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ワン・モア・ソング  作者: 杉本敬
32/41

淳之介の悩み

 ひんやりとした空気が朝の街をつつんでいた。

ほんの数ヵ月前までは深緑を誇らしげに彩っていた木々たちも、いつのまにか枯葉を落としている。その枯葉を踏むようにして、人々の出勤風景が映し出されて一日の始まりを告げていた。


 秋という季節はゆっくりとやってくる。夏のように一気にやってくるということはない。だから人々はいつのまにかああ秋なんだなということに気づき、あわてて衣替えをする。健太もそんな季節を感じながら、いつものように車で会社に向かっていた。


 沙也夏と夢のような一日を過ごしてから3ヵ月程過ぎていた。

あれからふたりは週一日のペースで逢っていた。逢うとなかなか別れづらくなるもので、沙也夏は時々健太のアパートへ泊まっていったりもしていた。


 健太はそんなふうにして沙也夏とは逢っているのだが、妙に心にひっかかるものがあった。それは、彼女が自分になにかを隠しているという感じが否定できないことだ。健太は何度も自分の考え過ぎだと言い聞かせた。だが、それは逢うたびにその想いが大きくなるのを感じる。


 時々、沙也夏はデートの時、元気がない時がある。健太は気分でも悪いのかなと思い、今日は早く帰ったほうがいいと言っても、彼女は帰ろうとしない。そして、急に元気がでるといった感じだ。無理して元気のふりをしているというのがわかるのだ。

健太はおもいきって聞いてみようかと思っているのだが、それはなかなかできなかった。聞くとすべてが終わってしまいそうで、恐かった。


 その日、健太は無事に仕事をひととおり終え、机の上の書類を片づけ、帰る準備をしていた。帰るといっても、時計は午後九時になろうとしていた。純子はとっくに帰っている。事務所にはもう二、三人しかいない。月曜日はだいたいこんな感じだった。


〝さあ、帰るか。今日も駅前の定食屋だな〟

そう思った時、電話が鳴った。

誰だよ、もう帰らしてくれよと思いながら受話器を取ると、聞き覚えのある声だった。淳之介だ。


「なんだ、淳之介じゃないか。どうしたんだよ、こんな時間に」

「あぁ、健さん。良かったぁ、いてくれて!」

「純ちゃんならとっくに帰ったぞ」

「違うっすよ。奴には用はないっす」

淳之介は純子のことをいつのまにか奴と呼ぶようになっていた。

「健さん。もう仕事終わったんでしょ?」

「ああ。もう帰るところだよ」

「あの、今からアパートに行っていいすか」

「アパートって、俺んとこか?」

「ええ。ちょっと相談したいことがあるんすよ」

「そうか。別にいいけど。だけど俺、晩飯まだなんだよ」

「そしたら、時間おいて来ます。十時過ぎでいいすか?」

「ああ」

「じゃ、その時に・・・」

健太は釈然としない表情をしながら、受話器を置いた。事務所を見渡すと、いつのまか健太ひとりになっていた。


 健太は駅前の定食屋で晩飯をすませて、アパートへ帰った。時間は午後十時前だった。淳之介はまだ来ていない。

健太はトレーナーとイージー・パンツに着替えて、リモコンでCDプレイヤーのスイッチを入れた。そして畳の上に寝転がった。スピーカーからはジャズ・バラードが流れ始めた。最近の健太はスタンダード・ジャズがお気に入りだ。考え事をするには、こんな音楽がしっくりくる。


〝淳之介が相談事なんて珍しいな。純ちゃんとはうまくいってるみたいだし、なんだろう。そういえばこの頃純ちゃん、機嫌がいいみたいだ〟

淳之介と純子はあれ以来、うまくいってるみたいだった。もっとも純子が淳之介の所に無断外泊したことに関して、ヒロシの機嫌はなかなか直らなかったようだ。だが、そこはヒロシと淳之介はバン

ドで一緒にやっている仲である。時間が解決してくれた。


〝今年の夏のライブは、バンドのなかでいろいろなことがあったなぁ〟

健太は天井を見上げながら、苦笑いした。

健太は自分と沙也夏が関係ができた日に、まさか淳之介と純子が同じようになっているとは夢にも思わなかった。一番大変だったのはヒロシだろう。妹の無断外泊でやきもきしているのに、健太のずる休みの片棒まで担いでくれたのだ。健太はそのことに関してはヒロシにほんとうに感謝していた。


 ただ、健太は圭子のことがこの頃すこし気になっていた。顔を合わせても元気がない。まあ、以前のように純子とつきあうことはできないだろう。それに健太、淳之介、純子の三人がバンドよりも恋愛のことで忙しいようで、バンドも一時休止といったようになっていた。健太は内心このまま解散ってことにならなければいいがと思っている。恋愛すればするで、いろいろ問題も起こるものだ。


