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ワン・モア・ソング  作者: 杉本敬
13/41

F3000へ

沙也夏がいつものように、学校から帰ってきて玄関を開け、ただいまと言おうとした時、家の中から笑い声が聞こえてきた。聞きおぼえのある声だった。


〝あれっ、パパとママやけに機嫌がよさそう・・・ん?でもふたりだけじゃなさそうね。誰だっけ?あの声は・・・小田さんだ。まさか、小田さん!私が話したことを間にうけてパパたちに話してるんゃ・・・〟

沙也夏が小田さんに〝あの事〟を話して、十日たっていた。

〝まずい!これはパパの雷がおちるな。沙也夏!よけいな事を話すんじゃない!ってことを言われるなぁ〟


 沙也夏は入ってきた玄関口の方へUターンしようと思った時、亜紀の明るい声が聞こえていた。

「沙也夏、帰ったの?帰ったんなら、こっちへいらっしゃい」

亜紀の明るい声が、悪魔の声に聞こえた。沙也夏は観念して、応接間へ重い足どりで向かった。応接間へ入ると、光太郎と亜紀と小田さんの笑顔があった。


〝この笑顔はいったいなんなの?いや、安心してはいけない。嵐の前のなんとかってこともあるわ〟

沙也夏は怒られるのなら、早く怒られてしまいたかった。

「沙也夏ちゃん、ヨーロッパへ行けるぜ」と小田さん。

「いゃぁ、沙也夏。おまえのおかげだよ。ありがとうな」と光太郎まで言う。

沙也夏はポカンとして、なにがなんだかわからなかった。

「沙也夏。なにをボーっとしてるの。あんなに行きたがっていたヨーロッパに行けるのよ」と亜紀までが言う。


 沙也夏はなにがどうなって、こういうことを言われるのかわからなかった。それはそうである。光太郎も亜紀も10日前までは曇った顔はあっても、笑顔はなかったのだから。

「ハハハ・・・。奥さん、そりゃ無理ないよ。十日前まではヨーロッパなんて夢の夢だったんだから。それが今ヨーロッパに行けるなんて言われても信じられないよな、沙也夏ちゃん。実はな、沙也夏ちゃんの話を聞いて、このチャンスをなんとか実現できないかなと思ったんだ。それで、まえに俺の先輩が親父さんのようなショップをやりたいって話していたのを思い出したんだ。ほら、沙也夏ちゃんも見たことがあるだろう。髭面の顔で・・・」


 沙也夏は小田さんの話を聞きながら、記憶の糸をたぐった。

「ああ、あの人。たしか小田さんと一緒に来てゴーグルをはめていたわ。そうそう!356スピード・スターに乗ってた人ね!」

「沙也夏ちゃんも、だんだんポルシェ・フリークになってきたな。そう、あの人だよ。その先輩に話してみたんだ。親父さんが留守の間、やってみませんかって。そしたら、ふたつ返事でやるって言うんだよ。もちろん、先輩はメカニックじゃないんだ。メカニックはミツワから引き抜くらしいけど」

ミツワとはポルシェの正規日本総代理店だ。だからメカニックはちゃんとメカニカル・トレーニングを受けている。


 小田さんの話はさらに続いた。

「要するに先輩がショップの経営面は見て、メカニカルなことなんかはその引き抜いてくる人にまかせるらしいんだよ。言っとくが、あの先輩はチューニング・ショップで今も働いて、チューニング・ショップ経営のイロハは知っている人だからね。店を潰すなんてことはないから。俺が保証人になってもいいよ。それに親父さんに一からポルシェのことをたたき込まれた社員もいるからね。俺はまかせてもいいんじゃないかと思っている」


 ここまで聞いて、やっと沙也夏は飲み込めてきた。

〝つまり、私たちがF3000に行ってる間、留守を小田さんの先輩なる人がやるわけね。でも、その後はどうなるんだろう。帰って来た時はショップをちゃんと返してくれるんだろうか〟

沙也夏は子供心に心配だった。それを見透かしたように、小田さんが言った。


「もちろん、沙也夏ちゃんたちが何年後かわからないけど、帰ってきた時はちゃんとショップは明け渡す。先輩が言うんだよ。半年でもポルシェを扱えるのは幸せだってね。そしてショップを明け渡した後は、自分で店をもちたいらしい」

「小田君がここまで言ってくれるのならまかせてみようかと思う。その留守を守ってくれる人にも夢があるようだし、その夢の手助けになるなら言うことなしだ。父さんの夢も叶う・・・」


 沙也夏は胸がジーンとしてきた。

〝パパの口から初めて夢という言葉を聞いた。パパの目が輝いている・・・〟

「パパ。わかったわ。でも、パパは基さんを信用してるの?私もモータースポーツが好きだから、レース活動がどれほど大変かわかるわ。華やかなレースの裏にはどろどろした欲が渦巻いているのも知ってる。基さんはそれを乗り越えていけるのかしら。なんか手放しでは喜べないな・・・」


小田さんが〝ほう〟というような顔をした。

「沙也夏、大人になったな。私はおまえが一も二もなく喜ぶと思ってた。娘にそこまで心配してもらえるとは、親として幸せだよ。たしかに沙也夏の心配もわかる。私もそのことは十分に考えた。実はな、私は手紙がきてから基さんと何度も会った。小田君の先輩ともな。ショップを預かってもらう人だ、実際に話さんとな。基さんとは洗いざらい話したよ。私も長年客商売やってきた。人を見る目はあるつもりだ。基さんは言ったよ。マシンのことだけを考えてほしい。チーム運営は自分が全部かぶる。そして一緒にワールド・チャンピオンをめざそうとね。私は基さんとやっていきたい。沙也夏、夢を実現するためには泥をかぶらなくちゃいけないこともあるんだよ」


 光太郎は微笑みながら話していたが、目だけは真剣だった。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

沙也夏は言葉がでなかった。

〝パパはもう決めてるんだな。なにもかも覚悟のうえやるつもりなのね〟


 しばしの沈黙があった。光太郎も亜紀も小田さんも沙也夏の言葉を待っているようだった。

沙也夏はようやく声をしぼりだすようにして話した。

「パパ・・・そこまでパパが言うなら、もうなにも言わない。私、パパとママを信じてついていく。さぁ、英会話の勉強もしないといけなくなっちゃった」


 それからというもの、沙也夏は英会話のスクールに通いだした。もちろん学校に行きながらの夜間スクールである。やがて、中学三年になってもそのペースは変わらなかった。クラスメイトが受験勉強に必死になっている時、沙也夏は英会話に必死だった。頭には英会話とヨーロッパの景色しかなかったのだ。


 ショップのほうは小田さんの先輩なる人に一年がかりで引継ぎをして、光太郎は基和義と綿密な打ち合せをしていた。亜紀は亜紀ですこしは英語も喋れないといけないと思ったか知らないが、沙也夏にすこしずつ英会話を習っていた。


 そして、いよいよF3000に参戦する日が近づいてきた。

出発する日は沙也夏の卒業式の翌日と決まった。卒業式の日、ささやかな送別会が行なわれた。

沙也夏の中学卒業と須藤家の新たな出発を祝って、小田さんとその先輩が集ってくれた。基和義は先にヨーロッパに行っていた。

沙也夏はその頃のことを今でもはっきりと憶えている。

 

 





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