湖水地方
沙也夏の予感は当たった。二年目のシーズン、チームは序盤戦は欠場し、第6戦から出場した。H社のエンジンがきたのが2月で、それからのマシンの改良でとても間に合うはずがなかった。
だが、それでも第六戦から出場できたのは、スタッフ全員の協力があったためだろう。とくに、ミッシェルが連れてきたカー・デザイナーの力が大きかった。
さすがに、ミッシェルとエディの移籍はモーター・スポーツ関係者を驚かせ、一番の話題になった。また、ライバル・チームも前年度とドライバーをがらりと変えて、活気が溢れていた。
第6戦から出走はしたが、まだまだエンジンの調子もいまいちで10位どまりだった。それでも、ミッシェルやエディが光太郎たちメカニックと一緒になって、マシンをエンジンに合わせて、改良を続けた。
さすがに最初のうちはエディとトニーは仲が悪かったが、そこはレース好きのふたりだ。沙也夏の仲介もあって、いつのまにかいいコンビになっていた。
そして、後半戦の残り5戦でH社のエンジンはそのパワーを見せつけた。残り5戦、ミッシェルはすべて優勝、エディも5位内に入る健闘を見せた。エディは相変わらずハードな走りをしたが、すこしずつ変化が見え始めていた。エンジンやタイヤの調子を見ながら走るようになっていたのだ。エディにも、冷静さが身についてきていた。
沙也夏はあのクリスマス・イブ以来、エディとサーキット以外の所でも話すようになっていた。とくに二年目のオフの時、エディとドライブした時のことは忘れられない思い出になった。
十一月中旬、エディは沙也夏にイギリスで一番美しい場所へ行こうと言い出した。
そして一週間後の明け方。一番列車に乗り出発した。ロンドン・ユーストン駅からオクスホルムまで約3時間30分。そこからローカル線に乗り換えて、約20分後にウィンダミア駅に到着。ウィンダミアの街並はとてもおだやかだ。まるで、おとぎばなしの国の入口のようでもある。それもそのはずだ。沙也夏とエディが行こうとしているのはあのピーター・ラビットのふるさとなのだから。そのウィンダミアからは車で移動することにした。エディはあらかじめ車を友人から借りるようにしていたらしく、その友人は車とともにウィンダミア駅で待機していた。
そして、車をしばらく走らせると、雄大な自然が見えてくる。静かにたたずむ山や渓谷に、無数の小さな湖が姿を見せる。谷間にはのどかな牧草地や石積みの家が見え隠れする。
沙也夏は思わず声をあげた。
「すご~い!きれいね。ヨーロッパはやっぱりスケールが違う」
エディは車を路肩に寄せて、窓を開けた。
「やっぱ、ここは空気が違うなぁ。サヤカ、日本にはここみたいな所はないだろ?」
「あ、それって日本をバカにしてるわけ?ちゃ~んとあります。北海道って所がね。ここみたいに大自然がいっぱいで、冬には雪祭りってのが有名なの」
「ホッカイ・・・?」
「ホ・ッ・カ・イ・ド・ーよ」
「うーん。知らないなぁ。俺って日本はトオキョーしか知らないんだよな」
「もっと日本のことも勉強してよ。北海道はね、ものすごーく寒い所なの。だけど夏は、日本で一番過ごしやすい所よ。私の住んでた福岡とじゃ、風が違うの。ほんとに爽やかっていうイメージなの」
「風か。その点はここと共通点があるな。ここは湖畔のそばにたたずんでいると、風が気持ちいいんだよな」
「ねえ、エディ。さっきから聞こうと思ってたんだけど、ここはなんて所?」
「ハハハ・・・。わりい、わりい。先に言っとくべきだったな。ここは湖水地方といって、このあたりは大自然という感じだけど、もうすこし先に行くとピーターラビットのふるさとがあるんだ」
「ピーターラビット!行こう、行こう。早く行こうよ」
とたんに沙也夏ははしゃぎだした。
「まったく、女っていうのはなんでこうピーターラビットが好きなのかな」
エディはぼやきながらも、顔は笑っていた。
そして、セレクター・レヴァーをドライブに入れて、再び車を走らせた。
30分ばかり車を走らせると農場が見えてきた。
「あそこがヒル・トップ牧場だ」
エデイはそう言うと、農場のだいぶん手前に車を停めた。
「農場の前は車でいっぱいだろうから、ここからは歩いていこう」
エディと沙也夏は心地よい風を受けながら、歩きはじめた。
「サヤカ、この農場はピーターラビットの生みの親、ベアトリクス・ポターのアトリエだったとこだ」
「じゃ、ここでピーターラビットは生まれたの?」
「いや、そうじゃないんだ。〝ピーターラビットのおはなし〟で得たお金で、最初に購入した土地らしいんだ」
「なんか夢のない話ね」
「そうでもないぜ。まあ中に入ってみよう」
中に入り、旧居と花々に囲まれた庭を見て沙也夏は感動した。まるで別世界に迷い込んだようだった。
