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ワン・モア・ソング  作者: 杉本敬
31/41

至福の時間

 絵を一心不乱にに見てる健太を見て、沙也夏は言った。

「健ちゃん。しばらく絵を見てていいわよ。私はすることがあるから、ゆっくり見てて」

そう言うと、沙也夏は中央のテーブルの席に座った。テーブルにはいつのまにか画集やら書類があった。沙也夏は画集を開いて、何事かを始めた。


 健太は沙也夏の言った言葉に気づく様子もなく、絵を見て歩いていた。

そして、一枚の絵を見てあっと思った。

その絵は波打ち際にボートが打ちあげられている。波打ち際なのでそのボートは波に揺られて動いてる感じだ。健太が思わず立ち止まったのは、自分の書いた詞の情景とあまりにも似ていたからだ。もちろん実際見たのはボートじゃなく、サーフボードだったが。その曲は昨夜のライブでも歌った〝サマー・デイズ〟だ。


 健太はゆっくりと歩きながら、絵をひとつひとつ見ていった。気に入った絵が何枚かあった。

まっすぐな道を歩いていると、いきなりクルーザーが目に飛び込んできてその向こうには海が広がっているのや、海は描かれてないけど妙に海を感じさせる絵。健太はそれを海に行っての帰り道と感じた。


 それと海ではなく、運河が描かれているのもあった。それには必ずといっていいほど別荘のような建物があり、その別荘にまぶしい太陽の光が反射していた。別になんともない様子の絵だが、健太にはその反射している太陽の光と運河の色の対比に心を動かされた。


