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ワン・モア・ソング  作者: 杉本敬
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ポルシェ 959

 沙也夏は高校へは行っていない。

そのかわり、一般の高校生が経験できないような世界で生きてきた。

それはまさに生きてきたという言葉がピッタリだった。


 光太郎はレーシング・メカニックの仕事をしていた。F3000というレースで、ヨーロッパ各地を転戦するものだ。F3000は日本でも行なわれているが、レベルが違っていた。

それはヨーロッパ各地で行なわれているF3000がモーター・スポーツの最高峰といわれるF1の登龍門と称されているのでもわかる。


 もし、このレースでチャンピオンになろうものなら、F1のチームからお呼びがかかる。ところが日本で行なわれるF3000ではそうはいかない。いくらチャンピオンになったとしても、それは日本国内で勝ったとしか判断されない。ヨーロッパのレースは世界各国から腕利きのドライバーが集まってくるのだ。その違いは歴然としている。


 光太郎はそんなイギリスのチームのメカニックだった。

そのチームは表彰台の常連の成績、つまり2、3位をいったりきたりしていた。

ではなぜ光太郎はそんな一流(表彰台が常連なら一流のチームである)のチームにメカニックとして入れたのか。


 沙也夏は光太郎からその経緯について、一度だけ話を聞いたことがある。光太郎はそのことについては、あまり話そうとはしなかった。話したくないというより、自分の胸に留めておきたい感じだった。


 以下は沙也夏が光太郎からたった一度聞いた話である。

それは夢のような話だった。光太郎はレーシング・メカニックになる前は、当然整備工場を営んでいた。その頃は景気も良くて、従業員も3名雇って結構忙しかった。


 夢のような出来事は、八月の大雨の日に〝降って〟きた。

その日は天候のせいからか、さすがに客も少なく、光太郎は従業員の若い連中と車談義をしていた。

その時である。一台のステーション・ワゴンが整備工場の前に止まった。


 ひとりの紳士が傘もささずに走って工場の中へ入ってきた。入ってくるなり、その紳士はこう言った。

「ここの責任者にお会いしたいのですが・・・」

光太郎は怪訝な顔をして、答えた。

「私です。なにか・・・」

「突然お伺いして申しわけありません。単刀直入に申しあげます。実はある車を修理してもらいたいのです。修理というよりも、再生と言ったほうがいいかもしれません。あっ、失礼しました。私はこういう者です」


 紳士は名刺を光太郎に差し出した。名刺には〝基レーシング〟と小さい字で印刷してあり、さらに中央に〝代表 基和義〟とあった。

光太郎は状況が読めなかった。

「不思議がられるのも無理はありません。簡潔にお話しましょう。私はレーシング・チームを持っています。勿論、仕事とは別にやっています。ですから、サーキットでテスト走行などもします。一週間前、あるスポーツ・カーを手に入れました。それで一昨日、鈴鹿でテスト走行していたのですが、ドライバーが無理をしてしまい、クラッシュしてしまいました。はっきりいって、かなりひどいのです。すぐにサーキットの近くの工場で修理をしたかったのですが、とにかく部品がありません。方々聞き回り、福岡になら部品を調達できる所があると聞き、やって来たのです。言っておきますが、その車は普通の車ではないのです。959なのです」

「959というと・・・ひょっとしてポルシェ959ですか?」

光太郎はおそるおそる聞いた。

「そうです。まぎれもないポルシェ959です。ただ、959を修理するのはどこでもやってくれません。それに959に関してはディーラーであるミツワから購入したオーナーでないとミツワでは修理してくれません。私の959は残念ながら並行輸入のものですから」


 光太郎は、基和義の話を呆然として聞いていた。

それほど現実味がなかった。それはそうである。ポルシェ959といえば、1億を下らない車、というよりマシンである。

「須藤さん。あなたは以前、ミツワで働いていらっしゃったそうですね。あるレーシング・チームのメカニックから聞きました。それも、本国ドイツで911のメカニカル・トレーニングを受けたそうですね。959は911の血を受け継ぐ車です。それを聞いて、私はわらをつかむ思いでやって来ました。この人ならやれるかもしれない、やってくれるかもしれないと」