 チャイムの音が健太の耳に響いた。淳之介のご到着だ。

健太は現実に引き戻されたように、跳ね起きた。

ドアチェーンを外し、ドアを開けた。

「ウーッス。申し訳ないっす、夜分に」

「なに言ってんだよ、他人行儀に。それに言ってることと、行動が伴ってないぞ」


 そう言って健太は淳之介が持っているものを指差した。

淳之介は焼酎の紙パックを持っていた。

「それを持ってきたってことは、今夜泊まってくつもりだろ」

「ばれましたか。へへへ・・・」

淳之介は笑いながら、ドアを閉めて、中に入った。そして、畳に腰を降ろした。


「健さん、またCD増えたんじゃないっすか?」

「ああ。ジャズのCDを買ったからな。今流れてるのも最近買ったやつだ」

健太はやかんをコンロにかけながら言った。

「お湯割りでいいだろ?」

「ええ。今日はすこし冷えてっから、お湯割りがいいなと思ってたとこっす」


 健太も畳に腰を落とし、淳之介と向かい合った。

「いいのか?俺んとこなんか来て。純ちゃんから電話があるんじゃないのか」

「いえ、今日はないっす」

淳之介はボソッと言った。

「なんか元気ないな。幸せいっぱいの奴がどうしたんだよ?」

「それは昨日までの話っす」

「おまえ・・・まさか別れたっていうんじゃないだろうな」

「それこそまさかですよ。実は・・・健さん。どじりました」

「・・・・・・・・」


 健太は黙って淳之介の次の言葉を待った。

その時、キッチンからお湯の沸く音がした。健太は立ち上がり、キッチンに行き、コンロの火を止めてやかんを取った。そして、ポットにお湯を入れた。

淳之介から焼酎をもらい、ふたり分のお湯割りを作った。


「とりあえず、お疲れ」

健太と淳之介はグラスをあわせた。

ひとくち飲むと、胃の中がカーッと熱くなった。

淳之介はなかなか喋ろうとしない。

「淳之介。グーッといけ」

健太がそう言うと、淳之介は一気に半分ほど飲み干した。

「子供ができて・・・しまったす・・・」

「子供?子供って・・・まさか・・・」

「奴、妊娠しちまったんすよ。どじったなぁ。はぁー」

淳之介は大きくため息をついた。


 さすがに健太もこれには驚いた。

〝こりゃ大事だ。淳之介と純ちゃんに限って、そんなことはないと思ってたんだが・・・これを聞いたらヒロシがなんと言うか。やっと機嫌が直ったところなのに・・・今度は淳之介のこと、どつき回かもな〟


 淳之介は完全に意気消沈していた。グラスはとっくに、空なっており、自分でお湯割りを作っていた。

「で、いつわかったんだ?」

健太は尋ねた。

「昨日・・・」

「そうか。相談ってのはそのことか」

「はい。奴、産むって言うんすよ。だから俺にもそのつもりでいてくれって」

「純ちゃんらしいな」

「そんな人ごとみたいに言わないでくださいよぉ」

「人ごとだからな」

「それじゃ相談にのってくれないすか!」


 淳之介は半分怒ったように言った。

「わりい、わりい。ところでその割り方、濃くないか」

「えっ?」

「焼酎だよ。それじゃほとんど生だよ」

淳之介はすでに二杯目だった。なるほど、焼酎がグラスの八割を占めている。

「いいんすよ。今日はやけ酒気味だから」

「いや、いかん。おまえは酔っぱらうと、ろれつがまわらなくなるからな」


 そう言うと健太は淳之介のグラスをとって、自分のに注ぎ足し、淳之介の分をちゃんと作ってやった。

そして、グラスを渡しながら、健太は言った。

「それでおまえとしては純ちゃんにどうしてほしいんだ?」

淳之介は焼酎をひとくち飲むと、考えるようにして言った。

「俺としては・・・まだ結婚も考えてないし。だから堕ろしてもらいたいと思ってるんすけど・・・」

「まあ、おまえの年齢からするとそうだろう。だがな、よく考えろよ。堕ろすということは殺すってことだぞ。生まれてくるこどもにはなんの罪もない。おまえの都合で生まれてくることができないわけだから」

「じゃ、健さんは産むのに賛成なんすか?俺は仕事も決まってないんっすよ!どうやって育てればいいんすか!」

「まあ、そんなに熱くなるな。要はおまえが純ちゃんをどれだけ好きかってことだ。淳之介、純ちゃんを愛してるとまで言えなくても好きとは言えるんだろう?」

「それは、はっきりと言えるっす」


 淳之介はきっぱりと言った。

「じゃ、いいじゃないか。おまえは純ちゃんが好きだ。生まれてくる子はおまえと好きな女のこどもなんだぞ。そこから考えてみたらいいと思う」

「というと?」

淳之介の目がだんだんと真剣になってきた。

「つまり、まずこどもが生まれた後の生活のことは考えるな。自分と好きな女のこどもが生まれるってことを考えろ。そして、こどもを育てるとなったら、その時はじめて、そのためにはどうしたらいいのかってことを考えるんだ。当然、今のようにフリーターではいられないから定職に就かなければならない。生活もそんなに楽じゃない。そりゃきついさ。だけど好きな女と暮らせるんだぞ。それを考えなくっちゃ」


