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ワン・モア・ソング  作者: 杉本敬
19/41

初めての外泊

 目指す宿泊先は先ほど見学したヒル・トップ農場の裏手にあった。

沙也夏はこんな場所だから日本でいえば民宿風みたいな所と想像していたのだが、なんとパブだった。パブに宿泊施設があって、もちろん部屋数はそんなに多くなく、シングル三部屋しかない。タワー・バンク・アームズという名で、湖水地方の名物パブということだった。


 部屋は別々にとってあった。エディと沙也夏はチェック・インして、シャワーを浴び、夕食にはまだ早い時間だったのでひと眠りすることにした。

目を覚ますと、部屋の中が暗くなっていた。眠ったのは夕方だったので、スタンドも灯けていなかったせいだ。沙也夏は顔を洗い、服を着替えて、エディの部屋へ向かった。ノックすると、エディもきていたらしくすぐにでてきた。ふたりともさすがにお腹がへったので、パブで食事をすることにした。


 厚くて重い扉を入ると木製のカウンターとテーブルがあって、昔ながらの薪の暖炉が暖かい雰囲気をかもしだしていた。客は七割程で、にぎやかな感じだった。エディと沙也夏は一番奥のテーブルに座ることした。エディはメニューも見ずに、いきなり注文した。沙也夏は唖然として聞いていた。ただ、飲み物だけは沙也夏の希望を聞いた。エディはビールを、沙也夏はコーラを頼んだ。


「エディ、よく知ってるわね」

「なにが?」

「だってメニューも見ずに、よくそれだけの注文できるもんね!ここに来たことがあるの?」

「ああ。そりゃそうさ。俺はここから五キロぐらいのところで生まれたんだから」

「えっ!ここの出身なの!」


 沙也夏がびっくりしていると、飲み物がきたようだった。とりあえずふたりで乾杯した。

「ここにはよくばあちゃんと来てたんだ」

「おばあちゃん!」

沙也夏は思わず大声をだした。


「そんなに驚くなよ。まあだいたいの奴が不思議がるけどな。ばあちゃんは童話が好きで、よくここらへんに来てたんだ。特にさっき行ったヒル・トップ牧場は一番のお気にいりさ。で、いつも夕飯はこの店で食べて、泊まっていくんだよ。ビールが好きでね。特に黒ビールがね。典型的な英国人だな。俺もガキの頃、よく連れてきてもらったもんさ。もちろんビールは飲まないがね。だから俺は、ばあちゃん子なんだ」


「だから、あんなに童話のこと詳しいんだ。よく知ってるなあと思ったもん」

「いろんな童話を聞かされたよ。特にポターはすべて聞かされたと思う。この店も〝アヒルのジマイマのおはなし〟にカントリー・インとして登場するんだよ。だいたいここは1973年に環境保護協会が買い取り、1800年当時の姿に復元したものなんだ」

「ふうーん。詳しいんだね」


 沙也夏はエディの意外な一面を見た気がした。お互い子供の頃のことは話したことはなかったが、エディがこんなに童話好きとは思わなかった。そんな童話好きがいったんサーキットで走れば、誰よりも速くチェッカーを受けることしか考えていない。沙也夏はますますエディに惹かれていくのを感じた。


 テーブルにはどんどん料理が運ばれていた。ふたりとも、すごい勢いで食べ始めた。食べている間は話もせずに食べることに熱中した。

ここの料理はまさに豪快で、ボリュームがある。特にカンバーランド・ソーセージは初めて見る人はそのボリュームに驚くはずだ。だが、ふたりともさすがに若いだけあって、十品ほどのメニューをたいらげてしまった。エディはビールをジョッキで4杯ほど飲んでいた。


「いやぁ、久しぶりだな。こんなに食べて飲んだのは。すこしほろ酔い気分になっちまった」

エディは気持ちよさそうに言った。

「あんまり飲みすぎないでよ。明日もあるんだから。でも、今日はエディの違った面を見た気がするわ。ほんとに童話好きなんだね」

「うん。好きだな。童話っていうのは非現実とばかり思われているけど、けっこう現実的な面もあるんだ」

「たとえば?」

「どんな童話にも教訓みたいのがあって、それを非現実的な世界で読者にわかってもらうってのがあるんだ。だから俺は子供の頃は童話を読むべきだと思うね」


「けっこうインテリなんだね、エディって。それがどうしてレースに夢中になってるの?」

「兄貴の影響さ」

「お兄さんもレーシング・ドライバーだったの?」

「ああ。もっともF3000どころか国内の三流レースどまりだったけどな。そして、俺の前から永遠に姿を消しちまった。事故死だった。自分の限界も知らずに、未知の世界へ飛び込んでいった。要するに実力がなかったのさ。俺はそれまでレースにはこれっぽっちの興味もなかった。だが、しばらくして兄貴が生きていた世界がどんなものか知りたくなった。そして兄貴の親友だった人からサーキットに連れて行ってもらい、パドックも見学させてもらった。国内レースのチームだったけど、見てびっくりしたね。怒鳴り声は響いているし、人が頻繁に動いている。それとなによりオイルの匂いとエンジンの爆音が強烈だった。あれは一目惚れだったな」