 そうなのだ。今でこそ、光太郎は整備工場をやっているが、若い頃はミツワで911のすべてに心血を注いできた。今でも、911のことなら誰にも負けない自信があった。

しかし、いくら959が911の血を受け継ぐマシンといっても959は怪物である。ノーマルのままレースに出場させても、おかしくないマシンである。


〝できるだろうか。959は911にはないハイテク機構がいくつもある。断ったほうがいいかもしれない。しかし・・・こういうマシンには一生のうちで一回やれるかどうかだ。やってみたい気持ちはあるが・・・〟

光太郎は迷っていた。気持はやりたいが、自信がなかった。

「とにかく一度見て頂けませんか?部品は手に入りますよね?」

「ええ、それは大丈夫と思います。ドイツに研修時代の友人がいますので、無理を言えばなんとかしてくれるでしょう。が、修理ができるかどうか・・・」


 基和義はそれには答えず、ジャケットのポケットから一枚の写真を取り出して渡した。

光太郎は写真を見て驚愕した。959の無残な姿だった。フロントは原型をとどめておらず、リヤのテールランプでどうにか959とわかった。幸い、リヤは無事なので、エンジンには支障がないようだった。959は911と同様に伝統的なリヤ・エンジンだ。色はシルバーのようだった。


 とりあえず、光太郎は959を見ることにし、工場を若い者にまかせ、基和義のステーション・ワゴンに乗り込んだ。基和義は行先を告げず、アクセルを踏んだ。さすがにレーシング・チームの監督だけあって、ドライビィングはうまいものだった。

光太郎は車の中でまっすぐに前を凝視していた。雨はいっこうに止む気配がなく、午後二時過ぎなのに夕方のようだった。


 光太郎は前を見ながら、雨は視界にはいってなかった。

頭の中は959のことしか考えられなかった。

やがて、ステーション・ワゴンは道路に横づけされているトレーラーの後に止まった。ふたりとも車の中では言葉をひとことも口にしなかった。いや、口にできなかったのかもしれない。


 基和義は無言のまま、父をトレーラーの中へ案内した。

トレーラーの中へ入ると、不気味に光るものがあった。それが959だった。光太郎は959にゆっくりと近づき、まずフロント部分をじっくりと見つめた。数十分ぐらい見ていた。

〝無残だな・・・フロント・サスまでいってる。これはひとりでは無理だ。やはり、ドイツに運ぶしかないな〟

光太郎はそう思いながら、今度はサイドからリヤの部分を見てまわった。やはりフロントが一番ひどかった。


 その間、基和義は一言も口を挟まず、じっと見ていた。光太郎は見終えると、基和義の顔を見て静かに言った。

「ドライバーは大丈夫だったのですか」

「ええ、幸いかすりキズ程度ですみました。さすが959ですね。剛性も並じゃありません」

「なるほど・・・基さん、はっきり申し上げます。さきほど959を再生してくれと言われましたね。それは百パーセント無理です。この状態から、元に戻すのはたとえドイツの職人でも難しいでしょう。再生ということにこだわりがなければ、できるかもしれませんが。ただ、その確率は十パーセントにも充たないでしょう。それと費用と時間がかかります。まず費用ですが、国産高級車の新車が何十台も買えると思ってください。そして時間。半年はみておいてください」


「やはり、そうですか・・・それは国内では修理できないということなんでしょう?」

「ご推察どおりです。959はハイテク・マシンです。いくら日本がハイテク技術が世界レベルでも、959はドイツ生まれのマシンです。設備もむこうは完備されてますからね。私はポルシェについては、メカニカルなことなら誰にも負けないつもりですが、ドイツの連中には頭が下がります。そしてこれは911ではなく、959です。費用はかかってもドイツでやるのがいちばんの近道だと思います」

「生まれ故郷で静養させたほうがいいということですか・・・」


 基和義はしばらく宙を見ながら考えている様子だった。

それから、意を決したように一気に語り始めた。

「須藤さん、私は一応その覚悟はしてきました。さっき、あるレーシング・チームのメカニックからあなたのことを聞いたと言いましたね。そのメカニックはあなたの知ってる人です。彼はあなたのことを尊敬しています。こうも言っていました。〝あの人はポルシェに関してはドイツ人にも負けない人だ。私が脱帽しているのはポルシェを愛していることだ。特に911を自分の分身のように。あの人を町の整備工場の親父にしておくのはもったいない。むしろ、レーシング・チームのメカニックにしたいぐらいだよ。私が監督だったら、迷わずチーフ・メカニックにするだろう〟


