84話 新たな戦い
「ヴィオラ、ちょっとゴメンね」
「サシャ君! 今の光は!」
サシャがヴィオラを運ぼうと躊躇いがちに手を伸ばすのと、見覚えのある布袋を握り締めたエリシュカが飛び込んできたのは同時だった。
「あ、エリシュカいいところに! 無事にスフィアは壊せたんだけどヴィオラが――」
「おお! ここにもこんなに灰が!」
二人の声が再び重なり、サシャは思わずあんぐりと口を開いた。今言うことはそれなのか、と。
「冗談だサシャ君、そんな目で見られると私だって傷つく。ヴィオラ姫は大丈夫なのか……ふむ」
エリシュカは抗議するような眼差しでサシャを一瞥すると、ヴィオラの傍らに膝をついて慣れた手つきでその首筋に触れた。脈を計っているのだろうか、小首を傾げて少しそのままじっとヴィオラを見つめた後、小さく頷いてその手を額、目蓋などへと移していく。
「……エリシュカ、もしかして医術の心得があるの?」
「ああ、昔手当たり次第に手を出したうちのひとつだ。なかなか興味深い学問だぞ――と、ヴィオラ姫は大丈夫だ。昏睡しているだけだな。どうせサシャ君の癒しはたっぷり受けているんだろう? 時間さえ経てば目を覚ますはずだ」
ああ良かったありがとう、と胸を撫で下ろすサシャ。
自分の怪我はすぐ治ってしまうし、他人の怪我は全て癒しで片付けてしまうサシャにとって、青の力に頼らない民間医術は全く縁遠い世界だったのだ。
たぶん大丈夫、とは思っていたが。
この余裕のない状況で、医術を修めていたエリシュカの多才ぶりに掛け値なしの感謝を覚えるサシャであった。
「よし、ヴィオラ姫は私が背負っていこう。サシャ君は可愛い顔をしているが男だからな。殿方に触れさせるのはあまり宜しくないだろう」
「あ、そっか……ごめんエリシュカ、お願い。そしたらその袋を貸して。灰を入れてるんでしょ? ささっとその辺のを入れておくから」
「おお、気が利くなサシャ君は! こんな状況だから欲張る必要はないが、灰はあればあるほど精霊が集まる。この先の長丁場を思えばありがたい配慮だな」
エリシュカが布袋を大切そうにサシャに渡し、手早くヴィオラをその背に背負った。立ち上がった際に大いによろけたが、管理小屋の外に出ればシルヴィエもいる。そこまで運んでもらえさえすればいいのだ。
サシャも手早く周辺の灰を掻き集めて布袋に流し込み、小走りでエリシュカの前へと飛び出した。もうこの管理小屋の中に死蟲はいないはずだが、今の無防備な二人を無警戒で先行させていい訳がない。
破壊された石室の壁をエリシュカが古代魔法で頑丈に塞いでいる間に、眠っているように静かに背負われているヴィオラをちらりと眺めてから先頭に立ったサシャ。大きく息を吸って気持ちを入れ直し、油断なく管理小屋のロビーを通り抜けて外へと向かっていき。
◇
「ヴィオラ! 何があった? 大丈夫なのか!?」
「使徒殿、これはいったい?」
表に出るなり血相を変えて駆け寄ってきたシルヴィエとイグナーツに、サシャは手短に諸々を説明する。
中は死蟲が胸の高さまで蠢いていたこと、石室の壁が壊されていたこと。
そして、転移スフィアが小奈落とでもいうべきものに変異していて、ヴィオラはそれを覗き込んで倒れてしまったこと。癒しはしてあるので、後は目覚めるのを待つだけの状態で――
「の、覗き込んだだけでか? ……何という凶悪さだ。確かに奈落と呼んで間違いないものになってしまっていたようだなそれは。とりあえずヴィオラは私の馬背に乗せてくれ。置いていく訳にはいかないし、ケンタウロスの誇りがどうのなどと言っている場合ではない」
「……使徒殿、その小奈落は今は? こうして出てくるところを見れば、無事に滅することは出来たようだが」
「うん、とりあえずはね。次の最後の一個も大至急始末したいところだけど、ただ、ちょっときな臭いお知らせがあって」
ヴィオラをシルヴィエの馬背に乗せるのを手伝いながら、サシャは慌ただしく小奈落――正確には空間の“穴”――についての説明を始めた。
まずはヴィオラが懸念していた、流出している死蟲の量と残る未踏破ラビリンスの数の計算が合わないということについて。
今の<氷壁の迷宮>では、石室や管理小屋といった障害物が死蟲の流出量を大きく制限してくれていた様子。なのでこの次の最後の未踏破ラビリンスの管理小屋が、建物の体裁を為さないぐらいに破壊されていたとしたら――
ひょっとしたら、それで説明できてしまうかもしれないし、やはりどこか他からも流出してきているのかもしれない。
「これは行けば分かることだから、これ以上の説明は省略。で、本題だけど」
先ほどちらりと覗き込んだ小奈落について、サシャは手短に補足の説明を始めた。
あの“穴”の向こうには、見たこともないものも含め、途方もない数の大型の先兵がひしめいていたこと。あのまま時間が経って小奈落が成長すれば、飛行蟲や巨岩蟲のみならずそれら大型の化け物が出てくるようになってしまうかもしれないこと。
「なっ、やはり死蟲だけではなかったのか! マズいぞサシャ、今の山麓の防衛態勢では飛行蟲が現れるだけで」
「使徒殿、情報感謝する。次が最後かは不透明、かつ今のうちに全て潰す必要があるということだな。急ごう、次のラビリンスはあそこの大岩を迂回した上手、あの山肌の裏手だ。あと使徒殿。また少し顔色が悪いが大丈夫か?」
