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ワン・モア・ソング  作者: 杉本敬
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出会い

 雨が降り続いている。

車のフロント・ガラスはもちろん、ボンネットにも叩きつけるように降っている。

それもそのはず、今は六月で、梅雨の真っただ中だ。


 その雨を、ある青年が車の中から、うらめしそうに見ていた。

そして、彼は、ぽつりと呟いた。

「やっぱり渋滞かよぉ」

今、彼の頭の中にはひとつの言葉しか浮かんでいなかった。

〝ち・こ・く〟。そう。彼は通勤途中である。

彼の名前は谷川健太、30歳である。仕事は商事会社の営業で、独身である。


 そうしているうちに、健太の顔が次第にこわばってきた。

健太は仕事柄、会社の車は自由に使っていいことになっているから、通勤でも使っている。

今日は月曜日で外はどしゃぶりの雨。当然、本通りは混んでいるだろうなと思い、裏道に出たのが、なんとその道が工事中で通行止めだったのだ。

万事休す。仕方なく、本通りに出たが、やはり渋滞だったわけである。


「こりゃ、遅刻しそうだなぁ」と健太はまた呟いた。

 遅刻しそうではなく、完全に遅刻である。運がなかったと思ってあきらめた方が良い。

〝今日遅刻したら今月4回目だから課長に激怒されるかもな〟


健太は暗~い気持ちになって窓の外を見ると、バス停に大勢の人が待っていた。

車が全然流れていないのだから、当然、バスも来ない。バス待ちの人も、イライラしているようだ。


〝この人たちも、遅刻かなぁ〟と思って見ていたら、ひとりの女性が小走りで走り始めた。

かなりあせっているみたいである。

健太はその女性を見ながら、〝そんなに走ると転ぶぞ〟と他人事ごとながら思った。

その時だ。健太の予感は当たったのである。


 そう、その女性は見事に転んでしまった。まるで、スローモーションのように、ひざから崩れる落ちる感じだった。

健太は思わず、「痛い!」と言ってしまった。

別に、自分が痛かったわけではないが、そう言わずにはいられなかった。

それほど、派手な転び方だった。


 クラクションが後から鳴っている。

ようやく、車が動き出したようだ。健太は我に返り、慌ててアクセルを踏んだ。

しかし、数十メートル行った所で、また止まってしまった。

やはり、今日の車の流れは最悪である。


 偶然にも、その止まった所に転んだ女性がうずくまっていた。

どうやら、歩道と車道の段差で転んでしまったようで足をくじいて立ち上がれない様子である。

まわりの人は誰も助けようとしない。

1人人ぐらい、助けようとしてもよさそうなものだ。


 健太はその女性をじっと見ていた。

健太はこういう場面にでくわすと、ほうっておけないたちである。

だから、いつも損ばかりしている。

これは性分なのでしかたがないと自分自身あきらめている。


 車は相変わらず動かない。

〝よし、こうなりゃあ遅刻ついでだ!〟と思い、車から外に飛び出した。

どうせ、車は動かないだから、道端に寄せる必要はなかった。


 健太はその女性に声をかけた。

「大丈夫ですか?」

「・・・・・・・」

「立ち上がれますか?」

これは愚問である。立ち上がれるなら、とっくにそうしている。


「ええ・・・なんとか」と言いながら、彼女は立ち上がろうとしたが、やはり無理のようだ。

 健太は車の助手席を開け、彼女に言った。

「さあ、俺の肩につかまってください」

「えぇ、でも・・・」と彼女は痛さと恥ずかしさで、なかなか動こうとしない。

「恥ずかしがっている場合じゃないですよ。ずぶ濡れじゃないですか!さあ、早く!」

ようやく、彼女は健太の肩に手をかけて、立ち上がろうとした。


 健太は彼女を抱きかかえるようにして、助手席に乗せた。健太も車に乗り込んだ。

「すみません。服もこんなに汚れているのに・・・

車にまで乗せてもらって・・・」と彼女は申し訳なさそうに言った。


 確かに、スーツが泥だらけである。健太のほうも、びしょ濡れだ。

健太はタオルを、彼女に差し出した。

そして、自分はハンカチで顔をふいて、言った。


「困った時は、お互い様ですよ。車のことは気にしないで下さい。どうせ、会社の車ですから。それより、痛むでしょう」

「えぇ、足首をひねってしまったみたいで・・・」

「俺の知っている病院がありますから、そこに行きましょう。病院というより、診療所みたいなとこですけど」

「いえ、とんでもない!そこまで迷惑をかけてしまっては。通勤途中なんでしょ?」

「どうあがいても、会社はもう遅刻ですから。それに、その足じゃ歩けないでしょう。同じ遅刻するにしても、人助けして遅刻したほうが、気分も違いますから。ハハハ・・・」と言いながら、課長の苦虫をかみつぶしたような顔が浮かんだが、慌てて打ち消した。


