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ワン・モア・ソング  作者: 杉本敬
33/41

麗子

 グラスの氷が微かな音をたてた。いつのまにかバーボンは薄くなっていた。

そのグラスを真剣な表情で見ている女性がいた。沙也夏だ。彼女が来ているのは、あるスナックだった。スナックといっても、ここにはカラオケもなく接客する女性もひとりだった。スナックというよりもパブといったほうがいい。騒ぐ店とは程遠く、じっくり落ち着いてお酒を楽しむといったほうが似合っていた。


 沙也夏がここに来るようになったのは、ここのママが沙也夏の中学時代の友人だったからだ。名前は麗子といった。中学時代、沙也夏が真の友と呼べるのはこの麗子ぐらいだ。

沙也夏も中学時代は特異な存在だったが、麗子もそれには負けていなかった。彼女はとにかく目立った。風貌はもちろんのこと、その言動が教師に食ってかかるようなところがあった。自分が正しいと

思ったことは、たとえ教師だろうと先輩でも譲らなかった。つまり自分の信念をまげようとしないのだ。


 沙也夏と麗子が初めて顔を合わせたのは、中学二年だった。

沙也夏は、最初近寄りがたい人だと思ったが、その言動を見ているうちに尊敬すら覚え、次第に麗子と話すようになった。沙也夏が麗子に共感を覚えたのは、麗子が自分の夢をしっかりともっていることだった。だが、麗子の夢はふつうと違っていた。中学時代の夢というのは、だいたいが、なにになりたいとか、こういうことを勉強したいなど、そんなところだ。


麗子は自分の夢をこう言った。

〝私は素晴らしい男性と出逢って素晴らしい恋愛をして、その人のこどもを産むこと。素晴らしい男性とは、顔やスタイルではなく、信念をもっている男。でも、恋愛をしても結婚にはこだわらない〟

沙也夏はそれを聞いて、びっくりした。同じ年齢でも、ここまではっきりと言える人がいることにショックすら覚えた。


 だが、その麗子は半年後に沙也夏の前から姿を消した。家出同然に渡米してしまったのである。アメリカ兵と恋に落ち妊娠した。当然、麗子は生むつもりだった。学校も親も反対した。しかし、麗子は自分の信念を貫きとおしたのである。クラスメイトが麗子を非難するなかで、沙也夏はひとり拍手をおくった。


 その麗子と沙也夏は半年前に展示会場で再会したのだ。

その時、沙也夏はラッセンの絵の展示・即売会で大分に来ていた。偶然、絵を見に来ていたのが、麗子だ。そして、接客したのが沙也夏だった。初めは気がつかなかったが、話しているうちに喋り方で麗子とわかったのである。麗子の喋り方は中学時代とあまり変わっていなかった。逆に麗子は沙也夏だとわかると、かなり驚いた様子だった。麗子の話によると、沙也夏は中学時代とずいぶん変わったということだった。なによりも顔つきが全然違うし、まさかこんな絵画の販売なんてやれるようになっているとは思わなかったということだった。


 当然、沙也夏は麗子にいなくなった後のことを聞いた。

結局、麗子はあの後アメリカ兵とは別れてしまい、こどもも流産したということだった。かなり辛い目にあったらしい。それから恋愛も何度かしたが、なかなか納得できずに、いまだに独身で店をもって生活しているということだった。


 だが、中学時代の夢は忘れていないということだった。

それを聞いて沙也夏は麗子が変わってないのに嬉しさを感じた。それ以来、沙也夏は麗子の店に月に一度は行くようになっていた。


 ちなみに、店の名は〝ドルフィン・リング〟といった。ドルフィン・リングと言えば歌があるが、麗子はその歌からとったものではなかった。

ドルフィン・リングといえば、幸せを約束するリングだ。それは自分のためでもあるし、店に来てくれるお客さんのためでもある。そういう意味を込めて、つけた名だ。そういう名であるからか、お客は圧倒的に女性が多かった。


