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ワン・モア・ソング  作者: 杉本敬
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届かぬプロポーズ

 沙也夏は、健太の演奏と歌をしっかりと心のなかで受けとめていた。自分のためにだけに歌ってくれてると思うと、感激で心が充たされていた。テーブルのワインさえも、演奏中は口につけることはなかった。


〝こうやって、私のために歌ってくれる男はもう現われないかもしれない。だから、決してわたしは忘れない。この歌声、ギターの指使い、歌ってる時の顔。歌ってる時の顔はとても輝いている。たぶん、この人の心には音楽が住み着いているのかもしれない〟


 沙也夏は健太の演奏が終わっても拍手するのさえ忘れていた。

健太も、すぐにはギターから手を離そうとしなかった。ふたりの心はいま音楽というものを通じて、ひとつになっているのかもしれなかった。


「レイラ・・・今、ここで言葉にするのは無意味ね」

沙也夏は震えた声で言った。

「その言葉こそ、最高の賛辞だよ。俺自身も、いまの演奏と歌には満足してる」

いま、ふたりは幸福の絶頂にいた。


 健太はようやくギターから手を離すと、自分のグラスにもワインを注いだ。

「もう一度、乾杯しよう」

沙也夏も、グラスを持った。

「素晴らしい絵と音楽に」

健太はワインを飲むとテーブルにグラスを置き、沙也夏の目をじっと見つめた。


 沙也夏の目は潤んでいて、輝いているようだった。健太は、とてもきれいだと思った。しかし、沙也夏が潤んでいたのは、別の意味もあった。

そして、その輝いた目を見ながら言った。

「沙也夏に出逢えてよかった。もし、きみと出逢えてなかったら、こうしてひとりの女性のために歌うことなどなかっただろうな。ライブで大勢の人の前で歌うのもいいけど、愛するひとりの女の前で歌うのは感激するよ。俺は、初めて自分自身の歌に酔ってたような気がする」


 沙也夏は、健太の言葉を喜びと悲しみがブレンドされたような気持で聞いていた。 健太はワインをまた一口飲むと、話し始めた。

「俺は〝レイラ〟を通して、きみにプロポーズした。でも、こういうことはきちんと言葉にしなくちゃいけないね」


 健太はそこで言葉をきった。もう心臓が波打って、飛び出そうだった。

「沙也夏。俺はきみと同じ人生を歩んでいきたい。いいことばかりじゃないだろうけど、きみとならやっていけそうな気がするんだ」

これが健太に言える最高の言葉だった。


 沙也夏はもう、とても健太の目を見ておられず、下を向いた。沙也夏自身、別れの言葉は用意していたのだが、その言葉さえいまは消えていた。

純白のドレスに宝石のようなしずくが落ちた。

〝いけない。このまま黙っていると、涙がとめどなくこぼれ落ちてしまう〟


 沙也夏はそう思うと、絞りだすような声で言った。

「その言葉・・・その言葉を素直な気持で受け入れられたら、どんなにいいかもしれない・・・心は・・・心は受け入れたいの。でもだめなの・・・それは受け入れることできない・・・」

沙也夏の涙声を聞いて、健太は頭のなかが真っ白になった。

〝どういうことだ・・・これは・・・きっと喜んでくれると思っていたのに・・・〟


 沙也夏は涙をハンカチでぬぐい去ると、今度は健太をまっすぐ見て決意したように言った。

「ごめんなさい。私はあなたに嘘をついてたの。これから言うことに私はどんなにあなたから罵倒されても、当然だと思います。私には近々結婚する相手がいます。それを隠しながら、私はあなたとつきあっていました」


 健太は自分の耳を疑った。沙也夏の言った言葉が頭のなかで繰り返し、鳴り響いていた。

沙也夏の言葉はさらに続いた。言葉は、いつものしっかりとした口調に戻っていた。

「その人のことは、好きでも嫌いでもありません。愛してるとか、愛してないなんてことは論外です。でも、結婚をやめることはできないのです。それはパパのためです。パパは一生かかっても、払いきれない借金を抱えています。その借金を肩代わりしてくれる人が現われたのです」


「その肩代わりするってのが、その結婚するって奴か?」

健太はようやく言った。その声はいつもの口調とは違っていた。

「どうでもいいけど、その他人行儀な言葉はやめてくれないか。俺たちはそんな関係じゃないだろう?」

「そう・・・ね。ゴメン。友達に言わせれば、そんな結婚やめなさいって言われたわ。でも、私はパパのことは見捨てることができない。私はヨーロッパに行くことが夢だった。そして、パパのおかげで夢を叶えることができた。素晴らしい恋愛もして、人間的にも成長できた。たぶん、ヨーロッパに行かなければ、私はどんなになっていたかわからない。その後のことは話したわよね」


