一枚の絵
雨はすっかりあがり、雲の切れ間から薄日が射していた。
あじさいの葉に雨の水晶片がいくつも光っていた。
健太はその光景に思わず目がいってしまい、車を道端に停め、窓を開けて雨があがった空を見上げた。
健太は梅雨は嫌いだが、あじさいは好きだ。
雨があがった後のあじさいの花びらにのっている透明な水滴を見るたびに、きれいだなといつも思ってしまう。この情景を詞にできないかと挑戦してみたが、しっくりと思われるものはできなかった。
でももう一度挑戦しようとは思っている。
そして、頭の中で今書きかけの詞のことをいろいろ思い出していた。
30分ほどそうしていただろうか。ふと時計を見ると約束の時間が迫っていた。
健太はあわてて車のエンジンをかけた。なぜなら、今は取引先に向かう途中だったからだ。
実は会社のほうで純子が健太の遅刻をばれないようにするために、兄の会社に直行ということにしていたのである。もちろん、純子から兄のヒロシには連絡済である。
その取引先は小谷商事といって、ヒロシの勤めている会社だ。健太の会社にとっては、最も取引量の多い大事な得意先だ。健太の会社は商事会社といっても、いわゆる弁当の容器屋だ。だが、ヒロシの会社は違う。健太が納めている弁当の容器は会社の一部門でしかなく、日常生活用品のほとんどを取り扱っている。
そんなわけで、車は福岡の街を走っていた。健太が福岡に来て5年ほどになる。最初は都会だなぁと思ったが、慣れてしまえばそうも思わなくなった。適当に都会で、田舎っぽいところもあって、なかなか住みやすい街だなと思っている。
小谷商事はその福岡の中心地である天神にあった。さすがに天神にはいると、トラックやライトバンが目についてきた。いまから1日が本格的に動きだすような感じだった。
健太は中央公園の地下駐車場に車を入れ、小谷商事へ向かった。
小谷商事は十五階のビルで、ビルの多い天神でもけっこう目立つ。
中央の玄関から入るとすぐ受付がある。健太はここの営業担当になっているので、受付嬢とは顔なじみだ。
しかし、このビルの中に一歩入ると一瞬緊張してしまう。健太の会社とはなにか空気が違う。活気にあふれ、人の動きも活発だ。その反面、ぼやぼやしていると流されてしまうよう感じもある。
だから、健太はここに来ると身構えてしまう。
健太はすこし緊張した面持ちで、受付に向かい、用件を言おうとした。先に言葉を発したのは、そのなじみの受付嬢だった。「いらっしゃいませ。古田課長がお待ちです。8階の第五応接室へどうぞ」といつもの人懐っこい笑顔で言った。
これでは逆である。健太は苦笑して、〝ヒロシの奴、手回しがいいや〟と思った。古田課長とはヒロシのことである。
「そうですか。わかりました」とバツの悪そうな顔をして、受付嬢に頭を下げ、エレベーターへ向かった。
それにしても、この会社の応接室の多さにはいつ来ても驚かされてしまう。応接室がなんと各階に十室もあるのだ。それほど、ここは取引先が多い。健太なんて初めてここへ来た時、あまりの多さに驚き、受付で聞いた応接室の番号を忘れてしまい、また聞きに行って恥をかいた経験がある。それ以来、気をつけるようにしている。
健太は応接室の番号を確認して、入っていった。
椅子に座り、ようやく落ち着いた感じがした。今朝は遅刻から始まり、人助けをして病院に連れて行き落ち着くひまがなかった。
〝それにしてもきれいな人だった。これがなにかのきっかけにならいかなぁ〟と思ったが、まずそういうことはないだろうと打ち消した。
そんなことを考えていると、ドアがノックされ、女性社員がお茶を持ってきて入ってきた。
「いらっしゃいませ」と彼女はお茶を置き、さらに言った。
「古田はただいま電話中でございますので、少々お待ちくださいませ」
健太は恐縮して、頭を下げた。
彼女はすぐ出ていこうとせず、健太のほうに顔を近づけてきた。
「お久しぶり、谷川さん。今度はいつライブやるの?」
健太はちょっとびっくりして彼女の顔を見た。そして、〝ああ、彼女か〟と思った。以前、ライブをやった時、見に来てくれたひとりだった。
「この前はありがとう。次の予定はまだわからないんだ。決まったらヒロシ・・・じゃなくて、古田課長からお誘いがあると思うよ」
