打ち寄せる悲しみ
健太はぐったりとした気持でタクシーに乗っていた。ギターを抱えるようにして持ち、横の座席には沙也夏からプレゼントされた絵があった。しばらくは、この絵を見るのもいやになりそうな気がした。
沙也夏が部屋から出た後、健太も三十分後にチェック・アウトしたのだった。当然、沙也夏の姿はどこにもなかった。
タクシーの窓から虚ろな目で窓の景色を見ていた。タクシーの運転手は来る時と違い、寡黙だったので助かった。今は誰とも喋りたくもなく、相槌さえうつのも苦痛だった。今日はクリスマスだから買い物客が多いはずだ。タクシーが天神を通過する時、人の賑わいが始まりそうな気配だった。
やがてアパートに着き、健太は右手にギターを左手に絵を持ってタクシーを降りた。
部屋に入ると、寒さが身にしみた。今日の天気はどんよりとしていて、温度も昨日より何度か低い感じだった。健太はエアコンを入れ、こたつに入りそのままの格好で横になった。考えることは沙也夏のことばかりだったが、昨夜一睡もしていなかったので、ものの数分もしないうちに睡魔が襲ってきた。健太は寝返りもうたずに死んだように眠った。
目が覚めたのは外が暗い時間だった。
健太はぼっーとしながら頭をかきむしった。ふと時計を見ると夜の十時過ぎだった。健太は自分が何時間寝たんだろうと思った。アパートに帰ってきたのは朝の十時頃だったから、ざっと計算しても十二時間になる。健太はあらためて、沙也夏とはもう逢えないんだということを、実感した。
立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを持ってきて飲んだ。半分寝ていた胃袋に冷たい刺激がしみこみ、だんだんと昨夜のことが思いだされてきた。1本目のビールを飲み干し、2本目のビールを冷蔵庫に取りにいった。ふと、洗面所を見ると、沙也夏の歯ブラシがあった。健太は歯ブラシを取ると、流しに叩きつけた。
二本目のビールも、半分ほど一気にあけた。今飲んでるビールは、沙也夏が買ってきたバドワイザーだ。この部屋には沙也夏の思い出がありすぎた。
健太はバドの缶を見て、こみあげるものを抑えきれなくなった。大粒の涙が畳の上にボロボロと落ちた。
「どうして・・・どうして・・・俺はいつもこうなんだ!なんで、うまくいかないんだ・・・俺がなにか・・・なにか悪いことしたっていうのかよ!」
こぶしを何回も何回も畳に叩きつけた。そのまま何時間も泣き続け、ビールを五缶ほどあけて、焼酎を飲んだ。味なんて全然わかったものじゃなかった。時間はすでに夜中の二時をまわっている。さすがに飲むペースは落ち、目を真っ赤に腫らしていた。
酔いにまかせて横になると、またそのまま寝込んだ。ふつうなら、朝寝坊してしまうのに、次の朝は七時前には起きた。今日は月曜日で、会社に一旦行かなければいけない。今の時間なら充分間に合う。だが、健太は服さえ着替えようとしなかった。
今着ている服は、一昨日から着ているものだ。健太は鏡で自分の顔を見た。
「ひでぇ顔だ。まあ、今の俺にはお似合いか」
健太は自嘲するように呟いた。
たしかに、ひどい顔だった。目が赤いというより腫れあがって、どす黒い膜ができていた。
健太は七時半になると、それを待っていたかのように受話器を取り上げて電話をした。会社に気分が悪いから休む旨を言って、電話を切った。出たのは課長で、不機嫌そうだったが、今の健太にはそんなことは知ったことじゃなかった。だが、気分はたしかに悪かった。それはそうである。あれだけ焼酎を飲めば誰でもそうなる。完全な二日酔いだった。
その日は寝ては食べ、起きては食べの生活で一日が終わった。さすがに、夜は風呂に入った。風呂からあがると、電話が鳴った。健太は無視してでなかった。明日は会社に行くべきかなと思いながら、寝た。今度は布団でちゃんと寝た。さすがに、今夜は酒を飲む気になれなかった。
そして、翌日。起きて鏡を見た。昨日ほどひどい顔ではなくなっていた。だが、健太はまたも会社に行く気になれなかった。別に、今の時期会社に行っても営業の仕事はなく、ほとんど配送に回されるのは目に見えていた。そう思うと行く気がなくなり、また会社に電話をしようと思った。
電話をすると、あまり話したくない声がでた。純子だった。健太は慌てて、時計を見た。午前八時過ぎだ。内勤の社員はほとんど出勤している時間だ。
「あ。おはようございます。谷川ですけど」
健太はわざと、丁寧な言葉で言った。
「おはようございます」
純子も外交用の声をだして言った。
「あ。ちょっと待ってくださいね」
純子はそう言うと、電話を保留にした。受話器から白鳥の湖のオルゴールが鳴り響いていた。健太には純子の行動が手に取るようにわかった。たぶん、別室で電話をとる気だ。
「もしもし。どうしたのよ、昨日は!」
「う、うん。ちょっと気分が悪くてな」
「大丈夫なの?夜電話してもでないしさ。で、今日も休むの?」
「そうなんだ。今日は下痢がひどくてさぁ」
健太は、やけくそ気味に言った。