 参考までに、ドルフィン・リングのドルフィンがはっきりしてるのはめったにない。ドルフィンかなにかわからないのが多く、きれいな形をしたものに出逢うのは、〝幸運〟らしい。

〝ドルフィン・リング〟の扉を開けて、一番最初に目につくのは、ラッセンの絵だ。イルカが数匹海中を踊るように泳いでる様子が描かれている。麗子が沙也夏と再会した日に買った絵だった。


 麗子はラッセンの絵の大ファンだ。沙也夏は麗子にはラッセンの絵の正直な感想を述べた、商売抜きにして。ブルーがすこし暗いのではないかと。

麗子は「そのとおり」と言った。「きれいな海の深い所はこんな色をしている」と。


 店のつくりはカウンターに八席ほどあり、ボックスはひとつだ。店の中が明るいので、ラッセンの絵はその明るさを和らげる効果もあった。

今日は沙也夏の他にふたり連れの女性客が来ていた。麗子はそのふたりの相手をしていた。時計の針はすでに午前二時を指そうとしていた。


 沙也夏は仕事の打ち合せをすませて、業者を接待してからこの店に来た。酔ったという意識は全然なかった。

グラスを時折、指でまわしながら、考え事をしていた。

「沙也夏、元気ないわね。結婚間近な人がそんなしょげた顔するもんじゃないわよ」

麗子が水割りの氷を取りにきた時、声をかけた。

「いろいろ大変なの。結婚の準備なんかで」

沙也夏は作り笑いして言った。

「もうちょっと待っててね。もうすぐ看板だから。今日は朝までつきあうからね」

麗子は小声でそう言って、ふたり連れの客のところへ戻った。


 沙也夏が準備で大変と言ったのは、嘘だった。彼女の頭のなかには健太のことしかなかった。

〝あと一ヵ月か・・・一ヵ月したら、健ちゃんと別れなければいけない。私にとって十二月が最大のタイムリミットだ。来年になれば婚約し結納だ。その前に恋愛のけじめをつけなければいけない。でも別れたくない・・・〟


 沙也夏はバーボンを一気にグラスの半分ほど飲んだ。バーボンの香りが鼻についたが、味はかなり薄くなっていた。その様子を麗子がチラッと横目で見た。沙也夏はそれに気づかず、ただただ考えるだけだった。


〝なぜ自分が結婚を決意したのかは、よくわかっている。ひとつは結婚する相手の会社がモータースポーツに投資しているからだ。だから、当然ヨーロッパを一年の半分ほど飛び回る生活になる。私にとっては魅力が十分にある。もうひとつは、パパだ。パパをなんとか助けてやりたい。力になりたい。そしてもう一度、モータースポーツの世界へ復帰させてやりたい。だけど、健ちゃんに出逢ってからはそれが色あせてしまった。ヨーロッパに行けなくてもいい。ただ、健ちゃんと一緒にいたい。音楽や絵の話をもっとしたい。でもそれはできない。それはパパを見捨ててしまうことだから・・・〟

