80話 霊峰の災厄(後)
「こんな近道があったとはな」
「シルヴィエ、大丈夫?」
霊峰チェカルの東麓、人の気配が一切ない苔むした原生林の中。<偽りの迷宮>を後にしたサシャたち一行は、存在すら一般には知られていない急峻なけもの道を突き進んでいた。
エリシュカのリストに添えられたメモによると、ここを通って尾根を横切れば次の目標地、<湖底の迷宮>はすぐ目の前だという。
「あ、ここは気をつけてくださいませ。油断していると不意に滑りそうです。……それにしても、よくエリシュカさまはこんな抜け道を知っていましたね」
シルヴィエが皆に気遣われながらも、最後尾を危なげなく追随してきている。彼女の長い馬脚は、あまりこうした悪路には適さないのだ。
「ああ、今回ばかりは助かる。こんな時でないと通ろうとも思わないが」
それはケンタウロスのシルヴィエのみならず、普通のハンターやディガーも同じだろう。普通であれば一度ふもと付近まで下山して、そこから隣の尾根筋へ続く山道を登り直すのが正道である。
「まあ、普通は一日にひとつのラビリンスに行けば、それで充分こと足りるからな。エリシュカのように僅かな霊草だけをピンポイントに狙って、いくつもラビリンスをハシゴしようと考える方が珍しい」
「今回はエリシュカのその経験と知識と独創性?が役立ったね。ふもとまで降りてたらきっとすごい遠回りだよ」
「――それはそうと、さっきから魔獣はおろか野鳥の一羽も見当たらないのだが」
慎重に足を運びながらも軽口を叩くサシャに、先頭を買って出たイグナーツが肩越しに会話に割り込んできた。
「ラビリンスの不穏な気配を敏感に察知して逃げ出した、そういうことだろうか」
「確かに嫌な静けさだよね。カーヴィも怖がっちゃって、さっきからずっと鞄の中に閉じこもってるし」
「……まさか<湖底の迷宮>では、死蟲がもう外に溢れ出しているとかではあるまいな」
「…………急ごう」
「…………ああ」
それから全員が口をつぐみ、言葉少なに黙々と難路を踏破していく。そしてついに尾根の稜線まで辿り着いた、一行の眼前に広がっていた光景は。
◇
「木が邪魔で、まだ何も分からないねえ……」
「サシャ、ここまでもずっと林の中だっただろう。ここの標高だと延々とこんなものだ。何を期待していたのか」
「なんかこう、これだけ登ったんだしスカッと景色が一望できるような? 次のラビリンスの管理小屋もここから見えるんじゃないかなあ、と」
「まあまあ使徒殿。エリシュカ殿のメモによると、ここでけもの道を逸れ、まっすぐ斜面を降ったところに<湖底の迷宮>があると書いてある――」
尾根の稜線の裏側、それは広大な下り斜面に苔むした原生林が続いているだけの光景だった。巨木群の枝の奥に向こう側の尾根の登り斜面が垣間見えてはいるものの、その下の谷筋にあると思しき<湖底の迷宮>の管理小屋らしきものは未だ目視できない。
「――少なくとも、もう半分は来た筈だ。あとは一気に駆け降りるだけ、到着まで僅かの話だ」
「ですね、イグナーツさま。しかし、こちらの谷筋は輪をかけて山が静まり返っているような。死蟲が溢れ出ている訳ではなさそうですが、なおのこと薄気味悪い感じがします」
「ヴィオラ殿もか。我が大地神の剣も心なしかざわめいているような気がする。最悪の事態にまでは至っていないようだが、まずは急ご――」
イグナーツとヴィオラがそんな会話を交わした、その時。
谷底からの一陣の風に乗って、人々が怒鳴り合うような微かな声が一行の耳に届いた。
「行こう!」
サシャが真っ先に飛び出し、力強い馬蹄の音と共にシルヴィエがそれに続く。
こちら側は斜面が緩やかなこともあり、ケンタウロスならではの走破力でこれまでの鬱憤を晴らすかのように逆落としに疾駆を始めたのだ。
「必死になにかと戦っているような、そんな声に聞こえました!」
「まだ間に合う! 走れ!」
ヴィオラとイグナーツも懸命に斜面を駆け降りている。
日々の鍛錬に並々ならぬ熱意を傾けている二人である。サシャやシルヴィエには及ばないものの、飛ぶような速さで原生林の木々を縫って追随していく。