「チームのたて直しができなくなったんだろう。それで日本に帰ってきた。でも、借金のことは言わなかった」

「言えなかった。エディが事故死して、恋愛なんかもうよそうと思って、日本に帰ってきた。その頃に結婚の話がもちあがった。最初はバカバカしいと思った。エディ以外の男は考えられなかったし。でも、借金の肩代わりって話がでたの。その時はじめて、借金のことを知った。考えに考えて結論をだした。その時は、別に好きな人がいるわけではなかったから。でも、あなたが現われた」


「なるほど。結局、きみはエディの影を求めていたわけだ。借金の肩代わりがあるから結婚はやめることはできない。それならエディと、どこか似てる俺と恋愛ごっこを楽しもうってわけだったんだ」

健太の言葉にはあきらかに怒りがこもっていた。

「違う!それは違うの。あなたからつきあってほしいと言われて、私は何度もやめるべきだと考えた。逢うごとに、次の機会で最後にしようと思った。だけど、できなかった。あなたの歌ってる姿や、

考え方を聞いてるうちに、惹かれていく自分がわかったの」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 健太は言う言葉がなく、ただ黙って、沙也夏の言葉を聞くしかなかった。

「いまこうやって考えると、健ちゃんと逢ってる時間というのは、ひとつの歌のような気がする。私はその歌をもう一曲、もう一曲とリクエストしていたのね」

健太は、ようやく心が落ち着いてくるのを感じた。

「ワン・モア・ソングか・・・」

健太は呟いた。

「えっ?」

沙也夏は困ったような顔して、健太を見た。

「すこし頭を冷やしてくる」

「健ちゃん・・・」


 沙也夏の言葉には答えず、健太は部屋から出た。

エレベーターに乗り込み、B1のボタンを押した。地下にはバーがあった。

バーはカップルばかりだった。いつもの健太なら、まわりがカップルばかりだったら入るのを躊躇しただろう。だが、いまの健太の目にはまわりのことなど、どうでもよかった。とにかく、ひとりで考えたかった。


 カウンターに座り、バーボンをダブルでオーダーした。

健太は大きくため息をついた。バーボンはすぐにきた。いっきに半分ほど飲むと、熱いものが胃に流れ込むのがわかった。


〝俺はどうすればいいんだ?彼女は結婚すると言う。だが、相手の男を好きでも嫌いでもないという。好きなのは俺に間違いない。なのに、俺とは結婚できない。それは、相手の男が借金の肩代わりをしてくれるからだ。そんなことが今の世の中にあるのか?〟


 健太は冷静に考えれば考えるほど、わからなくなってきた。

〝じゃあ、俺とのつきあいはなんだったんだろう?単なる遊びか?いや、違う。彼女ほどの頭のいい女が、それほどリスクを冒すとは思えない。もし俺とのことが相手の男にばれれば、結婚話はおじゃんになる。だとすると、俺とのことは本気だったんだろう〟


 そこまで考えて、健太は沙也夏の考えがすこしわかったような気がした。

〝つまり、沙也夏は俺と結婚はできないが、恋愛は本気だった。別れがくるのをわかっていて俺と恋愛した、ということになる。そんな恋愛があるのだろうか?俺にはとてもできそうもない。負けるとわかっているレースをするようなものだ。しかし、彼女はあえてそうした〟


 健太は残りのバーボンを飲もうとして、途中でやめた。

〝わからない、俺には理解できない!ひとつだけわかっているのは沙也夏は俺のもとを去り、別の男と結婚するということだ。だから俺には、なにもできない。ただ、じっと見てるだけだ〟


 そこで、健太はハッとした。

〝だとすると、今夜は最後なんだ。沙也夏と恋人でいられるのは、今夜が最後・・・そうだ!ここで酒を飲んでいるひまはない!〟

そう思ったとたん、健太はバーを急いで出た。

すこしアルコールがまわっていたが、そんなことにかまっていられなかった。ただ、沙也夏のそばにいなければという思いだけが健太を動かした。いまはまだ悲しみとか、淋しさという実感はなかった。ほんとうの悲しみは沙也夏が去ったあとにやってくるのを知りつつも。





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