「絶対誘ってね。私は古田課長のファンでもあり、谷川さんのファンでもあるんですからね。じゃあ、すこし待っててね。課長はもうすぐ来ると思うから」
健太は彼女の後姿を見ながら、緊張感がほぐれていくのを感じていた。
ヒロシの所属している課はほんとに気のいい人ばかりで、ここの課に来るとホッとする。やはりヒロシの人柄の良さのせいもあるのだろう。なんといってもヒロシは課長である。ヒロシとは年齢もそう変わらないのだが、かたや課長で、自分はというと平である。
しかし、健太はいっこう気にしていない。健太は出世意欲などないし、しようとも思わない。だいたいが、健太は自分がサラリーマンタイプじゃないと思っている。もっと、自分にはなにかやるべきことがあるのではないかと思っていて、それを探している。だからといって、音楽で食っていこうなどと、大それたことを考えたことはない。
音楽は健太にとって、生きる支えであり、それを仕事にしようなどとは思わない。
健太はお茶をひとくち飲んで、目線をすこし上に向けた。そこには一枚の絵があった。この応接室にくる度、その絵はいつも強烈な印象を与える。
その絵はローリング・ストーンズのライブ演奏の様子を描いてあり、ギターのキース・リチャーズとロン・ウッドがいまにも飛び出してくるような感じだ。特にキース・リチャーズのギター・スタイルが文句なしにかっこいい。腰を落とし、ギターを膝の上で弾いている。健太は初めてこれを見た時、身震いがした。まさにロックン・ロールが聞こえてきそうだ。
もちろん描いているのはロン・ウッドだ。
ロン・ウッドという人は音楽と同じくらいに絵の才能があり、画家としても認められていて、ストーンズ以外にもいろいろなミュージシャンを描いている。
健太はじっとその絵を見て、〝この絵が俺とヒロシを出逢わせたのかもしれない〟と思った。
健太が小谷商事の担当になったのは、三年前のことだ。それまでは別の問屋の担当で、やっとノルマも確実にこなせるようになって会社にも慣れた頃、突然、課長から呼ばれた。
「谷川君、突然だが来月から担当を総入れ替えする。新しい担当はここだ」と言って、一枚の用紙を健太に渡した。
「へっ?」と健太は頭がパニックになった。
〝担当を入れ替える?なんで・・・俺、なにか悪いことしたか?〟と健太は合点がいかなかった。
「へじゃない!担当を変わってもらうんだ。びっくりしたとは思うが、これは会社の方針で、社長命令だ」
有無を言わせない言葉だった。健太は文句を言いたかったが、無駄なことだと悟った。社長命令と言われればそれまでで、これほど絶対的な言葉はない。これに逆らう時は、会社を辞める時である。
健太は全身から力が抜けたみたいに感じた。追い打ちをかけるように課長が言った。
「言っておくが、そこに書いてある小谷商事はなかなか手強いからな。最初は私も一緒に行くが、気を引き締めてやらんとノルマは達成できんぞ」
なるほど、もらった用紙に小谷商事と書いてある。踏んだり蹴ったりとは、このことだ。やっとノルマを達成できるようになったと思ったら、担当を入れ替えるときた。それも、一番厄介な問屋がまわってきたようである。
健太は自分の席に戻ると、無性に腹が立ってきた。
〝ふざけるな!俺はロボットじゃねえんだぞ。なにを基準に担当を変えるんだ?今までの努力はどうしてくれる!〟と課長に腹が立って仕方がなかった。
「どうしたの?谷川さん。そんなにむくれた顔して」と純子が仕事の手を休めて、尋ねてきた。
「これだよ」と健太は課長からもらった用紙を、純子に渡した。
純子は驚いた様子だった。
「小谷商事の担当になったの!」
「ややっこしい問屋らしいよ。クソ課長の話では!」とまだ腹に据えかねるようだった。
「そうなのよ。ここは面倒なのよねぇ・・・」と純子は薄笑いを浮かべていた。
「やっぱりなぁ。ん? なんで純ちゃんがわかるんだ?」
「それはねぇ。谷川さん、ちょっと耳貸して」と健太の耳を引っ張った。
「痛てて・・・なんだよ」
「実は小谷商事のうちの担当はね、兄貴なの」と小声で言った。
「えっ、兄貴って・・・純ちゃんの?」
