憧れ
いいことというのは起る時には続くもので、それからというものはとんとん拍子に進んでいった。
959を蘇生させたという噂はいつのまにか広がり、福岡はもちろん全国に知れ渡るのに、そう時間はかからなかった。全国のポルシェ・フリークから問い合わせがひっきりなしだった。
須藤モータースは、次第にポルシェのチューニング・ショップになっていった。特に911が多く、中には伝説の名車356スピード・スターなどもあった。
そして、チューニング・ショップとして軌道にのりかかった時、一通の手紙が届いた。基和義からのものだった。あれから2年の月日が過ぎていた。
手紙を手にして、光太郎は震えていた。読み終えると、ぽつりと言った。
「F3000に来てほしいそうだ・・・」
沙也夏も亜紀もなんのことかわからなかった。
光太郎は手紙の内容を要約して話し始めた。
手紙には959のお礼が前書きしてあり、自分は今度F3000のチームを買収した。それでチーム・スタッフを今集めていて、光太郎にもぜひ一緒に戦ってほしいということだった。チーム・メカニックとして・・・・。
さすがに今度ばかりは、亜紀も賛成というわけにはいかないようだった。
理由はいくつかあったが、最大の問題は沙也夏の進学とショップをどうするかということだった。はじめF3000と聞き、国内レースと思っていたのだが、なんとヨーロッパを転戦するという話だった。そうなると、ショップも閉めなければならないし、まさか沙也夏をひとりにするわけにもいかない。
いくら考えても、結論は目に見えていた。光太郎と亜紀は何度も話しあって、結局断ろうということになった。が、沙也夏は正反対のことを考えていた。
その頃、沙也夏は高校進学に疑問をもち始めていた。高校に行くと自分にプラスになるのだろうかと。高校に行って、中学の頃のように机で勉強して、友達をつくって、恋愛する。そして、大学に行くためにまた必死で受験勉強をする。なにか、もっと自分らしいなにかがあるのではないかと思えてきたのだった。結局のところ沙也夏は、人となにか違うことをやりたかった。
これは両親の影響が大きかった。亜紀から聞かされた話のなかで印象深く心に残っていることがある。
亜紀はこう言った。
「人間というものは夢をもってることが大切よ。目標にむかって、なにかやってる人間とやってない人間は人生が全然違うの。だからといって、目標をもってやってる人が夢を叶えられるかというと、それは違うのよ。おそらく、ほとんどの人が夢破れるでしょう。だけど、その人は満足感というのがあるはずよ。自分はこれだけやっったんだ、精一杯やったんだというね。父さんも若い頃、夢多き青年だったの。でも、ある事情で志半ばで夢破れたのよ。でも、ずっと夢を信じつづけてきたから、こういうチャンスが訪れたと思うの。まあ、前までは夢というものは男に限定される言葉だったけど、これからは違うわよ。女も夢をもつべきよ。自分なりの目標をもって、それに向って生きていく。母さんが沙也夏の年齢だったら、そんなふうに生きるでしょうね。だから沙也夏も早く目標をみつけることね」
そんなことを考えている頃に、そのF3000の話が舞い込んできた。沙也夏が一番興味深かったのは、ヨーロッパに行けるということだった。ヨーロッパ!そう思うだけで、沙也夏は心が熱くなるのだ。夢をみつけるためにも、自分はヨーロッパに行くべきだ。ヨーロッパには自分の知らない、なにかがあるはずだ。そういう気持が日に日に強くなっていった。
光太郎と亜紀がF3000のことを断ろうという結論に達した頃に、沙也夏は思いきって亜紀に言った。
「私、ヨーロッパに行きたい!ヨーロッパに行って、いろんなことを体験してみたい」
当然、亜紀は最初は相手にしなかった。だが、沙也夏はあきらめなかった。自分の日頃思ってることを、亜紀に正直に話した。そして、自分が亜紀から聞かされた話を今度は自分から亜紀に話した。
それを聞いて、亜紀は内心苦笑した。
〝あの頃は夫の夢が叶い、ついつい嬉しくて話してしまった。だけど言葉に嘘はなかった。今でも夢をもつことは必要と思っている。だけど、この娘がここまで受けとめてるとは思いもよらなかった。でもその夢をみつけるためにヨーロッパに行きたいなんて・・・・大胆なことよねぇ。やっぱり時代の差かしら。けれど、この娘は小さい頃からヨーロッパに興味を抱いていたっけ・・・〟
沙也夏は絵からヨーロッパを知った。沙也夏は絵を見ることが好きで、特に風景画が好きだった。その風景画からヨーロッパの街並に惹かれていったのだった。それと、もうひとつ夢中になったのがモーター・スポーツ。
二輪でも四輪でもよかった。家がこういう家業だったので、その情報というのはすぐ目と耳にとびこんできた。それは客の口コミやショップで流しているデモ用のビデオなどだ。
だから沙也夏は学校では特異な存在だった。テレビのアニメやドラマの話題にはついていけず友達も少なかった。だが、これがレースのことになると詳しかった。どこどこのサーキットはテクニカル・コースだからたぶんこのチームが勝つだろうなどとショップの客と話していた。
沙也夏が一番好きなサーキットはモナコだ。
F1モナコ・グランプリ。世界でも最も美しく、苛酷なサーキットだ。
