第百七十六話 幸せな日々
「主人公じゃない!」恒例、被害者視点です!
《――あなたには、高貴な血が流れているのよ》
それが、僕の母さんの口癖だった。
母さんは病がたたって数年前に死んでしまったけれど、その言葉と教えは僕の中にまだ根付いている。
母さんは僕の父親について決して教えてはくれなかったけれど、僕が表に出ることを、たくさんの人の前に名前を晒すことを何よりも恐れていた。
だから、僕は王都のスラムの片隅で、息を殺すみたいに生きてきた。
(でも、もう限界だよ母さん……)
僕にだって、夢はあった。
――すごい冒険者になって、誰も倒せないような魔物を倒して、たくさんのお金を稼いで、おいしいものをいっぱい食べる。
子供っぽい夢だとは思うけど、それは今でも変わっていない。
母さんが昔読んでくれた冒険者が描かれた童話は今でもお気に入りだし、最近はスラムにすら噂が聞こえるほどに偉大な冒険者〈レクス・トーレン〉の話に夢中になった。
幸いにも僕には冒険者としての才能があるようだったから、王都の地下の下水道や、下水道から行ける近くの平原で魔物を倒すことができた。
ただ、冒険者ギルドに登録するには、本名を教える必要がある。
だから僕は、有名な冒険者になることはおろか、冒険者ギルドに魔物の素材を売ってお金を得ることすらできなかった。
代わりにスラムに住み着いた故買屋の老人に売りさばいてかろうじて日々の糧を得ているが、一体どれだけ中抜きをされているか……。
「いつもごめんね。おにいちゃ……ごほっ、ごほっ!」
「サナ……」
母さんが死んでから、一年ほどあと。
僕はスラムで倒れていたサナという女の子を助け、それから身を寄せ合うように、共に暮らすようになった。
血のつながりはないけれど、サナは僕にとって唯一残された家族で、大切な妹だ。
なのに、今の僕には病に侵された彼女を治すこともできない。
(だから、勇気を出して冒険者ギルドに加入してみたけど……)
故買屋に売るよりもずっと高い値段で素材は引き取ってもらえたけど、僕程度が倒せる魔物の素材ではサナを治せるほどの高額な薬を買うほどのお金は稼げなかったし、それからすぐに、スラムの近くを怪しげな人たちが歩き回るようになった。
一度だけ、その男の一人に「レリックという名前の子供を捜しているんだが、知らないかい?」と優しく聞かれたことがあって、その時は心臓が止まってしまうかと思った。
その時はごまかしてなんとか逃げたけれど……。
(……母さんの言ったことは、本当だったのかもしれない)
それ以来、僕は極力スラムの外に出ずに、隠れ住むように息を殺して過ごしてきた。
魔物退治の効率も下がり、サナの病状も悪化するばかり。
(どう、しよう。どうすればいいんだ?)
そんな僕らの前に救いが現れたのは、そんな時だった。
――八月二日の深夜。
蝶を象った奇妙なマスクを付けた男が、不意に僕らの家を訪れたのだ。
「やあ。君たちがレリックくんとサナくんだね」
「だ、誰ですかあなたは! 僕らに一体なんの……」
必死にサナを背後に隠した僕に向かって、彼は仮面の下の唇をニィと歪めて、こう言った。
「――私の名前は〈フェイスレス〉。君たちの救世主になる人間だよ」
※ ※ ※
初めは、彼の言うことを信じることはできなかった。
(僕が、この国の王子? それに、アイン王子さまの暗殺だなんて……)
とても、信じられなかった。
しかも、僕らを助ける条件として彼が要求したのは、僕とサナの首に首輪をつけること。
目元を隠す怪しげな仮面をつけて、紐のつながった革の首輪を差し出す彼は、控えめに言ってもまともな人間には見えなかった。
これが一ヶ月前だったら、僕は考えるまでもなく、彼の援助を断っていただろう。
「おにい、ちゃん……」
でも、僕らはもう疲れ切っていた。
境遇は崖っぷちで、これ以上意地を張っても二人そろって野垂れ死にすることは目に見えていた。