沙也夏は残りのバーボンを飲み干し、小さくため息をついた。


 やがて、ふたり連れの客が帰り支度を始めた。

麗子は、ほかのスナックのようにお客を出口まで送っていくようなことはしない。お客とは友達のような感じでいたい。それが麗子の経営方針だ。

麗子は客を笑顔で送って、表の店の明かりを消し、出入口のドアをロックした。


「お待たせ。これで今日の営業は終わり。さあバンバン飲むわよ」

麗子はそう言って、ビールとグラスを取り出した。

「相変わらずビールなのね。最高で、どれくらい飲んだことがあるわけ?」

沙也夏はビールを注ぎながら、尋ねた。

「そうねぇ。大ビン6本ぐらいかな」

「よく飲むわね!そんなに飲むのに、なんでスタイルがいいの?」

「体よく動かしてるもんね。潜りに月四回ぐらい行くし。やっぱり海はいいわぁ。悩みなんてどっかにいってしまうわよ」

「そうか。悩みがどっかにいってしまうなら、私も一緒に連れてってもらおうかな」

沙也夏はしんみりと言った。


「どうーしたの。いったいなにがあったのよ?さっきからため息ばかりついてるわよ」

「話したって、どうしようもないんだけどね」

「話したいからここに来たんでしょ。さっきから、私に聞いてもらいたいって顔してるわよ。恋愛のことならなんでも聞いて。あ、結婚を控えてる女にそれはないか」

麗子は笑いながら言った。


「それが恋愛のことなの」

「え、どういうこと?」

麗子は真顔になった。

「好きな人ができたの。結婚する人とは別の人」

「なるほどね。結婚する男以上に魅力を惹かれる男が現われたってことか」

「さすが麗子。なにも言わなくてもそこまでお見通しね」

「恋愛の修羅場なら何度でも経験してるから。でも、沙也夏がそんなふうになってるとは思わなかったな」

「私だってここまで好きになれる人が現われるなんて、夢にも思わなかったわよ」

「エディ以上なの?」


 沙也夏は麗子にエディのことは洗いざらい話している。

「以上とか以下とかいう言い方は好きじゃないから。でも、簡単に言えばエディの心と同じものをもった人ってところかな」

「まさかレーサーじゃないわよね?」

「違う、違う。ふつうのサラリーマンよ」

「へぇー。沙也夏らしくないなぁ」

「どうして?」

「レーサーとつきあってた女がよ、サラリーマンを好きになっただなんて・・・なにかあるんでしょ?」


 麗子はそう言うと、沙也夏のグラスを取り水割りを作り始めた。

自分のビールはというと、すでに2本目になっていた。さすがハイペースである。

「仕事はあくまでふつうの営業マン。でも趣味が音楽なの」

「趣味が音楽ってのもふつうじゃないの?」

「それが半端じゃないのよ。バンドやってて、ボーカルなの。もちろんオリジナルで、作詞は全部彼がやってるわ」

「うんうん。すこしおもしろくなってきたわね」

「それで、その歌い方っていうか、歌ってる姿に惹きつけられるのよ。スタジオで聞いたんだけど、言葉をかみしめるように歌ってる感じ。私、音楽にはあまり詳しくないけど、彼はアマチュアの域を越えてるわ。上手、下手の世界じゃないの。きっと感性が豊かだと思うな」


「感性か・・・いい言葉ね。感性って言葉で言うのは簡単だけど、そういうのもってる人って少ないと思う。沙也夏は感性って、どんなものだと思う?」

「うーん。そう聞かれるとむずかしいなあ。感受性が鋭いっていうか、いろんなことに感動できる人って感じじゃない?」

「そうね。私はこう思うわ。感性が豊かっていうのは物事を真正面から見るだけじゃなく、いろんな側面から見れる人よ。だから沙也夏はその人といると、いろんな発見をできるのね。つまり尊敬できるものをもってる人よ」


「すごい洞察力ね。麗子から言われると、そうなんだ、そういうことかって気がしてくるわ」

「男のことならまかせなさーい。いろんな男とつきあってきたからね。なかには映画俳優みたいな顔のいい男もいたけど、そんな奴にかぎって頭はからっぽ。今、沙也夏からチラッと聞いた感じで私にはどんな男かわかるの。その人は自分の世界をもってる人ね。私はいろいろな男とつきあって答えをだすタイプだけど、沙也夏は自分が納得しないとつきあわないタイプよね」


 麗子は自信たっぷりに言った。沙也夏は麗子のこんなところが好きだ。自分の意見をしっかりともっている。

「そうかもしれない。エディの時も自然につきあい始めたと思ってたけど、今思うとあのがむしゃらさを好きになっていたのかもね」

「それなら結婚を考え直せば?」

麗子は3本目のビールを取出しながら、聞いた。

「それは・・・このまえ言ったとおりよ」

「親のため?でも親のためだけで結婚できるの?」

「パパを・・・パパをもういちど立ち直らせたいの。私をヨーロッパに連れて行ってくれた、素敵な恋愛をさせてくれた。そしてなによりもグランプリという世界を見せてくれたの。もしヨーロッパに行かなければ、今の私はないのよ。それに借金もあるし・・・」