 時間は静かに過ぎていく。いつのまにかホールには西日が射しこんできていた。

健太は海の色がオレンジに変わりつつあるのを見て、やっと時間がたったのを知った。

後から沙也夏の声がした。


「健ちゃん、満足した?」

健太は後を振り返った。

「あ、ああ。すっかり時間がたったみたいだ」

「まだまだ、メインディッシュはこれからよ」

「メインディッシュ?」

「バーのカウンターに行きましょう」


 バーにはフランクが待っていた。

「いらっしゃいませ」

にこやかにフランクはそう言った。

カウンターにはメニューが広げられていた。メニューといってもフード類ではなく、すべてドリンクだ。それもカクテルのみだ。健太はその種類の多さにすこし驚いた。


「このバーにはカクテルしかないの」

沙也夏は健太に言った。

「カクテルってこんなに種類があるのかぁ。俺って、カクテルってあんまり飲まないから、ちょっと驚いたな」

「カクテルは嫌い?」

「いや、そういうわけじゃない。だいたい飲む時は騒いで飲むタイプだから、カクテルは似合わないって感じだね」

「それじゃ、今日は飲んでみれば?今からの時間はここから見る夕陽はきれいよ。カクテルにはピッタリと思うわ」


 沙也夏からそう言われて、健太はメニューに目を落とした。

これだけ種類があると、さすがに迷ってしまう。一応ベース別に書いてあるが、どれがどういう味がするのかわからない。

「お迷いのようですね」

フランクが健太に言った。


「うーん。これだけ多いとね。なにがお薦め?」

健太はフランクに聞いた。

フランクは日ざしが射し込んでくる窓を見て答えた。

「今からの時間であれば、ギムレットがよろしいかと」

「いいわね」

沙也夏が言った。

「うん。わからないから、それにしよう」

「じゃ私も」

ふたりともギムレットをオーダーした。


 やがて、ギムレットがふたりの前に置かれた。

「ギムレットには早すぎるね、このセリフ知ってる?」沙也夏が健太に聞いた。

「いや、知らないな」

「〝長いお別れ〟っていう探偵小説の一節なの。これはギムレットには日盛りよりは夕暮れが似合うってことなのよ」

「ああ、だからさっき今からの時間であればと言ったわけか」

健太はフランクのほうを見て言った。

「そのとおりでございます」

フランクはにこやかに答えた。


 健太と沙也夏はグラスを合わせた。白色の液体がシャンパン・グラスの中でかすかに揺れた。

健太はひとくち飲んだ。すると、クールな味がして一種の清涼感が体を吹き抜けた。なるほどと健太は思った。

「健ちゃん。海を見ながら飲まない?」

「うん。いいよ」


 そう言ってふたりはカウンターから離れ、海が一番よく見えるテーブルにグラスを持って移動した。

海は次第に淡いオレンジ色になっていた。テーブルに置いたギムレットもオレンジ色に染まっているように見えた。


 沙也夏は窓をすこし開けた。潮風が沙也夏の髪をかすめた。

「いい所だね」

健太は素直に言った。

「よかった、気に入ってもらって。私も初めてここに入った時、素晴らしいなと思ったわ。海をこんな間近に見れるギャラリーはそうないもの」

「それにしても、海の近くに美術館とは思いきったね。考えはしてもなかなか実現できるものではないよ」

「うちの社長は考えだしたら行動に移す人だから。でも、美術館って感じはしないでしょ?」

「たしかに。なんて言ったらいいかわからないけど、とても落ち着ける自分だけの場所って感じだ。それにほんと絵はあってるよ。特にあのボートが波打ち際に打ち寄せられてるのは、ここにピッタリだ。なんでもない海にあるような情景だ」

「ありがとう。絵を選んだのは私自身だから、そう言ってもらえるとうれしい」


 沙也夏は嬉しそうにギムレットを飲んだ。

「健ちゃんは海の近くで育ったんでしょ?やっぱり海の恩恵みたいののを受けてると思う?」 

健太はすこし笑って答えた。

「恩恵っていうほどの大袈裟なものじゃないけど。でも、自然の雄大さっていうのは身にしみてわかったと思う。海を見てると気持が落ち着いてくるって言ったらけっこう笑われるんだけど、あれはほんとうなんだ。波の音をじっと聞いてると、それが人の声のように聞こえる時がある。そんな時、俺は何時間も砂浜にいる。誰の声かわからない。ひょっとしたら、最初に人間として地球上に降り立った人の声かなぁって思う時もある。ハワイなんて行くとそうらしいよ。ハワイにはね、そこで生まれた人しか行けない島があるらしいんだ。その島では精霊や虫の声が聞こえてきて、人々の生活のなかに自然があるという話だよ。やっぱり、海と一緒に生活してたら聞こえない声が聞こえてくるのかもしれない。海ってほんと神秘的だよ」


 健太は喋りながら、すこし酔ってきたかなと思った。

「健ちゃんの感性は海に育てられたのかもしれないわね。私は物心ついた時から、車のエキゾースト・ノートばかり響いてたわ」

「小さい頃からレース好きだったの?」

「そうね。ショップでレース・ビデオばかり流してたし、パパの仕事ばっか見てたから、いつのまにか好きになったって感じかな。でも、私がヨーロッパに行ったのはママの影響なの。ママは私に人間として生まれた以上は夢をもちなさいって教えてくれたわ。ママの夢はパパをレーシング・メカニックにすることだった。ママは、ほんとうにパパのことを好きだったのよね。私も、前からヨーロッパには憧れていたし、ヨーロッパでなにかを見つけられないかなと思ってたの。それで、運良くヨーロッパでレーシング・チームの一員になることができた。だから、私も高校に進学するよりもヨーロッパに行くことが自分にプラスになると思った。今思っても、ヨーロッパに行ったことは無駄じゃなかったわ。エディやレーシング・ドライバーたちからスピードに賭ける生きざまを教えられたもの。もちろんフランクにも逢えたことも」


 沙也夏は思い出すように話していた。

健太はお互いのグラスが、空になってるのに初めて気づいた。

「なにかお作りしましょうか。おふたりともグラスが空の様子ですが」

フランクがそつなくふたりに尋ねた。

「そうね。今度は色も楽しみたいわね。フランク、なにか目の覚めるような色のカクテルを作ってくれない?」

「承知いたしました。お客さまは?」

フランクが健太に尋ねた。

「うーん。そうだなぁ。俺は色が透明なのがいいな。できればテキーラ・ベースで」

「それならピッタリなのがございます」


 そう言うとフランクはカウンターに戻っていった。

「フランクとはどこで知り合ったの?」

健太は興味深げに尋ねた。

「フランスで知り合ったの。エディと同じチーム・メイトにミッシェルっていうフランス人のドライバーがいて、彼がカクテル好きだったからオフの時は四人ぐらいで行ったわ。もちろん、私は未成年だったから、ノン・アルコール・カクテルを飲んでいたけど」

