悲しき決意
一方、沙也夏も自分を自制できない気持を持て余していた。
今日沙也夏はたしかにライブを見に来ていた。だが、ひとりではなかった。一緒に来ていたのは結婚を約束している相手だった。ほんとうはひとりで見に来たかったのだが、相手がちょうど時間が空いたのでついて来たのだ。けれど相手の男性は、ライブよりも沙也夏と一緒にいることが嬉しかったようだ。ほとんどステージは見ていなかった。そういう態度に沙也夏はすこし腹がたっていた。すこしは聞いてほしかった。だから、沙也夏はその男性から話しかけられても無視した。
さすがにその男性も腹がたったのか、途中で帰ってしまった。だが、追う気にはなれなかった。
それよりも自分の気持ちがはっきりわかり始めていた。
〝自分はほんとうに結婚したいのだろうか。ただひとつはっきり言えることは、今一番惹かれている男性は今立ち去ったひとではなく目の前で歌ってるひとだ〟
ライブが終わって、沙也夏はそのまま帰ろうかと思ったが、健太に会わずに帰るのは失礼だと思ったし、何よりも健太と話したかった。それで思わず、健太を呼び出したわけだ。
ふたりともタクシーの中では黙りこくって、息苦しい空気が流れた。やがて目的地へ着いた。
健太はタクシーから降りると、ひとつの看板が外灯に照らされているのに気づいた。その看板は上に掛かっていたのではなく、下に置かれていた。健太は目を凝らしてその看板をよく見た。
〝須・・・藤・・・〟
そこまで読んで、健太はハッとした。
「沙也夏さん。ここはもしかしたらきみの・・・」
健太は思わず沙也夏に聞いた。
「もしかしなくても私の家。店は潰れてしまったけど。あんまりおんぼろなんでびっくりしたでしょ」
沙也夏は自嘲気味に言った。
「いや、そんなことは・・・」
「さあ。早く家に入って」
「それはまずいんじゃないの?だって夜も遅いし、家族の人に迷惑だよ」
「いいの。今夜は私ひとりなの」
「そりゃ、よけいまずいよ。女性ひとりの家に男が入るのは・・」
「今夜は健太さんとゆっくり話がしたいの。いつもは時間がとれなくて話せなかったし・・・。だからあがってほしいの」
今度は健太にすがるような目で沙也夏は言った。
そんな沙也夏を見て、どうしていいかわからなかった。だが、ここまで言われれば、男としては家に入らざるを得なかった。健太は覚悟をきめて(?)沙也夏の後をついて行った。
女性の部屋に入るのは健太は初めてではない。
圭子や純子の部屋には入ったことはあるが、それはふたりを変に意識してないからだ。さすがに、意識をしている女性の部屋に入るのは緊張の色を隠せなかった。
中に入ると女性の部屋にしては、殺風景だった。カーテンなども可愛いとは縁遠いもので、さっぱりしていた。それよりも、一番最初に目に飛び込んでくるのは一枚の絵だった。フォーミュラーカーが描かれていて、女性の部屋には似つかわしくなかった。さらに驚いたのは本棚の一番上に置いてある傷だらけのレーシング・ヘルメットだ。もう色が剥げていて、年代ものというのがわかる。
いくら鈍感の健太でも、このヘルメットを見ればさっき公園で沙也夏が言ってた意味がわかった。
〝沙也夏はレーサーとつきあっていたのか・・・おそらくこのヘルメットは形見だろう〟
そして当の沙也夏は別の部屋で、母の仏壇に手を合わせていた。
〝ママ。私のわがままを許してください。今からやろうとすることは世間的には許されないことでしょう。でも私は出逢ってしまったのです。谷川健太というひとと。もう一度だけ恋というのをしてみたい。あの体が焦げそうな想いをしてみたいのです〟
沙也夏は仏壇の扉を閉めると、キッチンの冷蔵庫からビールを取りだした。そしてそれを健太のいる自分の部屋へ持っていくのだった。
部屋のドアをノックする音がした。健太は傷だらけのヘルメットから目を離し返事をした。
「はい」
沙也夏がビールを持って、部屋に入ってきた。