(どうせ、これ以上状況が悪くなることなんてない! だったら……)
僕らは、彼の提案を受け入れた。
彼に言われて、貴重品だけを手に取った僕らに、フェイスレスはにんまりと笑って、
「――なら、君たちを私の隠れ家に案内しよう」
彼の身体から、真っ黒な闇が飛び出したと思った、次の瞬間、
「……え?」
僕らは、見知らぬ建物の中にいた。
※ ※ ※
フェイスレスの隠れ家は、とても素晴らしい場所だった。
ふかふかな布団と、大きなお風呂。
それから広いテーブルで食べるご飯はとてもおいしかった。
それだけじゃない。
「おにいちゃん! もうわたし、胸が痛くない! 痛くないよ!」
「サナ……!」
フェイスレス……いや、フェイスレス様が渡した薬によって、サナは病気だったことがウソだったかのように元気を取り戻したのだ。
その薬の効き目は驚異的で、僕が買おうとしていた高価な薬よりもずっと強い効果があるようだった。
「あ、ありがとうございます、フェイスレス様! まさか、妹がこんなに早く良くなるなんて……」
僕が頭を下げると、フェイスレス様は少しだけ得意そうに笑った。
「この薬は、市販されていない特別なものだからね」
「そ、そんなめずらしい薬を、妹のために……」
「なぁに、君の妹なら私にとっても大切な人だ。気にすることはないよ」
その言葉に、僕は今までフェイスレス様を疑っていた自分がはずかしくなった。
スラムの子供である僕らのために、温かい食事や寝床を用意してくれて、そして妹のために特別な薬まで用意してくれる。
そんな人間は、今まで誰もいなかった。
しかも、フェイスレス様は僕らに見返りを求めなかった。
ただ、僕らの境遇を気に病んで、無償でここまでのことをしてくれたのだ。
だから……。
「フェイスレス様!」
「ん? なにかね?」
仮面の奥の見透かすような視線も、もはや怖くない。
「――僕を、十月十日の作戦に、参加させてください!」
僕は自分の力を、この慈悲深い人のために役立てることを、決めた。
※ ※ ※
それからは、まるで夢のような日々だった。
隙間風に震えることも、雨漏りに悩まされることもないふかふかの寝床で目覚め、起きればサナと一緒に大きなテーブルについて、お腹いっぱいに温かい食事が食べられる毎日。
特に初日はフェイスレス様が手ずから「カレーライス」という異国の料理を作ってくれて、必死で食べる僕らを見て「しっかり食べろよ。おかわりもいいぞ」と優しい言葉をかけてくれたことは絶対に忘れない。
とはいえ、フェイスレス様もお忙しい身らしく、一日中この隠れ家にいられるわけじゃない。
この隠れ家には夜にやってきて、朝方に帰られるという忙しい生活を送っているから、普段の僕らの生活を見てくれるのは、彼の二人の従者になる。
「では、あとは任せる。頼んだぞ、ルビー、サファイア」
「はい!」
僕らの世話を任されたのは、ルビーというおしとやかそうな女性と、サファイアというフードを目深にかぶった寡黙な女性だった。
特に、家事全般を世話してくれるルビーという女性にはサナもすぐに懐き、今では「ルビーおねえちゃんルビーおねえちゃん」と言ってそのあとをついて回っている。
妹を取られたような感じがして、兄代わりとしては、ほんのちょっと複雑な気分だ。
……ただ、唯一この生活に不満があるとすれば、隠れ家の外には出られない、ということ。
僕を狙って悪い奴らが徘徊している可能性があるし、安全のためにアイン王子様の暗殺の日まではこの屋敷から出てはいけない、と言い含められている。
それに、いまだに僕らの首には目に見えない首輪がつながっていて、この屋敷から出ることはできないようになっているらしい。
それはちょっとだけ、怖いことのようにも思えたけれど、屋敷の生活は居心地がいいし、何より、
「ごめんね。でも、君たちの安全のためだから」