グランプリの時だけ公道はサーキットに変身し、まわりは美しい街並と海に佇むクルーザーが色を添える。公道を利用しているサーキットだけに、パッシング・ポイントがほとんどない。見る人によっては、バトルが少ないので一番おもしろくないサーキットともいわれる。
けれど沙也夏はモナコが好きだ。晴れた時のレースにフォーミュラー・カーが太陽の光に反射して、美しい街並を走る姿は美しい。いつか、自分でモナコの街を車で走ってみたいと沙也夏は思っている。
そんな沙也夏を亜紀は肌で感じとっていたので、無理もないと思っていた。
〝この娘は遅かれ早かれ、いつかヨーロッパへ行くだろう。へんに大人になって行くよりも、いまの純粋な気持ちで行かした方がいいのかもしれない。それに今だったら、家族で行けるし・・・〟
亜紀は沙也夏の今の気持ちを大事にしようと思った。だからといってすぐヨーロッパに行くわけにはいかなかった。もうひとつの大きな問題があった。ショップをどうするかだ。それにレース活動で生活していけるかどうか・・・。
だが、これも沙也夏のなにげない一言が解決の糸口を見つけてくれた。
それはショップ内でのことだった。その日、沙也夏はF1のビデオを見ていた。
アイルトン・セナが相変わらず速くて、とても他のドライバーは追いつけそうになかった。
「なんでセナってこんなに速いのかなあ。やっぱ、ドライビィング・テクニックが違うのかしら」
「そう。特にコーナーリングがね」
いつのまにか客が入ってきていた。その人は小田さんといって、やはりポルシェ・フリークだった。
「あれっ、小田さん。いつ入ってきたの?気がつかなかった」
「つい、さっきさ。客が入ってきたのもわからないようじゃ留守番にならないぜ、沙也夏ちゃん」
沙也夏はペロッと舌を出して言った。
「まあ、そんなに言わないでよ。ところで小田さん、コーナーリングが違うってどういうこと?」
「セナはね、コーナーを攻める時ステアリングを一回しかき切らないんだ。他のドライバーは2回、3回と切るからそこでコンマ何秒かの差がでてくる。その差がだんだん累積されていくんだよ。つまり、セナはステアリングを切る時は一瞬のひらめきがあるように思うんだ。それは実戦で鍛えられたものなんだと思う」
「ふ~ん。セナって天才って思ってたけど、努力の人でもあったのね」
「今のF1ドライバーではセナに勝てるのはいないだろうな。F3000からイキのいい奴でもでてこないかなぁ」
「F3000って、そんなにすごいの?」
「そりゃそうだよ。F3000は言ってみれば、F1ドライバーになるためのラスト・ステップみたいなもんだからね」
「それじゃね、小田さん。もし、そのF3000のチームのメカニックになることもすごいの?」
沙也夏はすこし興奮して尋ねた。
「もちろん。メカニックとしては最高の舞台だよ。ヨーロッパのサーキットを転戦するから、サーキットによってマシンをチューンしなくちゃいけない。ヨーロッパのサーキットはちゃんとしたサーキットばかりじゃないんだ。なかには高地みたいな所にあって、空気がとっても薄いんだ。もちろんマシンにも影響してくる。そこでメカニックの腕が試されるんだよ。場合によって優秀なメカニックはドライバーがF1チームにひっぱられるように、メカニックも引き抜かれる時もあるんだよ」
小田さんは話しながら、熱くなっていっているようだった。
沙也夏は話を聞き終わると、ぽつりとひとりごとのように言った。
「パパはすごいところから誘われているんだなぁ・・・」
小田さんは沙也夏の言葉を聞き逃さなかった。
「さ、沙也夏ちゃん。誘われてるって・・・?」
「うん。パパね、F3000のチームから誘われててるみたいなの」
「・・・・・・・・・・・・・・!」
小田さんは言葉がないようだった。
「ほんとか、それ!」
小田さんは大声だして、いまにも沙也夏につかみかかりそうな勢いだった。
「びっくりするじゃない、もう。でも、断るつもりなんだ」
「断る?そりゃ、いかん。絶対いかんぞぉ!さ、沙也夏ちゃん、くわしく話してくれないか?」
沙也夏は光太郎と亜紀が話していたことを自分が知っている限り話した。
小田さんは真剣な表情で沙也夏の話を聞いていた。やがて沙也夏の話が終わると、小田さんは腕を組んでじっと目を閉じていた。
沙也夏は小田さんの顔を見ながら、すこし不安になってきた。
〝話すべきことではなかったのかもしれない。これは身内のことであるし、いくら小田さんが父さんと仲がいいからといっても・・〟
小田さんはなかなか目を開けようとしなかった。沙也夏がしびれをきらして口を開こうとした瞬間、小田さんは目を開けて言った。
「沙也夏ちゃん、ヨーロッパに行きたいかい?」
「そりゃ、行きたいけど・・・でも、できないものはどうがんばっても無理だし・・・」
「いや、そう簡単にあきらめてしまっては、実現できることもダメになってしまうよ。沙也夏ちゃん、まだ親父さんは返事してないんだろう?」
「うん・・・。たしか、来月の初めにその基さんが返事を聞きにくることになっているはずだけど」
「あと二週間か・・・よしっ!俺にいい考えがある。ひょっとしたらヨーロッパへ行けるかもしれないぜ、沙也夏ちゃん」
そう言うと、小田さんは立ち上がって、ショップを出て小走りに走って行った。
沙也夏は小田さんの後ろ姿を呆然として見送っていた。
「ヨーロッパに行ける?まさかぁ」
沙也夏はますます不安な気持ちになっていた。