「ごめんなさい。冷蔵庫にはビールしかなかったもんだから。もう飲みたくないでしょうけど」
「いや。いいよ。すこし喉も乾いてきたところだからね」
沙也夏は健太にバドワイザーを渡した。
それを受け取りながら健太は思った。
〝バドワイザーが一軒家に置いてあるなんて珍しい。ひとり住まいならいざしらず、ふつうならキリンからアサヒってところだ〟
沙也夏はそれに答えるかのように言った。
「好きだったのよね、これが。ビールといえばバドだった」
「あのヘルメットの持ち主だね」
「やっぱり目立つのね。あれが」
沙也夏は後を振り向き、見上げた。
「あれだけは捨てられないの。見ると思い出しちゃうけど。でも逆に忘れちゃいけないんだという思いもあるのよね」
「やっぱり、レース中の事故?」
「うん。私は事故の様子をモニターテレビを通して見たの。なんか現実じゃなくて、映画のワンシーンみたいだった」
「モニターテレビ?」
「ああそういえば話してなかったわね。実は私は十年前、家族と一緒にレーシング・チームにいたの。パパがメカニックをやっていたから」
そして沙也夏はその頃のことを健太に話した。健太はただただ驚くばかりだった。
〝沙也夏さんはどこか雰囲気が違うと思っていたけど、こういうことだったのか!みんなが高校生活を楽しんでいる時に、ヨーロッパのモーター・スポーツの世界にいたんだ。俺の十六から十八の頃は音楽とサーフィンに明け暮れていたっけ。でもこのひとはいきなり子供から大人になったんだなぁ。やはり思春期を取り巻く環境というのは、その人の一生を左右するのかもしれない〟
沙也夏の話は続いていた。健太は沙也夏の話からモータースポーツの世界というものが欲と駆け引きが渦巻いてるのを知った。沙也夏は時々、ビールを飲みながら話を続けた。健太は沙也夏の新たな一面を見る感じで、興味深かった。
「彼の名はエディといって、とても速かった。いえ、速すぎたのかもしれない。彼がクラッシュした次の瞬間、私は気を失ったらしいの。目を覚ましても私は彼が死んだとは思えなかった。でもあのヘルメットを見た瞬間、事実としてやっと受け入れたの。そして悲しみがやってきた。チームも解散、私たち家族は日本に帰るしかなかった。それからママが亡くなり、パパもすべてにやる気をなくしてしまったの」
健太はなんと言っていいのかわからなかった。こんな素晴らしい人にこんな過去があったとは。
「よく・・・立ち直ったね」
健太はそう言うのが精一杯だった。
「ごめん、ごめん。暗い話になっちゃって。でもね、レーシング・ドライバーというといつもレースのことしか考えてないように思われるけど、エディは違ってたの。たしかにレースが近づくとナーバスになっていたけど、彼には別の顔があったのよ。童話が好きだったの」
「童話って、あのおとぎ話の?」
「そうそう。おもしろいでしょ。一度、エデイと童話の発祥の地に行ったことがあったんだけど、その時の彼の顔は子供みたいだったわ。目が輝くって言葉はまさにそれね」
沙也夏は懐かしむように話している。健太はちょっぴりやきもちのような気持ちになった。
「あんな目で話す人は今までみたことがないわ。あなたに出逢うまではね」
「えっ?」
「健太さんの歌ってる姿、エディが童話を話す時の目にそっくり。遠くを見てる感じで、なにかに憑かれたように歌ってるもの。健太さんを見た時、ようやく出逢えたんだなと思ったの」
沙也夏はまたいつもの笑顔で言った。
健太は沙也夏がそんなふうに思ってくれていたことに、喜びを隠せなかった。
「遠くを見てると言われれば、そうかもしれない。ガキの頃からそうだったから」
「健太さんの少年時代って、どんなだったの?」
沙也夏は興味深そうに聞いた。
