沙也夏の想い
列車からホームに降りると、またもむせるような熱気が沙也夏を包んだ。
いつもながら、駅近くは賑やかだ。バーガー・ショップやCDショプに人が溢れている。沙也夏の家は駅からすこし離れている。歩くとすれば、軽く二十分はかかってしまう。当然、バス停があるが沙也夏は、〝あの一件〟からバスで帰らず徒歩で帰っていた。〝あの一件〟とは、ころんで健太に助けてもらった時のことである。
あの日はほんとうについてなかった。寝坊して、慌てて化粧して家を出たのは良かったが、展示会に必要な書類を忘れたのに気がついて、また家に取りに帰ったのである。おかげで、いつものバスに乗り遅れ、〝あの一件〟になったわけである。
しかし、人の出逢いとは不思議なもので、〝あの一件〟が縁で健太たちと意気投合してしまった。おまけに健太からは告白までされてしまった。
沙也夏は、その健太のことを思いだしながら歩いていた。
〝あれほどストレートに表現する人も珍しい。きっと心が正直なんんだな。ほんと歌っている時はかっこいいけど、喋っている時は少年みたいな人だわ〟
沙也夏はなぜか清々しい気持ちになっていた。
沙也夏はこの半年ぐらいに男性から何回かつきあってくれと告白されている。
沙也夏には個性的な魅力があった。たしかに彼女は美人の部類にはいるが、目が覚めるような美人ではない。いってみれば、彼女がいると緊張していた空気が和らぐような感じなのである。
それは彼女と喋ってみるとよくわかる。人と喋る時、沙也夏はその人の外見上のことは言わないようにしている。つまり、体や顔のことだ。
これは母親から言われてきたことでもある。自分がなにげなく言った言葉が人を傷つけてしまうことがよくある。体のことならよけいである。人間というものは、ほとんど体になんらかのコンプレックスをもっている。
だから、彼女の喋りには刺がなく、限りなく優しい。そういう沙也夏だから、客からも好意をもたれ、何度も交際を申し込まれた。
こんなことがあった。信じられないことだが、絵を購入しようかと思っている男性の客からこう言われた。
「あなたが僕とつきあってくれるならこの絵を買いましょう」
その時、沙也夏は悲しい目をして、こう言った。
「お客様はこの絵を愛していらっしゃらないのですか?絵とは恋人みたいなものです。この絵の前に立った時、〝ああ、この絵は僕を必要としている〟その時初めて絵が欲しいという気持ちがわくものだと思います。いまこの絵は泣いていますよ、きっと」
「・・・・・・・・・・」
その男性は言葉がでずに、沙也夏から目を離し絵を見ていた。
そして、しばらくたって絵を見ながらポツリと言ったのである。
「自分が恥ずかしい・・・僕は絵を買う資格がない・・・」
けれども、何度つきあってくれといわれても、だめなのである。
その理由はふたつあった。ひとつは彼女の心に深く棲み着いた男がいること、もうひとつは自分では解決できないこと。これは、あとからおいおいわかってくることなのだが・・・。
だが、沙也夏は健太に好きだと言われたことをまんざら嫌がってはいなかった。いつもはそういうことを言われると、どういうふうに断ろうかと考えるのだが、今回はむしろ嬉しいと言う気持ちがすこしあった。
〝なぜだろう・・・私には人を好きになる資格はないのに・・・・
〝また恋したのかなぁ。いけない、いけない。もう恋とは縁を切ったはずなのに〟
沙也夏は自分を戒めていた。
そんなことを考えて歩いているうちに、いつのまにか家が近くなっていた。
沙也夏は時々家の前で立ち止まってしまう。そして、すこし上を見上げる。見上げるとそこにはひとつの古ぼけた看板がある。
〝須藤モータース〟
そう、かつては沙也夏の家は車関係の仕事をしていた。最初は整備工場で修理を主ににやっていたが、ある時期からチューンやドレス・アップ専門になっていた。今は一連の事情から閉めていた。
沙也夏は看板を見ると、どうしてもその頃のことを思い出してしまい、悲しい気持ちになる。
〝この看板を見られるのも、あとどれくらいだろう・・・〟
そんなことを考えながら、玄関のブザーを押した。
「おかえり。早かったな」
玄関のドアが開くと、父、光太郎の弱々しい笑顔があった。
「うん。明日は会社で展示会の準備もあるし。パパ、食事は?」
「ああ、外ですませた」
そう言うと、部屋の中に引っ込んでしまった。
沙也夏は客間に入り、母の遺影に手を合わせた。沙也夏の母、亜紀は6年前に亡くなっていた。
〝パパはすっかり弱気になってしまった。この頃はろくに会話もしていないし・・・ママが生きていればこんなふうではなかったかもしれない〟
家に帰ると、いつもこんな気持ちになる。さっきまでの清々しい気分もどこかに消え失せていた。
沙也夏は自分の部屋に入り、着替えを済ませ、机の上で頬杖をついて、飾っている一枚の絵を見つめた。
けっして、一流の画家が描いたものではないが、妙に気に入ってしまい、買ってしまったものだ。
それはフォーミュラーカーがかなり繊細に描かれていた。
沙也夏はこの絵を見ると、いつもあいつのことを思ってしまう。
〝あいつと出逢った頃、パパもママも元気だった。ひとつの事に向かって家族がまとまっていた。なぜ、こんなになってしまったのだろう・・・家の中がいつのまにかこんな空気になってしまった。あの出来事が私たち家族を引き裂いてしまった・・・〟
沙也夏は絵を見ながら、過ぎ去っていった日々のことを思い出していた。