままやり続けるべきかってね」
健太は驚いていた。ふつう、バンドのメンバーを入れる時っていうのは雑誌の募集とか、友人のつてとかで決めるものだが、こういうふうに自分から売込みをされるのは初めてだった。だが、驚きと同時に嬉しさもあった。自分の歌を認めてくれる人がここにひとりいるということ。それはとても素晴らしい事だと。
さらに淳之介は追い打ちをかけるように言った。
「俺、さっき納得いく仕事をしたいと言ったっすよね。それと同じようにバンドも自分が納得いく音楽をやりたいんっす。それが健さんのバンドでやることなんっす」
淳之介は真剣だった。健太はこれじゃごまかしの返事はできないなと思った。
健太は目の前にある焼酎を一気に飲み干し言った。
「ありがとう。それほど俺たちのバンドのこと思ってくれて・・・とても嬉しいよ。だけど、すぐにイエスというわけにはいかない。今はちゃんとバンドにはドラムがいるし、それに君の演奏も聞かなければいけいし。いずれにせよ、今ははっきり言うとノーだ」
「それはわかってるっす。じゃあ、こうして下さい。もし、今のドラムの人がやめるようなことがあったら、まず俺に声をかけて下さい。それまでは俺待ちます。どこのバンドにも入りません。その上で演奏を聞いて下さい」
健太は酔いが醒めてしまう感じだった。それほどのバンドなのだろうか俺たちは・・・と思った。
結局、健太は淳之介に今のドラムのメンバーがやめたら連絡すると約束して、その夜は別れたのである。
それから二週間後、人の出逢いとは不思議である。ほんとに、ドラムのメンバーがやめてしまったのである。
約束どおり、健太は淳之介に連絡をし、演奏を聞かせてもらうことにした。
テクニック的には並みといったところだった。ただ、ドラムを叩いている時の淳之介の表情が良かった。いかにも、楽しそうに叩いていた。ドラムを叩くのが嬉しくてたまらないといった感じだった。
健太も他のメンバーもその表情が気に入り、バンドの一員になってもらうことになったのである。そうなのだ。音楽は楽しむのが一番なのである。