「あった! あそこ!」
「一気に突入するぞ! サシャ、先に行け!」
先行するサシャとシルヴィエの視線の先、そこには開けた谷底にぽつんとラビリンスの管理小屋が建てられている。周辺には誰もいないが、内側から壊されたと思しき窓、そこから激しい戦闘音が漏れ出てきている。
「言われなくても! ――扉、壊すよっ!」
韋駄天の如き速度で管理小屋までの距離を縮めていくサシャが、走りながら背中の双剣をすらりと抜き放った。
これまでの経験だと、大抵の入口の扉は外開きである。一度立ち止まって扉を手前に引く時間も、それで死んでしまう今の勢いも惜しい。ならば後のことは後で考えるとして、今はこの勢いのまま救援に駆けつけるのが最優先だと決めたのだ。
「内側に誰かいたらごめんなさい! うおおおおおおお!」
腹の底から吶喊の叫びを上げ、サシャは最後の数歩で勢いよく跳躍した。
みるみる迫る管理小屋の扉。激突する寸前に雷光のごとく双剣が十文字に振るわれ、そのままサシャは建物内部へと転がり込んだ。
「今度は何だっ! 神よ、外からも死蟲――」
他とほぼ同じ作りのラビリンス管理小屋。
斬撃と体当たりで分厚い扉を叩き壊した大音響と共にその中に転がり込んだサシャ。その視界に飛び込んできたのは、すぐ眼前に転がる死蟲の残骸。そして、奥にある転移スフィアの石室の前で激闘を繰り広げている、ハンターやディガーらラビリンス採掘者たちの姿だった。
「ポーションをもっと寄越せ! すげえ数が中にひしめいているぞ!」
「踏ん張れッ! なんとか凌いでさっきみたいに扉を塞ぐんだ!」
「マーリアがやられた! 誰か替わりに入ってくれ!」
石室の扉は跡形もなく、数人の男女がどこからか持ってきたテーブルを押し当てて必死に開口部を塞ごうとしている。死蟲が溢れ出てきているのは転移スフィアのある石室から、その戸口さえ封じてしまえば、という判断なのだろう。
けれども当然、間に合わせのテーブルでは開口部全てを塞ぎきれない。抑えきれずにその隙間から溢れ出てきた死蟲が管理小屋のホールで暴れ回り、完全武装のハンターたちが文字どおりの死闘を繰り広げている。
「――助けに来たよ!」
サシャはそんな状況を見てとるなり、跳ね起きて戦闘の輪の中に飛び込んだ。
後ろからは馬蹄の音も高らかに、青光を放つ神槍を掲げたシルヴィエも管理小屋へと突入してくる。
「な、なんだ!?」
「お、おおお死蟲が!」
電光石火の身のこなしで戦う男たちの間をすり抜けたサシャが、立て続けに死蟲を蒼焔に包んでいく。出会い頭に一体、そこから左に跳躍して一体、そして振り向きざまにもう一体。
溢れんばかりに青の力を注ぎ込まれた双剣がきらきらと光の粒子の軌跡を描き、それを叩き込まれた死蟲は即座に蒼く燃え上がる。天空神に愛されし<救世の使徒>という評判を確かなものとした、サシャならではの神兵のごとき戦いぶりだ。そして。
「救援に来たぞッ! 死蟲は我らに任せてそこを退け!」
後続のシルヴィエもサシャに負けてはいない。巧みな脚運びでそのしなやかな馬体を乱戦の中へと突入させ、目にも止まらぬ神槍さばきで残りの死蟲を次々と突き殺していく。
「し、神槍フーゴ!? いや、槍騎馬の方か! ってことはあれが噂の天人族か!」
周囲の戦士たちが唖然として見守る中、ホールに出てきていた死蟲は瞬く間に駆逐された。次いでサシャとシルヴィエが猛然と向かったのは、それら死蟲の流入元。
間に合わせのテーブルを開口部に懸命に押しつけ、必死の抵抗を続けている採掘者たち。この管理小屋が死蟲で埋め尽くされていないのは、偏に彼らの奮闘あってこそ。隙間から這い出てくる死蟲にポーションをかけては剣で殴りつけ、なんとかそれ以上の流入は食い止めようと決死の戦いがそこでは繰り広げられている。
「素晴らしい判断だ! だが後は任せろ!」
シルヴィエが矢継ぎ早に神槍で乱れ突きを繰り出し、テーブルの隙間から迫り出してきている死蟲の頭に片端から風穴を開けていく。