 健太は焼酎の一杯目をようやく飲み干し、さらに続けた。

「おまえは今の生活を壊したくないとか、結婚したら縛られるとか悲観しすぎなんだよ。まず、好きな女と暮らせるってことから出発してみろ。生活なんて、どうにかなるって。それに純ちゃんがしっかりしてるしな」

健太は一気に喋り、これが沙也夏と自分だったらよかったのにと思った。


 淳之介はしばらく腕を組んで考え込んでいた。

健太はなにも言わず、二杯目のお湯割りを作ってスピーカーから流れる音楽を聞きながら、飲んでいた。

〝もし、沙也夏と俺の間にこどもができたら、どうだろうか?たぶん、俺は喜ぶだろう。それに結婚の口実にもできる。卑怯なようだが。だが、彼女は堕ろすというかもしれないな。なんとなく、そんな気がする。理由はわからないけど・・・〟


 健太は淳之介の話を聞いて、ふとそう思った。

それから淳之介が組んでいた腕をほどいた。

「好きな女とひとつ屋根の下で暮らすかぁ・・・そうかもしれないっすね。俺は本気で奴とつきあってたんだし。健さん、すぐには結論でないけど、考えてみます。まあ、あんまり時間はないけど」

淳之介はすこし落ち着いてきたようだった。


「あとはヒロシだな。ヒロシになんと言うかだ」

健太は淳之介をまた地獄に突き落とすようなことを言った。

「ああー、そうだった。ヒロシさんのことがあったんだぁ」

淳之介はまた頭を抱えた。

「淳之介。おまえ一発、二発は殴られるのを覚悟しとけよ」

「ええっー!そんな脅さないでくださいよ」

「いや、あいつはああ見えても妹思いだからな。そのためにもおまえがちゃんと考えをまとめとかないといけないぞ」

「うーん。頭が痛くなってきたぁ」

「まあ、いざとなりゃ俺がなんとかヒロシに言ってやるから。圭子もいるしな。おそらく純ちゃんと圭子は今日でも会ってるかもな」

「健さん、頼りにしてるっす」

「あ、そういえば純ちゃんこの一週間なんか機嫌がよかった気がするな。こどもができたことがよほど嬉しかったのかもな」

「そうっすか・・・昨日も嬉しそうに話してましたもんね。俺は心臓が飛び出るかと思ったすけど」


 どうやら淳之介も気持の整理がすこしついてきたようである。

ちょうどCDの演奏も終わったようで、それからは話題が音楽やバンドのことに移っていった。あれこれCDを聞きながら、話は尽きなかった。それにあわせるかのように焼酎も減っていき、淳之介はいつのまにか酔い潰れていた。

時計の針は午前二時をまわっていた。


 健太は淳之介に毛布と布団をかけてやった。

健太も自分の布団を淳之介の横に敷き、寝ることにした。明日は大分直行だが、幸い、先方から時間の変更があったので、すこし寝坊することができる。時間の変更は課長には内緒にしていた。


 健太は横になったものの、なかなか寝つけなかった。こういう時考えてしまうのは、やはり沙也夏のことだった。

〝淳之介から沙也夏の話がでたら、全部今俺が考えていることを話そうかと思ったが、こいつは自分のことで精一杯みたいだな。もちろん話したところで、解決にはならないが・・・しかし、沙也夏はいったいなにを隠しているのだろう。男?家庭のこと?そういえば彼女はあまり家族のことを話そうとしない。もちろん、母親がいないのは知っている。昔の父親のことは誇らしげに話すが、今なにをしてるのか話そうとしないな。家庭になにか事情があるのかな?でも、俺は結婚してくれと言ったわけじゃないし・・・とすれば、男か?だが、彼女は複数の男とつきあえるタイプじゃないと思うが。ひょっとしたら俺は天秤にかけられているのかも。それならそれでいい。それは彼女自身が選ぶことで、とやかく言うべきことではない。でも・・・やっぱり彼女はそういう女じゃない!ああ、もう考えれば考えるほど、わからなくなってくる!〟


 健太は自分なりに考えても、どうしても結論がでなかった。

結局のところ、やはり本人に聞くしかないのか・・・〟

健太自身も淳之介と同様、腹を決めるしかなかった。

健太は寝返りをうって、いつかは話さなくてはならないと思いながら眠りについた。








 

 



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