イグナーツの言葉に、あー、と自分の頬をつまんで引っ張るサシャ。
ヴィオラのことやら何やらですっかり意識から抜け落ちていたが、言われてみればたしかに全身に重い倦怠感が広がっている。
が、それはある意味で馴染みの感覚、体内の泉が大きく減っている時の症状。
先ほどの小奈落への全力攻撃で、一気に泉を使ってしまったのだ。【ゾーン】も展開していなかったので減るだけなのは当たり前だ。ただもし【ゾーン】を展開していたとしても、“穴”を破壊して力のお裾分けをもらえたかというと……それはそれで微妙な気がするサシャである。
「うん、これはすぐに元に戻るから平気。それより早く次に行っちゃおう!」
泉の補充はすぐにできる――早くも大岩の向こうから姿を現しつつある死蟲の大群に気がつき、サシャは反射的に双剣を握り締めた。
あそこに突入して【ゾーン】を展開さえすれば、いくらでも回復できるのだ。むしろ急激に吸収しすぎないように、そっちに注意しなければいけないぐらいだ。
「もう来たのか! 早すぎる!」
「行こうイグナーツさん! シルヴィエ、先に行ってるよ!」
即座に走り始めたサシャとイグナーツの、その後ろでは。
「ええい、エリシュカも乗ってくれ! ヴィオラを落とす訳にはいかないし、縛りつけている時間が惜しい!」
「い、いいのかシルヴィエ」
「その代わり周囲の殲滅は頼んだぞ。ヴィオラを気にしてぎこちなく動くより、そうしてもらった方がよほど早く動ける」
「それは任せろ! くくく、一度ケンタウロスの背中に乗ってみたかったのだ」
そんなやり取りがシルヴィエとエリシュカの間で行われていて、気が変わらないうちにとエリシュカがシルヴィエの馬背によじ登っていく。
「よし、しっかり掴まっていろエリシュカ! さすがに二人乗せると走るのが精一杯だが、逆に言えば走るだけならそれなりに速いぞ。一気に次まで駆け抜ける!」
「さすがはケンタウロス! わははは、集え精霊、我らが行く手を阻むものを永遠の氷塵に帰すのだ! それ行けシルヴィエ、ハイヨー!」
エリシュカと未だ昏睡するヴィオラ、二人を乗せたシルヴィエが力強く加速していく。
その前方では、早くもサシャが新手の死蟲と戦端を開いたところだ。例によって立て続けに蒼焔が噴き上がり、一歩遅れたイグナーツがサシャの背後をしっかりと守っている。
「サシャ君、イグナーツ殿! 行くぞ避けろっ!」
「おいエリシュカちょっと待――」
シルヴィエの肩越しにやおら短杖を突き出したエリシュカが、制止の声も聞かずに古代魔法をぶっ放した。
その杖先から出現したのは、小屋がすっぽり入るほどの凍てつく氷霧。
それが絹を引き裂くような鋭い音と共に、戦場をまっすぐ前方へと走っていく。
「ひゃあ、危なっ!」
氷霧の通った後、快進撃を続けていたサシャとイグナーツのすぐ脇に残されたのは、二人に襲いかかろうとした体勢のまま凍りついた死蟲群。そして、
「わははは! 仕上げだあ!」
無数の氷針が鈴のような軽やかな音と共に飛来し、氷霧の後を追って飛び去っていった。
一拍の間を置いてシャリンシャリンと砕け散っていく、凍りついた獲物群。
その砕片はいつしか中天を過ぎた陽光を受けてきらきらと輝きながら霧散していき、束の間の幻想的な光景を――
「――エリシュカ! だから毎回毎回危ないんだってば!」
「精霊たちがサシャ君に当てるものか! むしろより近くで見てもらいたくて張り切ってるようだというのに!」
「エリシュカ、さすがに心臓に悪すぎるぞ! 古代魔法というのはこんなにも圧倒的だというのに!」
サシャに加え、肩越しに凶悪な魔法を放たれたシルヴィエもエリシュカに文句を叫ぶ。
それもそのはず、彼女の眼前には暴れ狂う死蟲の奔流の中央をまっすぐ貫く、氷の道が出来上がっているのだ。
「威力については灰の効果と、いわばサシャ君効果の相乗だな! わははは、実に爽快! ほら道を作ったぞ、そら行けシルヴィエ、ハイヨー!」
「くっ、言われなくとも!」
ザリッザリッと音を立ててシルヴィエが走りだし、あっという間に全力の襲歩へと切り替わる。あまりの激しい揺れに馬背のエリシュカが慌ててヴィオラごとシルヴィエに抱きつき、言葉にならない悲鳴を残してサシャとイグナーツの眼前を通りすぎていく。
「使徒殿、我らも続くぞ!」
「わ、分かった!」
機敏に追走を始めたイグナーツに続き、サシャも負けじと疾走を始める。
古代魔法で切り開かれた道は前方の大岩を掠めるように直進しているが、目指す最後の未踏破ラビリンス、<死者の迷宮>の管理小屋はそこを回りこんだ先だ。
先行したシルヴィエとエリシュカ組から曲がり角でまた古代魔法が放たれたのを視界に収めつつ、どうにか追いついたサシャ。大岩ぎりぎりを巻き込むように曲がり、視線を上げた彼の目に映ったものは。
「な、何アレ。粘体魔獣、じゃないよね……」
強烈な腐臭が押し寄せる中、一面に凍りついた死蟲の大群の先に、未だぬめぬめと蠢く無数の黒い塊があった。
それは明らかに、これまでの先兵とは一線を画する上位存在。
この世のものとは思えないほどの存在感を放つ、圧倒的格上に位置する化け物がそこに顕現していた。