「そう。誰にも言ってないけどね。だから手強いわよぉ。でも、谷川さんなら気に入るかもしれないわ」と純子は意味深げに、ニヤニヤしながら言った。
「どういう意味だよ」
「逢えばわかるわ」
翌月、健太は課長と一緒に新たに担当することになった問屋を回りに行った。行く途中、課長は車の中で小谷商事のことをしきりに話していた。
「いいか。小谷の担当の課長はな、とにかく一筋縄ではいかんからな。私が担当していた時も、そりゃぁ苦労したもんだ」
健太は課長の話をうんざりしながら聞いていた。
〝さっきから同じ話ばっか。なにが自分が担当していた時は苦労しただ。てめぇのやり方が悪かったからじゃないのか?〟と健太は面と向かって言えないので、心のなかで文句を言った。宮仕えの悲しさである。
しかし、小谷商事のビルを見たときは、さすがに健太自身も課長の言うことも一理あると思ってしまった。ビルだけでも、健太の会社とは桁が違う。ビルの中に入ると、それをいっそう実感してしまう。問屋というイメージはなく、商社といった感じだ。
健太は課長の後からついていきながら、まわりをキョロキョロと見ていた。
〝いったい、ここはいくつ部署があるんだ?〟と驚いた。あまりキョロキョロするものだから、課長から言われた。
「あまりよそ見するんじゃない!田舎者じゃあるまいし。ああ、すまん、君は田舎出身だったな」と皮肉たっぷりである。
「すみません・・・」と健太は思わず恐縮してしまった。さっきの車の中での勢いはどこへやらである。
〝こりゃ、注文とるのは苦労しそうだなぁ〟と健太は心細くなり、いままで担当していた問屋がなつかしくさえ思えてきた。
応接室へ入って、しばらく待たされた。課長も最大手の取引先でもあるからか、すこし緊張しているようだった。
健太はというと、放心状態だった。ここで、誤解しないでもらいたいのだが、健太はあまりの緊張で放心状態になったのではない。それほどやわではない。健太だって、バリバリの第一線の営業マンである。それは応接室に掛けてある一枚の絵に心を奪われているからだった。信じられないといった顔で、その絵を見ていた。
〝なんでここにこの絵があるんだ?世界でも数十枚しかないと言われているのに・・・〟
それがストーンズの絵だったのである。
その絵はストーンズのロンとキースの若い頃のステージを描いてある。キースはギンギンに弾きまくっている感じだが、対照的にロンは延々とリズムを刻んでいる。
実は、数週間前に健太はその絵を見たのである。
数週間前というと、ちょうどローリング・ストーンズの公演が福岡で行なわれていた頃である。その公演を記念して、ロン・ウッドの個展が開かれ、健太も足を運んだ。
ちょうど、その日は仕事も早く終わり、帰社するにはちょっと早いかなと思っていたので、軽い気持ちで寄ってみたのである。
入ってみると、そこは六十年代の世界だった。ストーンズは勿論のこと、ジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトンもあった。そして、驚いたことに顔の表情などが実に繊細で、よく特徴をつかんでいた。健太はロン・ウッドをすこし見直した。これだったら、絵だけでも食っていけるんじゃないかと思った。
だが、いままでストーンズのギタリストとして活躍し、いろんなミュージシャンと共演できたから、こんな素晴らしい絵が描けたのかもしれないとも思った。
健太は絵を見てまわるうち、ひとつの絵に釘づけになった。
釘づけというより、絵が健太を呼び止めたといった方がいいかもしれなかった。
キースがとにかく、かっこよかった。そして、絵自体にほとばしるロックン・ロールのエネルギーが充ち溢れていた。キースファンなら涙ものである。事実、キースファンの女子高校生が、絵を見ながら涙ぐんでいたそうである。
〝これが自分の部屋にあったなら元気がでるだろうな〟と健太もひとり感動していた。ずいぶん買うようにすすめられたが、健太は我慢した。たしかに絵は素晴らしいが、値段も素晴らしい。
ちょっとやそっとじゃ、決められる値段ではない。現実の生活を考えると、ぜいたくすぎるなと思って、未練がましくその会場を後にしたのである。
そしてその絵が目の前にあるのである!