 麗子は沙也夏の気持がよくわかった。中学時代から沙也夏は親孝行な娘だということを知っていたから。だが、あえて言おうと思った。

「でも、今は迷ってるわけでしょう?」

「そう。今私がやっていることは世間でいえば悪いことだわ。結婚する男がいるのに、好きな男がいるんだから。好きになるのはエディが最初で最後と思ってた。でも現われたのよ。もっと早く出逢えたらと、この頃そう思う。その反面、次で終わりにしなければとも思うの。でも、彼の顔を見ると別れたくないと・・・」

沙也夏は言いながら、心が昂ぶってきて涙声になりそうだった。


「惚れきってるわね。その人に」

これが麗子以外の人だったら、処置なしといった感じで、慰めの言葉をかけてあげるぐらいだろう。が、ここは恋愛の麗子である。結婚、離婚と経験している。

「どうすればいいと思う・・・」

沙也夏は麗子にすがる感じで言った。


「沙也夏。よく聞いて。これはひとつの提案ね。このまま好きな人と別れて、結婚してもあなたは絶対幸せになれないわ。そうかといって、親を見捨てて好きな人と結婚しても結果は見えてる。私は沙也夏の気持がわかるから。こうしたら?」

麗子はビールを一息に飲み干した。沙也夏も同じようにバーボンを飲み干した。話の内容が内容なので、ふたりとも全然酔っていなかった。


「とにかく今は借金を肩代わりしてくれる男と結婚するの。そうすれば沙也夏の気持もすっきりするし、義務を果たすでしょ。でも、長続きはしない。沙也夏もつらい思いをするわ。そして離婚というかたちになると思う。でも、そこから沙也夏はやり直すの。だから好きな人とは十二月で別れなさい。だけど、深く心に刻みこむようなきれいな思いをして別れるのよ。もしかしたら・・・」


 そこで麗子は言葉を切った。

「もしかしたら・・・なに?」

沙也夏の言葉は震えていた。

「また逢えるかもしれない、その好きな人とね。人生はどうなるかわからないものよ。先のことを悲観してはだめ。前向きに生きて、つらさを自分の力にするの」

麗子は沙也夏の顔をじっと見ていた。


 沙也夏は麗子の話を聞くと、なんかこれって私が健ちゃんに言ったような内容だなと思った。特に前向きに生きて、つらさを自分の力にするというところなんかそっくりだと思うのだった。

〝そういえば、私は忘れていたのかもしれない。前向きに生きていくってことを。別れたくないってことばかりで、つらさから逃げようとしていたのかもしれない〟


 沙也夏はしばらくじっとして考えていた。麗子も話しかけようとはしなかった。

沙也夏は顔をあげて、麗子を見た。

「麗子。ありがとう。やっぱりもつべきものは友ね。すこし心がすっきりした感じがするわ。麗子の話はすごく参考になる」


 沙也夏は目を赤くして、笑った。なんだか泣き笑いのような感じになった。麗子も笑った。

「今言ったことは、私個人の意見よ。あとは沙也夏自身が決めること。それから後悔するとかしないとかは考えないことね。後悔なんてことを考えると決断できなくなるわ。じゃ、乾杯しよ」


 ふたりのグラスは軽い音を奏でた。

「だけど、沙也夏が結婚してる頃は私は日本にはいないかもしれない」

「え?どこか行くの?」

「ハワイに行こうと思うの。年中潜りたいから。この店でけっこうお金もたまったしね」

「淋しいな。せっかく再会したのに」


 沙也夏はまた悲しそうな表情をした。

「ちゃんと連絡先教えるわよ。お互いこの歳になれば、それぞれの人生があるわ。沙也夏、お互いにがんばろうよ」

沙也夏は中学時代に戻ったような気がした。あの頃はいつも麗子に励まされていた。

「そうね。がんばるしかないもんね」

ふたりは中学時代のように笑いあうのだった。










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