「え、ちょ、どういう――」
「お疲れ様っ! もう大丈夫だよ!」
一歩遅れて駆けつけたサシャが、シルヴィエが風穴を開けた死蟲にその双剣を突き立てる。同時に膨れ上がる蒼焔が死蟲の体を伝わってテーブルの奥へと燃え広がり、そこで蠢く無数の死蟲からけたたましい金切り声が上がった。
それで止まるサシャではない。
蒼焔が死蟲しか焼かないのを良いことに、テーブルの脇に残された隙間という隙間から双剣を突き入れ、さらに蒼き焔を追加していく。そして次なる行動の布石として、すかさず【ゾーン】を展開するのも忘れない。
「うわっ!」
「ちょいと失礼!」
「ちょ、ちょっとアンタっ!」
石室側からの途方もない圧力が刹那に霧散したテーブルを、サシャがひょいとずらして燃え盛る蒼焔の中へとその身を滑り込ませた。驚いたのはそれまでテーブルを必死に押さえていた男女だ。状況がさっぱり掴めていない彼らをよそに、シルヴィエまでもがその馬体を石室の中へと躍り込ませていく。
「皆さま、もう大丈夫です! 後はわたくしたちにお任せください!」
そこに駆け込んできたのはヴィオラとイグナーツだ。
特にヴィオラはこのザヴジェル独立領の領主の姪であり、知らぬ者などない練達の魔法剣士であり、さらに先のキリアーン奈落騒動の立役者としても知れ渡っている存在。
そのヴィオラのかけたひと声で混乱は一気に収まり、そしてそのヴィオラまでもが燃え盛る蒼焔に飛び込んでいったことにより、場は再び混乱へと叩き落とされた。それを鎮めたのはイグナーツだ。
「皆、よくぞここまで持ち堪えた! 今そこで燃え盛っている蒼き焔は天空神の怒り、邪な存在だけを燃やす聖なる劫火だ! 操っているのは<救世の使徒>、天人族のサシャ様! これより我らは奈落の手に落ちた転移スフィアを破壊する! 皆は怪我人の手当てなどをし、暫し吉報を待たれよ!」
そう叫ぶなりイグナーツも蒼焔燃え盛る石室の中へと突入し、取り残された誰もがその場で言葉の意味を反芻しはじめた、その時に。
「――――ッ!」
視界を埋め尽くす鮮烈な青光が石室の開口部から迸った。驚愕と動揺、言葉にならない叫びを上げるハンターたち。
そして。
徐々に視界が戻っていくそんな彼らの耳に入ってきたのは、石室に飛び込んでいった四人のものと思しき会話だった。
「……本当に熱くないのだな。自分から飛び込むのには少し勇気が必要だったぞ」
「えええ、だってさっきの所でだって熱くなかったじゃん。シルヴィエったら意外と固定観念に惑わされるタイプ? そういうものだって割り切って早く次に行こうよ」
「使徒殿、飛び出しすぎだ。いくら時間が惜しいとはいえ、今のところ使徒殿が唯一アレに対処できる存在なのだぞ。少しは安全にも気を配っておくべきだ。我らも露払いぐらいはできる」
「とりあえず早急に次に移るために、わたくしたちにできるお仕事をいたしましょう。……この場はまずわたくしに」
そんな言葉と共に石室の入口から足早に歩み出てきたのは、まさしく先ほど蒼焔に飛び込んでいったザヴジェル本家のヴィオラ。すぐ後ろから姿を現した残る三人も含め、全員が火傷ひとつ負っていない無事な姿だ。
思わず安堵の表情を浮かべる、その場に居並ぶ戦闘直後のハンターたち。先頭のヴィオラがそんな彼らをぐるりと見回し、美しい所作の敬礼をひとつして早々に口を開いた。
「皆さま、侵入していた死蟲は全て殲滅いたしました。これだけ速やかに対処できたのは、溢れ出る死蟲を石室に押し込めていた皆さまの奮闘あってこそ。素晴らしい機転でした」
「あ、ああ。それはヘドヴィカの奴のアイデアで」
「皆さまも本当によく戦ってくださいました。残る三ヶ所の未踏破ラビリンスでもここと同様に対処できていることを祈ります」
「……の、残る三ヶ所のラビリンスって、嘘だろ姫様。まさかここ以外のラビリンスからもあんな化け物が」
どよめくハンターたちを片手で制し、ヴィオラより先に言葉を継いだのはイグナーツだ。ヴィオラはヴィオラなりに要点を絞って話しているのかもしれないが、上流階級の社交術が裏目に出ているのだろう。まどろっこしく感じたイグナーツが割って入った形だ。