と優しいルビーさんに言われてしまえば、文句なんて言えるはずもない。
(そもそもこの隠れ家、一体どこにあるのかなぁ)
転移によって僕らはこの隠れ家に連れてこられたせいで、ここが王都なのか、それ以外の場所なのかすら分からない。
そう考えると、やっぱり外に出るというのは現実的じゃないのかもしれない。
僕がそんなことをぼんやりと考えていると、笑顔のサナが僕を覗き込んでいた。
「ど、どうしたの?」
「えへへ。おにいちゃん、前よりも優しい顔になったなって思って……」
優しい顔、という表現に目をぱちくりとさせるが、すぐに納得した。
そりゃ栄養が足りなくて、日々の生活にも困っている状況なら、いつも険しい顔をせざるを得ないし、単純にここの生活で肉付きがよくなって顔がふっくらしたってことも考えられる。
それに、「目に見えない身体の不調を治すため」と言って、食後に飲むように言われた見たこともないポーションも、効果を発揮しているのかもしれない。
(太っちゃったりしてないかな)
スラム暮らしの時には考えられないような贅沢な心配だけれど、ぶくぶくに太って、サナに嫌われたり、フェイスレス様に失望されたら困る。
「ちょ、ちょっと鏡を見てくる!」
僕は慌てて、
「あ、おにいちゃん! もうすぐご飯だから、すぐに来てねー!」
サナの声に手を振って応えて、僕は屋敷を走り抜ける。
(このお屋敷、なんでか鏡が少ないんだよね)
僕が知る限り、この屋敷で鏡が置かれているのは、大きな置時計がある部屋の一個だけ。
しかも、ほかの年代物の調度品と比べると見るからに今風の品なので、おそらくは外から持ち込んだものだ。
男の僕はいいけれど、ルビーさんやサファイアさんは、平気なんだろうか。
そんな疑問と不満を脚力に変えて、僕は鏡の部屋に飛び込んだ。
それからおそるおそる、鏡を覗き込んで……。
「――これが、僕?」
そこに映った人影に、驚愕した。
さらさらの金髪に、穏やかそうな顔つき。
何よりフェイスレス様に与えられた新品の服を着た自分の姿は、自分で見ても一ヶ月前とはまるで別人のようだった。
それに、なぜだろう。
どこか見覚えが……あっ!?
(――アイン王子だ!)
鏡に映った自分の姿は、かつて一度だけ見たアイン王子の幼い頃の肖像画に、どことなく似ている気がした。
そんな風に、鏡の自分に見惚れてしまっていたせいだろう。
いつまで経ってもやってこない僕を呼びに、ルビーさんがやってきたのは。
「あ、こんなところにいたんですか。もうすぐご飯ですよ」
ルビーさんの声が、背後から聞こえる。
いつもなら耳に心地よいその声は、しかし僕の脳を素通りしていた。
「レリックくん?」
その声がいぶかし気な響きを持ったところで、僕はハッと我に返った。
弾かれるように振り返って、ごまかし笑いをする。
「ご、ごめんなさい! なんだか僕、王子様に似てるなって思って、びっくりしちゃって」
僕が慌ててそう言うと、ルビーさんはくすりと笑う。
「ふふっ。レリックくんも、王子様なんですよ」
「そ、そうだったね。あ、あはは……」
ごまかし笑いをしながら、僕は必死に自分の動揺を押し隠していた。
「もうご飯の時間ですよ。一緒に食堂に行きましょう」
そんな僕に対して、ルビーさんはいつものように、普段と何一つ変わらない優しい声で、僕を促す。
だから……
(だからきっと、勘違いだ)
ルビーさんは僕らの恩人で、スラム出身の僕らに対しても嫌な顔一つしない、理想的な女性で、誰よりも心根の優しい、天使みたいな人だ。
だから、さっきのは見間違いに決まってる。
ああ、そうだ!
絶対に、ありえない!
――僕の背後に立っていたはずのルビーさんの姿が、鏡に全く映っていなかった、なんて。
綻び始める日常!!
レリックくんの運命やいかに!
……でもこれは正直、のこのことフェイスレス様についていっちゃったレリックくんサイドに問題があるような気がしないでもない