「サヤカ、この庭に見覚えないかい?」
エディが聞いた。
「見たような感じはするけど、よくわからない」
「おかしいなぁ。ピーターラビットが好きなら、すぐわかるはずなんだけどな」
エディは不思議そうだった。
沙也夏は苦笑いしながら言った。
「エディ。実は私、ピーターラビットは名前は知っているけど、本は読んだことがないの」
「はぁ・・・?よくそれであんなにはしゃいでたな?」
エディは呆れているようだった。
それからエディは、ここの庭はポターの童話でてくる風景そのものであることを説明し、〝ピーターラビットのおはなし〟もかいつまんで解説した。
沙也夏はエディの話を聞きながら、目は庭の花に釘づけだった。
一時間ほどヒル・トップ農場で過ごし、ポートホール・イーティグ・ハウスというレストランで遅い昼食をとった。ここでは、オーナーお薦めのラザーニヤ・ランチを食べて一息ついた。
時計の針は3時をまわっていた。
エディにしては珍しく、遠慮気味に言った。
「どうする?帰るか?」
「えっ、もう!まだ来たばかりじゃないの。もっといたいなぁ」
「だけど今から帰らないと、今夜中にロンドンに着けないぜ」
「いいわよ。今夜着かなくても」
「えっ?」
エディは戸惑っている様子だった。反対に沙也夏はニッコリ微笑んだ。沙也夏はドライブに来る前から、外泊することにしていた。
エディとつきあいだして、ほぼ一年になる。つきあいだしたといっても、まだ恋人ではない。いわゆる友達以上恋人未満というやつだ。沙也夏はそろそろ答をだしてもいい時期だと思っていた。
〝エディったら、一年もたつのに手も握ってくれない。欧米人というのは恋愛に関してはもっと進歩的だと思ってたのに〟
「エディ。今夜は私たちの記念日にしましょ」
「記念日・・・?ということは泊まるってことか・・・」
「レディにそこまで言わせる気?」
形勢逆転だった。完全に主導権は沙也夏に移っていた。
話はまとまり(!)、さてこれからどうしようかということになった。ここらへんの観光地はだいだいが5時か6時迄だ。今から行ってもあまり見る時間がない。エディからそのことを聞くと、沙也夏は思いついたように言った。
「湖畔に行かない?さっき風が気持ちいいって言ってたじゃない」
「よし。そりゃいい考えだ。そうしよう」
エディも腹を決めたようだ。
車をUターンさせ、エスウェイト湖へ向かうことにした。湖の近くには車を停められないので、道端に車を置き、歩くことにした。やがて湖に着き、ふたりは湖のほとりの芝生に腰を降ろした。
湖は澄みきったブルーで、反対側のほうには牧場らしきものがあって牛が牧草を食べていた。
湖畔の風はすこし肌寒かったが、いいにおいがした。
「ほんと。気持ちいい。湖畔の風っていろんな香りを運んでくるのね」
沙也夏はほんとうに気持ちよさそうだ。
「ここもポターの〝カエルのジェレミーフィッシャー〟の舞台になった所なんだ」
エディはそう言うと、また童話のことを話し始めた。沙也夏は風を感じながら、エディの話を聞いた。しばらく話すとふたりとも黙ってしまった。沙也夏は風の香りを楽しんで、じっとしていた。ふとエディを見ると、いつのまにか寝入っていた。その寝顔を見ながら沙也夏は思った。
〝レースの時はすごい形相で走るのに、寝顔はかわいい。きっと心は純粋なんだろうな。だから、あんなにレースに集中できるのかもしれない〟
沙也夏は今年で18になるが、同じ18でも大人びていた。ヨーロッパという環境でモーター・スポーツの世界を肌で感じ取っていたことがそうさせたのかもしれなかった。
沙也夏は湖畔のまわりの景色をおだやかな気持で見ていた。どれくらいたっただろうか。いつのまにか湖畔の水面が夕陽に染まり始めていた。ふと沙也夏は幼い頃に川辺で見た夕焼けを思い出し、つぶやくように歌った。
「夕やーけ小やーけの赤とーんぼ・・・」
歌い終わると、エディが目を覚ましたようだった。
「それ、日本の童謡だろう?」
「あ、目が覚めたのね。そうよ、よく知ってるわね。聞いたことがあるの?」
「いや、ないよ。童謡はどこの国でも似てるしな。聞いてると、なんか懐かしい気持になるんだ」
そう言うと、エディは体を起こして、腕を伸ばしすこし屈伸運動をした。
「そろそろ、行こうか」
「これからどうするの?」
「泊まるとこ探さなきゃ」
「エディ。探さなきゃじゃなくて、もう探してるんでしょ?さあ、早くシャワーを浴びに行きましょ」
「まいったな、サヤカには。全部お見通しってことか」
「レーシング・ドライバーが人の心が読めるように、私もエディの考えることがわかってきたっていうこと」
エディと沙也夏は立ち上がり、車を停めている所に向かった。