「それを聞いて私はこの人しかいないと思いました。須藤さん、すべてあなたにおまかせします。もう一度、この959を鈴鹿で走らせてください。よろしくお願いします」

 光太郎は、基和義の話を聞いて鳥肌がたつ思いだった。

〝そうか。奴はがんばっているんだな。夢が叶ったのか!いつかはレーシング・メカニックになりたいと言ってたもんな〟そのレーシング・チームのメカニックとは光太郎が、ドイツの研修時代に苦楽を共にした大親友だった。


〝今度は俺の夢が叶うんだ。959を・・・俺の手で、この俺の手で生き返らせることができるんだ!〟

 光太郎は我を忘れたように、久しぶりに胸の高鳴りを憶えた。

「基さん。あ、ありがとうこざいます。こんなチャンスをくれて。ポルシェのすべてが詰まったマシンを、自分の手でやれるとは夢にも思いませんでした。必ず、生き返らせてみせます」


 それがきっかけだった。

3日後に光太郎はドイツに向かって行った。沙也夏はそれを聞いた時、不思議に思ったものである。よく母が許したものだと。しかし今思うと、一番喜んでいたのは母でなかったかと思う。

母はいつも言っていた。

「男は夢をもっていなければいけない」

〝ママはパパの夢を知っていた。パパがドイツに行く時、泣いてたっけ。あの頃、私はなぜ泣いているんだろうと思っていた。パパがいなくなるのが淋しいからかな、数か月後には帰ってくるのにと子供心に思っていたのよね。でも、今思うとママの涙はうれし涙だったんだ。パパの夢が叶って感激してたんだな。ママはパパの一番の理解者だった。〟

それからというもの、沙也夏のまわりは変わっていった。工場は若い者にまかせ、亜紀との二人三脚だった。工場は忙しかったが、みんな家族同様働き活気に溢れていた。


 そして4ヵ月後、光太郎は959とともに帰ってきた。光太郎は若返ったようだった。それにもまして、959も変わっていた。

純白のスーツを身にまとい、ドイツの風の香りを運んできた。

なんと、959はオープン・カーになり、目の覚めるようなホワイトでペイントされていた。まるで959スピード・スターといってもおかしくなかった。


 スピード・スターとは、ポルシェがフル・オープン・カーにだけつけた呼称だ。現在ポルシェは911、928、944があり、いずれの種類にもスピード・スターはある。だが、959は限定車であるので、スピード・スターは現存していなかった。なにしろ、一台が4500万する車(バブルの時期、マニアの間では億単位で取引されていた!)なのだから、とてもオープンまで作る余裕はなかったのであろう。


「これはいったい・・・」

 基和義は959を預けたきり、一度も見ていない。だから驚くのも無理はなかった。

「お気に召しませんか?事情があって、こんな形になってしまったのですが」

しばしの沈黙があった。


 959はトレーラーから降ろされ、工場の前に停めてあった。基和義が初めてここに来た時は八月の大雨の時だった。それから四ヵ月あまりたち、季節は木枯らしの吹く頃になっていた。

福岡では何年ぶりかの粉雪がチラチラと舞って、純白の959のボディーに吸い込まれるように落ちていた。


 基和義はその光景を見ながら、驚きから微笑みに変わっていた。

「美しい。オープン・カーは夏しか似合わないと思っていたが、この959は違う。こんなに雪が似合う車は世界でも稀だろう」

そう言うと、基和義は父を見て言った。

「ありがとう、須藤さん。こんなに美しく仕上げてくれて・・・」

「いやいや、まだそれを言うのは早いですよ。実際乗ってもらわないと」

「いいえ。外見だけですぐわかりました。まさか、スピード・スターになっているとは夢にも思いませんでした。今、私は心臓が波打っています。まるで、初恋の女性に再会した気持ちですよ」

メカニックとしてこれ以上の賛辞はない。父母にとっては、人生最良の日ではなかったかと沙也夏は思っている。


 


 


 



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