 健太は車をUターンさせた。反対車線は空いていた。

雨は一向に止む気配がなかった。

健太は今日の仕事が気にならなくはなかったが、こういう出来事もそうあることでもないと思いながら、車を走らせていた。


 健太は不謹慎だとは思いつつ、助手席の彼女をチラッチラッと横目で見ていた。

〝なかなかの美人じゃん。水もしたたるいい女ってとこかな〟と健太はさっきまでのいやな気分がほぐれたように感じていた。


 これは失礼である。当の彼女は足をくじいて痛がっているのに、自分だけいい気分になっている。

しかし、今回は人助けしたから、許してやろう。

今どき、通勤途中にわざわざ会社を遅刻してまでも、人助けする人間はそうそういるものではない。

その意味では、健太は貴重な存在である。


 診療所は会社とは逆方向なので、そう時間もかからなかった。

この診療所には、時々健太もお世話になっている。

だからといって頻繁に病気しているわけではない。


 この診療所の看護婦と健太は、バンド仲間である。

そう、健太はバンドを組んでいる。

まあ、バンドのことは後に述べるが、その看護婦の名前は神田圭子という。

そして、健太はこの圭子という女性に頭が上がらない。


 健太はひとり暮しである。したがって、自炊しなければならないのだが、これが大の苦手である。

だから、圭子に時々、夕食を作りに来てもらっている。


 以前、健太のアパートに初めてバンド仲間が遊びに来たことがあった。

アパートにあがるなり、みんなあきれかえった。

台所はあるが、台所用品がない!

調理器具はもちろんのこと、食器類さえなかった。


 では、今まで食事はどうしていたかというと、当然コンビニである。

コンビニで弁当類を買って、済ませていたのだ。

そこで、圭子が見るに見かねて食事を作りに来てくれているわけである。

圭子は、大体が姉御肌的な性格らしく、いろいろバランスを考えて食事を

作ってくれる。そんなわけで、健太は圭子に頭が上がらない。

まったく情けない話である。


 それはともかく、診療所に着き、車を駐車場に停めた。

助手席のドアを開け、彼女に肩を貸そうとしたのであるが、

さっきよりも痛みが増したようで、車から降りるのさえ辛そうだった。


〝これは歩くのは無理だな〟と健太はどうしたものか、と考えていたが、意を決して言った。

「失礼します!」


 そして、いきなり彼女を抱き上げた。

さすがに、彼女はびっくりした様子でだったが、健太に身をまかせているようだった。

健太も少し恥ずかしかった。若い女性を抱き上げたことなど、あまり記憶にない。


 診療所に入ると、珍しく患者がいなかった。

それどころか、中は静まり返っている。

健太は大声で言ってみた。

「すいませ~ん、急患です。誰もいませんかぁ」

返事がない。健太はさらに大きな声で言った。

「圭子、いないのかよぉ!」


 しばらく静寂があり、次の瞬間、けたたましく階段を降りてくる音がした。

圭子だった。そして、健太の方へ小走りで走ってきて、目を丸くして言った。

「健太じゃないの!どうしたのよ!」


 圭子はびっくりしている様子だ。当たり前である。

この時間に、女性を抱きかかえて、自分の知り合いが来ているのだから。


「どうしたって、急患だよ」と健太は言った。

 圭子は健太とその女性を見て、言った。

「あんた!まさか交通事故を起こしたんじゃないんでしょうね」

「交通事故なんか起こしていたら、こんな平気な顔してここに来るかよ!この人が道端で足をくじいているみたいだったから、連れて来たんだよ!」

「あぁよかった。私、てっきり交通事故かと思っちゃった。ほっとしたわ」


 圭子は本当にほっとした様子である。

ほっとする前に、早く彼女を診察室に入れたほうがいいと思うのだが。

「あのぅ、そろそろ降ろしてもらったほうが・・・」と彼女が、恥ずかしそうに言った。

「あっ、すみません。健太、早く診察室に入れて。先生に早く来てもらうように電話するから」


 健太は彼女を抱きかかえたまま、診察室へ入り、ベッドに彼女を降ろした。

「もう、ここに来れば安心ですよ。看護婦はあんな感じですけど、先生の腕は確かですから」と健太は、彼女を元気づけるように言った。

 彼女はぎこちなく笑っていた。


「あんな感じで悪かったわね」と圭子が、健太を睨みつけるようにして、診察室に入ってきた。

「聞こえたか。ハハハ・・・冗談だよ。冗談」と健太は、照れ笑いしながら言った。

「さあさあ、患者さん以外は出て行って。健太、あんた会社はいいの?」

「あぁ!会社に電話するのをすっかり忘れていた!」と健太は公衆電話へ急いだ。


 もう9時5分前である。健太は、〝課長カンカンだろうな〟と思いつつダイヤルを回した。

「もしもし、谷川ですけど。なんだ、純ちゃんか・・・ごめん、ごめん。課長をお願い・・・あぁ、そういうことか。わかった。いつもすまない」と健太は受話器を置いた。


 どうやら、この様子ではまた会社の女の子に借りをつくってしまった様子である。

つまり、健太は遅刻の常習犯なので、9時近くになっても来ない場合は、会社の女の子が気を利かして、取引先に直行ということにしてくれる訳だ。

 

〝あ~あ、また借りを作っちゃったなぁ。今度はフランス料理のフルコースなんて言わないだろうな〟と思っていたら、肩をポンと叩かれた。

圭子がニヤニヤしながら、立っていた。

「どうだった?こってりしぼられた?」

「いや、純ちゃんがうまくやっといてくれたらしい」

「高くつくわよ、それは。でも、今日は人助けしたから、あとで純子に電話しといてあげる」

純子は健太と同じ営業部の後輩であり、バンド仲間でもある。


「それより、どうだ彼女?」と健太は聞いた。

「腫れがひどいみたいね。詳しいことは、先生が来ないとわからないけど。念の為、今冷やしているわ。だいじょうぶよ、うちの先生は名医だから」

「じゃ、後は頼むよ。俺、もう行かないとヤバイから」

「うん。わかった。健太も、たまにはいいことするじゃん」

「たまにはだけ、余計だよ」と健太は照れ笑いしながら、診療所を後にした。









 







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