「へぇ~。カクテルもアルコールなしっていうのがあるのか!」

「そうなのよ。私が好きだったのはサラトガ・クーラーね。ライムとジンジャーエールなんだけど、これがスッキリしておいしいの」

「あ、そういえば帰りの運転どうする?このまま飲み続けたら、まずいんじゃないの?」


 健太は思いだしたように言って、真顔になった。

「ご心配にはおよびません。私が責任をもって空港までお送りいたします」

いつのまにかフランクがカクテルを持ってきていた。

「そういうこと。フランクが運転してくれることになってるから安心して飲んでいいわよ」

沙也夏はにっこりして言った。

健太は沙也夏の言葉を聞いて、その段取りの良さにあっけにとられた。


 テーブルにはふたりのリクエストしたカクテルが置いてあった。

「きれいな色だね。まるでエメラルド・グリーンだ!」

沙也夏のカクテルを見て、健太は今度は感嘆の言葉を発した。

「そのとおりでございます。お嬢様のカクテルはエメラルド・クーラーですから」

「え、お嬢様って?」

健太は笑いながら言った。

「フランクのなかではいつまでも私はお嬢様なの。フランクと知り合ったのはチームが一番調子がいい時で、自分で言うのもなんなだけど私はチームのアイドル的存在だったの」


 健太はわかるような気がした。今これだけきれいなのだから、さぞかしティーン・エイジの時は可愛かったのだろうと思った。

「ところで健ちゃんのカクテルは初めて見るわ。透明だけどすこし白く濁ってるって感じね」


 沙也夏に言われて健太はグラスを上に持ってみた。

「白く濁ってるのはホワイトキュラソがはいってるからです。名前はフレンチ・カクタスといいまして、シンプルなカクテルでございます。テキーラにキュラソーを加えてますので、テキーラの刺激的な味が適度にソフトになっております。ほんとうに透明なカクテルなら、ウィスキー・フロートなどがいいのですが、テキーラ・ベースということでしたので。テキーラ・ベースでは、これかテキーラ・サンライズがお薦めです」


「それ、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーがこよなく愛したカクテルね」

「さすがにお嬢様はよくご存知で・・・」

健太はひとくち飲んでみた。テキーラの味はするが、さっぱりとした感じで飲みやすい。


「お嬢様、そろそろ始まる時間では?」

フランクは言うと、その場を引き下がった。

「始まるってなにが?」

「見ればわかるわよ。健ちゃん、水平線の向こうを見てて」


 沙也夏に言われるまま、健太は水平線に目を向けた。太陽はずいぶんと下の位置まできていた。

そして太陽が水平線にかかった時、見たことのない情景が健太の目に映った。

今まで淡いオレンジ色だった海原が濃いオレンジ色に染まり、それが岸のほうに向かって流れるようなオレンジ色になった。海原がオレンジ色に染まるのに五分もかからなかった。ほんの一瞬の出来事だった。


 沙也夏はグラスを水平線のほうへ向けた。健太もあわててそれにならった。

「グレイトだわ!」

沙也夏は力強く言った。

健太も同感だった。

〝こりゃ鳥肌もんだな。やっぱ自然は凄い!世の中がどんなに進歩しようとも、これにはかなわない〟

健太と沙也夏はカクテルを飲みながら、しばらく海をじっと見ていた。ふたりとも心地いい酔いが気分を高揚させていた。


「どう?健ちゃんにこれを見せたかったの。だから壱岐に連れてきたのよ」

「なんて言ったらいいかわからない。素晴らしいとしか表現できない。しかしこんなの初めて見たよ」

「私は月二回仕事でここへ来るんだけど、いつもこれを見るの。でもこんなおいしいカクテル飲みながら見るのは初めてよ。念願がかなったわぁ」

「こういう情景は絵とかにはよくあるけど、実際見るとぶっ飛っんじゃうね。これって、音楽によく似てる。音楽ってCDで聞くとそれなりにいいんだけど、ライブで聞くとその比じゃないもん」