「一目惚れ?」

「俺はあの時レースに一目惚れしたんだよ。だからスピードに憧れてレーサーになったわけじゃないんだ。あのパドックの雰囲気が気に入っちまったんだよ。だけどメカニックになろうとは思わなかった。兄貴を死に追い込んだ未知の領域を体験したかった。これが俺がレースをやり始めたきっかけさ」


 それからエディは自分がレースを始めた頃のことを話し始めた。沙也夏はレースの話をしている時のエディの顔が好きだ。まるでサーキットにいるような錯覚さえ感じさせてくれる。そして最後はいつもこう言う。

「俺の夢はアイルトン・セナとバトルすることだ」

沙也夏はエディに惹かれていく自分をはっきりと認めていた。


 ついつい、店に長居をしてしまったようで時計の針が十時をまわっていた。ふたりとも部屋に戻ることにした。沙也夏は部屋に戻ると、湯ぶねにつかりたくなり、バスに湯を満した。こういう時はやはり日本人だなぁと思う。シャワーだけでは物足りなく感じてしまう。


 沙也夏はホテル泊りをレース移動中に何回も経験してるので、すっかりホテル生活というものが慣れっこになってしまった。風呂に入る時、いつも自分の下着は自分で洗濯をする。モーター・ハウスにいる時でも、それは同じだ。とにかく、自分のことは自分でする。今では簡単な料理なら作れるようにもなっていたし、スタッフやドライバーの分も、亜紀やメアリーと一緒に作っていた。


 日本でふつうに高校生活していれば、ほとんど親に頼っていただろう。これはべつに光太郎や亜紀から言われて、やり始めたわけではない。せざる得ないのだ。光太郎はマシンの整備のことで頭がいっぱいだし、亜紀はスタッフの世話で忙しい。沙也夏も、そんなふたりを見てるうちに自然にやり始めたわけだ。


 沙也夏は髪を整えると、どうしようかと考えた。

〝そうだ。今夜は私とエディの記念日にするんだった。でも、エディも疲れているだろうしな・・・いけない、いけない。今夜こそエディにはっきりさせてもらわなくては・・・〟

そう思うと、だんだんと胸の鼓動が高鳴る感じがしていた。するといきなり電話のベルが鳴った。沙也夏は心臓が飛び出さんばかりに驚いた。受話器をとると、聞き慣れた声がした。エディだった。


「あ、俺だ。まだ寝る時間には早いし・・・そっちに行ってもいいかな・・・」

さすがのエディも遠慮しながら言った。

「うん。いいわよ!」

沙也夏の方は大歓迎といった感じだ。

エディは一分もしないうちに、沙也夏の部屋をノックした。スウェット・スーツで片手にバドワイザーを持っていた。


「やあ」

そう言うと、エディは照れたように笑った。

「なにしてるの。早く入ってきなさいよ」

「そうは言ってもなぁ。女性の部屋にはなかなか入りにくい」

「自分が来たいって言ったんでしょ」

沙也夏から言われると、エディはおずおずと入ってきた。部屋がシングルなので、あまり座るスペースがなかった。エディは床に腰を落とした。沙也夏はベッドに座っていた。


「シャワー浴びたのか?髪がさっきと違うみたいだ」

エディは沙也夏の顔を見ながら言った。

「ううん。お風呂に入ったの。」

「日本人は風呂好きだなぁ。俺はそこだけは理解できない」

「民俗性の違いよ。環境が違ってくれば、慣習も違うわ」

「サヤカ、ずいぶん変わったな。初めて逢った時はお嬢さんといった感じだったけど、今じゃ大人びて見えるよ」

「なに言ってんのよ。それよりシャワーでも浴びてきたら?シャワーの後のビールはうまいわよ」

「ふん。ビールも飲んだこともないくせによく言うぜ。でもそのとおりだ。じゃ、ちょっと浴びてくるか」

そういうと、エディは立ち上がってバスルームへ向かった。


 沙也夏はエディが持ってきたバドワイザーを冷蔵庫に入れると、あることを始めた。まず、ベッドのしわをきれいにし、着ているスウェット・スーツを脱ぎ、下着だけになった。そして、部屋の電気を消してスタンドを灯けて、べッドに入りブランケットにくるまった。


