宿題わすれ
私は教室の一番前、黒板の横に、教室の後ろの方を向いて立っている。
先生の板書の音だけが響く中、みんなは黒板を見て、自分の机の上のノートに書き写す。そして、また顔を上げる時、一瞬だけ視線が私に注がれる。
ずれたタイミングで三十人余の視線が私に刺さる。
とても居心地が悪い。
ここに立ってから、どこを見ていいか分からない。最初は教室の後ろに貼られた習字を見ていたけれど、遠くをじっと見ていること、胸を張って堂々としていると先生に見られるのではないかと思い、視線を下げた。しかし一番前の列の子の上履きをずっと見ていることで、打ちひしがれた己を教室に晒している感覚が強くなり、これもやめることにした。行き先を失った私の視線はクラスメイトを順々に彷徨ったものの、合った視線をことごとく外され、求めていない助けを断られた気がして、惨めな気持ちは一層に強くなる。
教室のクラスメイト達も戸惑っているのだろう。宿題を忘れて立たされているのが私なのだから。
先生も驚いていた。
授業の冒頭、「では宿題の答え合わせをします。やってきたね?」のすぐあと、先生は宿題忘れ常習の吉中君と佐々木さんに、特に期待していない風に宿題をやってきたか聞いた。
二人とも宿題をやってきていた。吉中君は誇らしげに、佐々木さんは不機嫌そうにやってきたことを返事した。教室から「おお」と歓声が上がり、先生も「おお」という驚いた、少し嬉しそうな顔をした。
「じゃあやってきてない人はいないね?」
既に教卓の上に視線を落としながら先生が教科書を開く中、私は手を上げた。
しっかり上げようとした手は、震えていた。
教室が静まり返った。
やれば、すぐできたはずだ。
昨日家に帰ってから。スイミングスクールへ出かけるまで。戻ってからごはんまで。ごはんの後寝るまで。
いつでも、やればすぐにできたのに。忘れてしまった。
吉中君や佐々木さんが宿題をやってこないのは忘れてしまうからじゃない。やりたくないからだ。私は違う。やればすぐ、簡単にできるのに、昨日だけは忘れてしまったんだ。
それでも手を上げたあと、先生に「どうしてやってこなかったの?」と聞かれて出てきた「忘れてしまいました。」という言葉は吉中君や佐々木さんがいつも言うことと同じだった。しかも声も震えてしまって、泣き声みたいになってしまった。
ちがうのに。私はほんとうに、ただ、忘れてしまったんだ。
先生は「めずらしいね。」とだけ言って、黒板の横を指さした。
宿題を忘れた子は黒板の横に立っていなければいけない。吉中君と佐々木さんがあまりにも宿題をやってこないので、この頃先生が決めた決まりだ。
彼らのために、彼らのせいで作られた決まりのせいで、立たされるなんて。
いろんな感情が渦巻いて、教室の前に向かう時、私の目頭は熱くなった。
どれくらい経ったのだろう。
答え合わせも終わって、授業が続いている。
時計を見たい。しかし時計は教室の前、黒板の上にあるので、後ろを向いて立っている私には分からない。時計を見たい気持ちは強いが、授業中に振り返って時計を見るというのは「早く終われ」と考えていると思われそうで、できなかった。
時間が気になる。
早く終わってほしいと、思っている。
トイレに行きたい。
授業冒頭の出来事のせいで感じていなかった尿意が急激に私を襲っていた。そういえば今日は学校に来てから一度もトイレに行っていない。前の時間、図工室で授業を受けている時も少しトイレに行きたいと思ったけれど、授業が終わって移動しているうちに忘れてしまった。
そしてあの出来事。
あまりにも頭から宿題のことが抜け落ちていて、先生が答え合わせをすると言って初めて思い出して、恐怖した。
佐々木さんみたいに怒られるんじゃないかって、思った。
佐々木さんはどうしようもない。宿題をやってこないだけじゃなく、遅刻、居眠り、買い食い、先生に怒られることは一通りやる。そして繰り返す。佐々木さんは怒られているとき、つまんなそうな、目の前のことに関心が無さそうな顔をしている。実際にそう思っているんだろう。だからあまり怒られて怖がっているようにも見えない。むしろそれを見ている、聞いている私たちの方が怖い思いをしていると思う。
でもこの前、前に立たされた佐々木さんは先生に怒られて泣いた。その時の先生は大きな声を出したりはせず、淡々と、なぜ宿題をしてこないのかを佐々木さんに時間をかけて問い詰めた。とても長く時間をかけて。佐々木さんは答えては質問され、答えては質問され、そして最後には答えられなくなって、先生をにらんだまま声を出さずに涙をこぼした。
そうやって怒られて泣いてしまったから、佐々木さんはちゃんと宿題をやってきてもみんなにそれを思い出されるのが嫌で、恥ずかしくて不機嫌そうにしているんじゃないかと思う。
怒られるならどっちがいいだろう。大きな声で怒られて?淡々と問い詰められて?どちらも嫌だ。みんなの前で怒られるなんて。
宿題を忘れたことを、あとでまた怒られるかもしれない。私なら、どちらでも泣いてしまうだろう。佐々木さんと違って、私は先生に怒られ慣れていない。さっきだって、怒られていないのに泣いてしまいそうになった。だから、あとはここで、じっとしているしかない。
でも、おしっこにいきたい。
さっきよりももっと、いきたくなっている。
先生にトイレ行きたいって言おうか。
言えない。
宿題を忘れて立たされているのに、トイレに行きたいですって言ったら、先生は怒るかもしれない。「ちゃんと反省してない。」って。
大きな声で怒られるかもしれない。そうなったら、おしっこをがまんできない。
問い詰められるかもしれない。そうなっても、おしっこをがまんできない。
おもらししちゃうかもしれない。
前に他のクラスでおもらしした子がいたって聞いたことがある。
何年生の時だろう。
たしか体育で、校庭でならんでいるときにおもらししたって誰かがいってた。
おもらししたらどうなるんだろう。
先生に怒られるかな。みんなに笑われるかな。
パンツ、びしょびちょになっちゃうよね。洋服だって。その子は体操服だったから着替えればよかったのかな。でも今日は体育ないから体操服もってきてないし。保健室でかしてくれるのかな。
いやだ。宿題忘れて、立たされて、おもらしなんて、絶対嫌だ。
佐々木さんと目が合う。
あなたのせいだからね。
あなたのせいで、立たされて、おしっこがまんしてる。
しゅくだい、たまたまわすれただけなのに…
チャイムが鳴った。
先生は教科書を閉じると、
「それではここまでにします。」
と言った。
「それから、」先生が私の方を見た。
「今日は珍しい人が忘れちゃったけど、宿題はちゃんとやってきてね。」
「はい。」
と言ったつもりだった。
けれど、急に先生に話しかけられて、急にみんなに注目されて、びっくりしてしまって、それで声を出そうとした時に、おしっこが出てきてしまって、「はい。」は口の形だけになってしまった。
あわてておしっこをとめようとしたけれど、「返事は?」と先生に言われ、今度こそ「はい。」と言おうとしたら、おしっこが勢いよく出てきてしまった。パンツの中が一気にあたたかくなっていく。
「おへんじは?」
そう言われて、か細くでた「はい。」という声と一緒に、涙もあふれだした。
おしっこは、もうとまらなかった。