「まあ中学の頃に音楽とサーフィンに目覚めたんだ。一番サーフィンをやったのは高校で、クラブにも入らずに学校が終わるといつもビーチに行っていた。ウェットスーツ姿にボードを抱えてね。最初のうちは波しか目にはいらなかったけど、そのうち波にうまく乗れるようになると、いろんな景色が目にはいるようになった。海の色ってのはね、景色によって変わるんだよ。俺が一番好きなのは、やっぱり晴れた海。大きな海原が光に反射してきらきら光るんだ」
「今はやらないの?」
「もうやってない。里帰りしたらやるけどね。俺、鹿児島出身で吹上浜の近くが実家なんだ。あそこはサーフィンのメッカだから、いやでも覚えるってわけ。でも福岡に来てから、音楽に夢中になっちまってね」
「サーフィンより音楽がおもしろくなった?」
「と言うよりも、バンドがおもしろいと言ったほうがいいね。バンドの音がきれいに合った時の快感は涙がでちゃうほどだよ」
「健太さんがサーフィンしてるとこ見たかったな。もうすこし早くめぐり逢えればよかったのにね。そうすればサーフィンや音楽のこといっぱい教えてもらえたのに・・・」
沙也夏は健太を見ながらひとりごとのように言った。
「今からでも遅くないよ。こうやって逢えたんだから・・・」
「・・・そうね」
沙也夏は私には結婚を約束してる男性がいると心のなかで言った。ほんとうは言うべきだろうが、言いたくなかった。健太には隠せるだけ隠そうと思った。事実がわかれば、いくら健太でも怒るだろう。だがそれでもいいと思った。
一方、健太は沙也夏のすべてに見惚れていた。彼女の喋るしぐさやビールを飲むしぐさ、ちょっとしたことにも新鮮さを覚えた。そして彼女の過去。やはりふつうに生きてきた自分とは違うことに納得していた。
だが、このままこの部屋にいると一線を越えてしまう自分を戒めもするのだった。それが恋愛の自然の成り行きとわかっていても、健太にはできそうにもなかった。
健太はビールを飲み干すと、立ち上がった。
「帰るよ」
健太はポツリと言った。
「えっ、どうして?」
沙也夏はびっくりした様子で聞いた。
「今夜の沙也夏さんはおかしいよ。急に明るくなったり、沈んだりして・・・」
「・・・・・・」
なにかあったの?」
「ううん。なにもないわ。ただ、ライブを見て昔のことを思い出して感傷的になっているだけ」
沙也夏はまた嘘をついた。
「それよりも健太さん。あなた女心がわかってないのね」
「いくら鈍感な俺でもわかるよ、それぐらい。女が自分の家に男を招待してるんだから。でも今夜のきみは・・・」
「今夜の私は抱けない・・・そうでしょ?」
健太はその言葉を聞いた瞬間、頭の奥でシャッターをきる音が聞こえたような気がした。
そして、今夜は帰ってはいけないと思った。
健太はゆっくりと沙也夏に近づいた。ふたりの間に静かな時が流れた。その時を破るように、健太は言った。
「好きだ」
健太は唇を合わせた。
やさしいキスから熱いキスに変わっていき、健太は自分が自分じゃないような気がしていた。沙也夏も健太に応えた。ふたりは何度も何度も唇を重ね、ベッドに倒れこんだ。
健太の頭のなかは真っ白だった。なにがどうなってこうなったのかわからなかった。ただ本能のままに動いてる感じだった。
健太は沙也夏のTシャツに手をかけた。さすがに躊躇した。Tシャツに手はかけたものの、それ以上はいけなかった。本能と理性が相反しているようだった。Tシャツから手を外し、沙也夏から離れようとした。
「私とひとつになることが、そんなにいけない行為なの?」
沙也夏の言葉はやさしかったが、あきらかに健太を咎めていた。
健太と沙也夏はまっすぐに互いの目を見ていた。
その時健太の心に声がした。
〝思うとおりにやってみろ。形にとらわれるな。音楽と同じだ。自分を解き放つんだ。なんとかなるさ〟
その声はもうひとりの自分自身なのか、それともいつか読んだ本に書いてあったのを思いだしたのかわからない。ただ、健太はここまできた以上は引き返せないと思った。本能のままいくしかなかった。
健太と沙也夏は互いに体を預けながら、深い海に沈んでいった。