〝この絵がここに俺を呼んだのかもしれない〟と健太は、またしても不思議な気持ちになっていた。
健太がそう思っていると、目の前に一枚の名刺があった。はっとして健太は我にかえった。課長が睨みつけている。
「谷川君、なにをぼやっとしている!さっさと挨拶せんか!」と課長は小声では言っているが、かなり怒っている。そうなのだ!健太が絵に引き込まれている間、すでに相手の担当課長は来ていて名刺を差し出していたのだ。
「し、失礼しました!私は営業二課の谷川と申します。よろしくお願い致します」と冷や汗をかきながら名刺を差し出した。
健太は皮肉のひとつでも言われるかなと思ったのだが、意外な言葉が返ってきた。
「この絵がお気に召したようですね。音楽が好きなんですか?」
これがヒロシとの出逢いだったのである。
ヒロシの第一印象は、ずばりイケメンという感じだった。喋り方もハキハキしており、イエス・ノーをはっきり言うタイプだった。〝女にも、もてるだろうなぁ〟と健太は場違いなことを思った。
それから、その日は仕事の話は十分そこそこで終わり、ヒロシが課長に担当者(もちろん健太である)とじっくり話したいということで、課長には先に帰ってもらった。
その後、健太は早速新商品の商談をしようと思い、資料を見せたのだが、ヒロシは手を振って、こう言った。
「そんなの後回し。それより、どうしてこの絵が気に入ったのか、教えてほしいな」
「はぁ。と、とにかく文句なしにかっこいいですね。キースが動とするなら、ロンは静ですね」
「そうだろう!やっぱ、わかる人が見ればわかるんだよなぁ。待ってたんだ、この絵のことをわかる人が現われるのを。絵の技法なんかじゃなくて、どんなに感じたのかを聞きたかったんだ」とヒロシは少々興奮気味だ。
ヒロシはさらに、絵にスタンドの光を当てて言った。
「光の当てぐあいで感じが違うだろう。キースに光を当てると、キースが弾きまくっているようだし、ロンに当てたら、独特のリズムが聞こえてきそうに思えるんだ」
ヒロシは仕事なんかほったらかしで、絵のことに夢中だ。さすがの健太も、唖然としてしまい、次第にヒロシの話に乗せられた。ふたりはまるで古くからの友人のように話していた。
それから、絵のことから音楽の話に夢中になり、軽く2時間をオーバーした。
健太は応接室の絵を見ながら、ここに最初に来た頃のことを思い出していた。
それからいきなりノックもなく、ドアが乱暴に開き、ヒロシが入ってきた。
「わりい、わりい。電話がたて続けに入ってな、すっかり待たせちまった」
「すまんな、忙しいときに・・・」
「また、遅刻らしいな。健太の悪い癖だぜ。まあ、いいさ。健太が来れば、俺も息抜きができるし」
「純ちゃんにはいつも迷惑ばかりかけて、ほんとにすまないと思ってるよ。で、早速なんだが、この商品をヒロシのとこで使えないかなと思ってな」
「そんな仕事のことなんか、後にしようぜ。それよりも、夏のライブのことを煮詰めようや」
「いや、今日はどうしてもこの商談をしたいんだ。実はな、この商品は俺が企画してメーカーに試作させたんだ」
健太の会社は弁当の容器の販売をしていて、普通は弁当の内容ができて容器を企画するのである。ところが今の時代、ただ待ってるだけでは競合会社にとられてしまう。そこで、健太は自分なり弁当の内容というのを考えてみて、企画したのである。
健太はサンプルをヒロシに見せた。
「へぇ~、めずらしいな。健太、えらいやる気になってるんだな。しかし前代未聞だぜ。内容より容器が先にできてるなんてな」とヒロシはサンプルを手にした。
ヒロシはサンプルをいろいろな角度から見て、健太につぎつぎと質問を浴びせてきた。
ヒロシの質問は無駄がなく、要点だけを突いてきていた。健太はこのサンプルができた時、ヒロシの質問を予想して、答えを頭に叩き込んだ。それでも、ヒロシは痛い所を突いてくる。
「健太、やっと営業マンらしくなったな。まあ、改良の余地はあるようだが、取引先の栄養士に見せてみるよ。悪いようにはしないから安心しろよ」と厳しい顔から一転して、笑顔で言った。
「そうか、苦労して考えた甲斐があったよ」
「あ、そうそう。これ、今週の注文書だ」
健太は注文書を見て、驚いた。
「いいのか、こんなに!俺は助かるけど、無理はするなよ。仕事は仕事だからな」
「バーカ。そんなこと健太に言われなくても、わかってるよ。俺は谷川健太という人間を信用しているんだよ。信用がなくなったら、ビジネスは終わりだ。だから、言っとくぞ。大きなクレームは絶対だすなよ。小さいクレームなら俺がなんとか処理するが、大きくなると信用をなくすから。俺の方でも対処のしようがないんだ。これだけはメーカーの方にも言っといてくれよな」
「わかりました、古田課長。肝に銘じておきます。ハハハ・・・」
とふたりで大笑いした。
それから、ふたりは夏のライブのことについて話した。健太とヒロシの〝商談〟は、いつもこれにいきついてしまう。