「うまいこと言うわね。健ちゃんは音楽が夢なのね。その夢を実現してるから凄いわよねぇ!」

「いやぁ、音楽は趣味だよ。ライブすることが好きだからやってるだけでね。夢とはちょっと大袈裟だよ」

「そうかな。それは夢といっていいと思うわ。夢を実現したというのはなにもプロになったとか、商業的に成功したことだけじゃないと思うの。好きなことを自分なりの方法でやって、自分で満足できることが大事だわ」


「そう言われると嬉しいよ。自分でもひとつ誇れることがあるんだと思える。ところで・・・沙也夏の夢は絵?」

「うーん、そうね。私は絵の素晴らしさをひとりでも多くの人にわかってもらえることかな。とは言っても、べつに買ってもらうとかそういうんじゃないの。買うとか買わないのは結果で、その絵がその人の心に住んでくれればいいな。どうしても私の仕事は絵を売るってことが最終目標だから、買ってくれれば嬉しいけど」


 沙也夏はエメラルド・クーラーをまたひとくち飲み、すこし考えるようにして言った。

「結局私がやりたかったのはここよ。ここは絵を売るとか買うとかは無縁の場所。ただ、好きな絵を何時間も見て、贅沢な時間を楽しむ。それで、自分の部屋に飾りたくなれば買ってもいいし、心のなかだけに飾るのもいい。私は絵を心から楽しんでほしいだけ」

「楽しいな。こんなふうに互いの夢を語ることができて。沙也夏のような女性と知り合えたこと、恋人になれたことが嬉しいよ」

「恋人・・・私のこと・・・そう思ってくれるの?」

「ああ。きみさえよければ」


 沙也夏は健太の言葉を正面から受けとめた。そして喜びが心のなかに広がっていくのを感じた。

「なんかすこし酔ってきたみたい。健ちゃん、砂浜に行かない?」

健太は頷いて、ふたりとも砂浜までゆっくりと歩いた。

そんなふたりの様子をフランクはにこやかに見送った。


 夕方の海はなぜかロマンチックだ。それは潮風もやさしくなり、人の心をおだやかにするのかもしれなかった。陽はまだ完全に落ちていなかったので、オレンジの海はそのままだった。

ふたりは素足になり、足を伸ばして砂浜にすわった。

「すこし涼しくなってきたわね」

「うん。この時間の海ってのは気持いいね。風と波の音がハーモニーみたいだ」


 健太はキザな言葉を言った。都会では言えない言葉だ。海を目の前にしてるからこそ、言えるのかもしれない。

「さすが詩人ね。海ってやっぱり詩的なのかしら?」

「俺にはそうだね。海は夏ってイメージだけど、秋の海もいいもんだよ」

「秋の海?」

「そう。寂しげな海。きのうやったライブのナンバーにも秋の海をイメージしたのがあったんだ」

「それ、あれでしょう。サマー・デイズ」

「よくわかるね」

「私ね、健ちゃんの歌をかみしめるように聞いていたの。あれはどう聞いても夏って感じはしなかった」

「そんなふうに聞いてもらえると嬉しいよ」

「あの曲聞いてると、夏というのは夢のような感じがしたわ。夏が終わると人は現実に気がつくのかもしれない」

「現実か・・・いやな言葉だ。でも俺は沙也夏とのことを夏の出来事だけにはしたくない」

「今日は言いにくい言葉をすらすら言うのね」

「酔ってるせいかもしれないし、この情景がそうさせてるのかも」


 沙也夏は健太の肩に体を預けるように寄り添った。

「でも気持いい。砂浜にすわって海を見るのって」

「じっと耳をすましてごらん。なにか聞こえてくるかもしれない」

ふたりとも波の音を聞きながら、それぞれの想いをめぐらせた。


 沙也夏は今この時に喜びというものを感じていた。これが生きてるってことなのかもしれないと思った。エディと過ごした日々も、沙也夏にとって貴重なものだ。だが、あの頃は若さにまかせて突っ走ってたように思うのだ。でも今は違う。この一分一秒を大切にしたいと感じている。


 一方、健太は沙也夏に出逢ったことを感謝していた。彼女に出逢ったことで、自分の隠れた一面を知ることができたように思った。それとなにより彼女が自分のことを好きになってくれてることが嬉しかった。健太はこの恋を最後の恋にしたいと強く感じるのだった。

ふたりはただ海をじっと見つめ、互いに惹かれ合っていることを感じずにはいられなかった。





 









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