 沙也夏は大胆な方法で、エディに自分の気持を伝えようとしていた。これで、沙也夏の気持がわからなければ、エディは世界一の鈍感者だ。ご丁寧にも、沙也夏は脱いだスウェット・スーツを目につきそうなところに置いていた。


 エディは五分ぐらいでバスルームから出てきた。薄暗い部屋でエディの声がした。

「サヤカ。なんだよ、電気も灯けないで。どこだよ?」

「ここよ」

沙也夏は静かに言った。

エディがベットの方へ近づいてきた。沙也夏とエディは互いに目を合わせた。しばしの沈黙があった。

「こんなとき、なにか言わなくちゃいけないんだろうな」

「なにも言わなくていい。ただ、ベッドに入ってきて」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 エディはバスタオルを放り投げると、ベッドに腰掛けた。沙也夏と見つめ合ったまま、やさしく髪の毛に触れた。そして、ポツリと言った。

「あんまり背伸びするなよ」

「背伸びなんかしてない。自分の気持に正直なだけ」

「そうか・・・でも、サヤカ。俺は君を大切にしたい。俺の夢はF1だ。大切な人とひとつになるのは、その夢が叶った時と俺は決めている。だから今夜はこれで許してくれ」


 そう言うと、エディは沙也夏の顔に手で触れ、そっと唇を重ねた。

そして、おやすみと言うとベットから静かに離れ、自分の部屋へ戻って行った。

沙也夏にとってファースト・キスだった。沙也夏の目的(?)は果たせなかったが、それ以上に喜びがあった。それは自分のことを大切な人と言ってくれたことだ。自分を大切にしてくれる人がいるということは、こんなにも感動するものかとこの時身にしみて感じたのだった。


 そして翌日。

さすがに沙也夏はエディと顔を合わせにくかった。そりゃそうだろう。あんな大胆な行動をとったのだから。エディとて同様である。だが、そこはふたりともあまりクヨクヨ考え込む質じゃない。

沙也夏は冷蔵庫から昨夜エディが忘れていったバドワイザーを取ると、ニヤリとして部屋を出てエディの部屋をノックした。バドワイザーはよく冷えていた。


 出てきたエディの顔は眠たそうだった。

「おはよう。これ忘れ物よ」

沙也夏はそう言って、バドワイザーを差し出した。

「おっ、そうか。サンキュー。車のクーラー・ボックスに入れて帰りの電車で頂くとしよう」

エディは笑顔で言った。バドワイザーがふたりの気持ちを和らげてくれた。


 それから、ふたりは軽く朝食をとり、九時ごろにはタワー・バンク・アームズを出発した。

二日目はグラスミアで午前中過ごし、午後は帰途につくことにした。あまりゆっくりしていると、夕方までにロンドンに着けなくなってしまう。


 グラスミアはロマン派の詩人ワーズワースがこよなく愛した景色を満喫できるスポットだ。のどかな牧草地やアヒルが遊ぶ湖畔などあり、典型的な湖水の風景が静かにたたずんでいる。

また、ワーズワースが九年間過ごしたダブ・コテージや彼が眠るセント・オスワルド教会もあり、ゆっくりと散策したいコースだ。


 沙也夏とエディはグラスミアを時間をかけてゆっくりと歩くことにした。エディは歩きながら、今度はワーズワースのことについて沙也夏にあれこれ話した。沙也夏もエディも昨日までと違ったなにかを感じていた。昨夜のことがきっかけになっていることはまちがいなかったが、それよりも自分の気持に正直になったことにお互いが満足していた。


 午前中をグラスミアでゆっくりと過ごしたあと、車でウィンダミア駅に向かった。さすがに沙也夏は疲れたのか、いつのまにか寝入っていた。これが列車に乗ると本格的に眠りになった。もちろんエディも同様だったことはいうまでもない。


 午後五時頃、ロンドン・ユーストン駅に着いた。沙也夏は駅に着くすこし前に目を覚ましたが、エディは最後まで眠っていた。列車を降り、駅に足を踏み入れると、沙也夏は両親の顔が浮かびうっとうしい気分になったが、エディの寝呆けた顔を見ると不思議と元気がでた。

そして思うのだった。エディとグランプリで生きていこうと。

沙也夏は十年たった今でも、この時の気持はけっして忘れることはない。






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