「なんか変なもんでも食べたんじゃないの?それとも、クリスマスに誰かさんとケーキの食べ過ぎかなぁ」
純子は意味深げに言った。健太にとっては、あまり聞かれたくないことだ。
「そんなんじゃねえよ。とにかくひどいんだ。だから早く課長と代わってくれ」
健太はイライラして言った。
「課長は会議中なの。だから、伝えておく。今夜、圭子とちょっと見舞いに行くわ」
「いいよ、来なくて!薬でも飲めばこんなもん治るよ。じゃ、頼むな!」
健太は純子の返答も聞かずに、電話を切った。電話を切ると、健太は大きなため息をついた。
「ふうーっ。幸せな奴はいいよなぁ」
健太はぼーっとして時間を過ごした。
相変わらず、考えることは沙也夏のことばかりだった。初めて出逢った時のこと。コンサート会場で再会した日のこと。音楽と絵のことについて語りあった時のこと。沙也夏を目の前にして歌った時のこと。想いを告げた日のこと。ライブの後、初めて一夜を過ごしたこと。一緒に壱岐で素晴らしい夕陽を見た時のこと。沙也夏に疑いをもち始めた頃のこと。そして、イブの日に沙也夏が告白をした時のこと。
思いだせば思いだすほど、やりきれない想いがつのる。健太は初めてこんなやりきれない心境を味わった。もちろん、今までにも恋の経験はある。だが、こんな想いをするのは初めてだ。まあ、それほど好きな女がいなかったということにはなるが。やりきれないというのはどんな感じなのか。それは人によって違うだろうが、健太の場合、胸の鼓動が早くなる。そしてわけもなく、不安になる。沙也夏のことを考えれば考えるほど、不安になってくる。
〝ふられた女のことをこんなに未練たらしく思うなんて・・・〟
健太は、そんな不安な気持を振り払うかのように、三日ぶりに窓のカーテンを開けた。めずらしく、外は快晴だった。天気とは対照的に健太の心は曇っていて、今にも泣きだしそうな空があった。外に出て、気晴らしする気分にもなれない。午前中はそんなどうしようない気持をもてあまして、時間が過ぎていった。
昼を昨日と同じくコンビニの弁当ですませると、あることに気づいた。
〝そういえば、ホテルから帰ってきて音楽を全然聞いてない。どうかしてるな、俺・・・〟
健太の生活にはどんなに仕事が忙しくて、疲れて帰ってきても、必ず音楽があった。それを忘れているということは、よほど心が疲れている証拠でもあった。
健太はCDラックから何枚かのCDを取り出した。その中に懐かしいアルバムがあった。
〝ワン・モア・ソング/ランディー・マイズナー〟
イーグルスの元ベーシストで、名曲ホテル・カリフォルニアにも参加していた人だ。メンバーのなかでは比較的地味な人だったが、ベースには定評があった。
だが、健太はそのランディ・マイズナーが目に入ったのではなくて、タイトルに思わず目が止まったのだ。
〝ワン・モア・ソング・・・もう一曲だけ〟
健太は心のなかで呟いた。
〝沙也夏が言ってたな。俺と逢う時間というのは、ひとつの曲のようだった。その曲をリクエストし続たって。まさにこのワン・モア・ソングはそんな感じの曲だ〟
健太はアルバムのジャケットをじっと見ながら、そう思った。そして、CDをプレイヤーにセットした。低いピアノの短いイントロで始まって、ランディのすこしハスキーな声が響く。健太はただ、じっと聞ていた。聞いてるうちに、また感情が昂ぶってきた。健太はもう、ただ感情のままに聞いていた。涙がこみあげてきて、ひとつぶ流れた。やがて、それはとめどない涙に変わっていった。
泣くまいと思うほど、涙が溢れた。だが、畳にこぶしを叩きつけることはなかった。ただ、泣いていた。
〝ワン・モア・ソング〟には泣かせるだけの説得力があった。
まさに、ホテルでの別れの場面を思いださせるのに、これほどの詞はなかった。健太は〝ワン・モア・ソング〟を繰り返し繰り返し聞いた。他の曲は一切聞かなかった。
やがて泣くのに疲れ、涙も枯れはてた頃に、やっと聞くのをやめた。部屋の中はすっかり暗くなっていた。時刻は七時になろうとしていた。空腹感を感じた。
〝もう夜か。腹が減るはずた。今日ぐらいは栄養あるものを食わないといけないな〟
健太はのろのろと立ち上がり、服を着替えた。ロイヤル・ブルーのトレーナーとリーバイスのブルー・ジーンズにダウン・ジャケットを羽織った。アパートから出ようとすると、電話が鳴った。取ろうかと思ったが、やっぱりやめた。切れるのを待っていたら、留守電にメツセージがはいった。
〝淳之介でーす。留守のようですので、またかけます。あ、それからビッグ・ニュース!圭子さんがヒロシさんと結婚するかもしれないらしいっす。これは奴から聞いた情報です。いやぁ、これでうちのバンドはめでたいことだらけっすね。今度、沙也ちゃんも交えてみんなでお祝いをやりましょう。では・・・また!〟
健太には聞きたくないメッセージだった。
〝圭子とヒロシが・・・。そうか。これじゃ、俺はピエロだな。いい笑いものだ・・・〟
健太はますます気分が落ち込んで、アパートのドアを開けた。