「諸兄、すまないが本当に時間がないのだ。ここはたまたま我々が間に合ったが、他がどうなっているか分からない。我々はすぐさまそれらに向かうがゆえ、この場は任せて良いだろうか」
「ま、任せるって――」
「この中に土魔法を使える者がいるのだろう? そこの戸口の床を見るに、初めはそれで塞ごうとしたのではないか?」
「え?」
僅かに苛立ったようなイグナーツのその発言に目を丸くしたのは、後ろにいたサシャだった。言われるまで全然気づいていなかったのだが、確かに戸口の石床が微妙に隆起している。それはまるで、ストーンウォールの魔法が発動しかかって邪魔された、そんなように見えなくもない。
改めて考えてみれば石室自体が堅牢な作りになっているし、戸口さえ塞いでしまえば、それでかなりの時間を稼げるのは間違いのない事実――そう感心するサシャ。
咄嗟の思いつきでやったのだろうが、目から鱗が落ちるような着想外の手段である。死蟲に直接の魔法は効かないとはいえ、南領境で城壁として大いに役立ったように、ウォール系で創り上げた石壁は有効なのだ。
イグナーツもひと目見てその有用性を認識していたのであろう、苛立ちを押し殺して称賛するような眼差しでハンターたちに頷きかけている。
「中の転移スフィアは完全に破壊した。おそらくもう死蟲は出てこないと考えているが、今なら邪魔も入らぬし、念のために続きをやっておいてもらえれば我々も安心して次に移れ――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
口早に話をまとめに入っていたイグナーツを止めたのは、先ほどからハンターたちの一番前で口を開いていた鎧姿の騎士だ。
「傭兵クラン<栄光の拳>のマスター、ベルナルトだ。まずこの場の全員を代表して礼を言わせてくれ。お陰で命拾いした、ありがとう」
そう言って深々と頭を下げ、尚もベルナルトは言葉を続ける。
「とんでもない事態になっているのはまざまざと理解した。あなた方を無駄に引き止めるつもりもないし、他でもここと同様に奈落の先兵なんてものが湧いているなら、是非そちらもあなた方の力で助けてやってほしいと思う。この場でしたい質問はひとつだけだ。――我々に手伝えることはないか?」
その真摯な眼差しは後ろにずらりと並んだ他の採掘者たちも同じだ。
少し前までは奈落の脅威など、遠い大陸南部の出来事だった。それが唐突にザヴジェルの南領境に現れ、そして今、自分たちの目で見て剣で叩いてその脅威を身に沁みて実感したのだ。音に聞く奈落の先兵が、今まさにザヴジェルに襲いかかってきたのだと。
「……ならば」
それまで沈黙を守っていたシルヴィエが口を開いた。その騎馬武者に等しい視線の高さから、けれどもベルナルトたちを見下すことなく言葉を連ねていく。
「ならば、貴殿たちが採用したスフィアの石室を魔法で塞ぐという方法、それを各所に大至急連絡してほしい。特に<神罰の迷宮>、そこでは確実に塞ぐように伝えておいてくれ。ユニオンの通信魔法具は生きているのであろう? 先兵が溢れ出る前に塞ぎさえ出来れば、それが全ての明暗を分けるかもしれない」
これから向かう三ヶ所の未踏破ラビリンス、そこでは既に溢れ出てしまっているかもしれないことについては、敢えて口にはしないシルヴィエ。それは自分たちがこれから叩き潰す、そう決めているからだ。
「――確かに承った。対奈落、キリアーン戦役の英雄たるあなた方に、更なる天空神のご加護があらんことを」
「貴殿たちにもな。この霊峰チェカルの周囲は全てザヴジェルだ。打つ手が遅れればどうなるかは分かるだろう? 騎士団に派兵要請はしてあるが、まだしばらくは来るまい。この先、貴殿たちに戦ってもらう局面が出てくる可能性は高い。何としてもここで奈落の先兵を食い止めるぞ」
「応ッ!」
居並ぶ採掘者たちが一斉に右肘を胸の高さに上げ、拳で左胸を叩いた。郷土を守る、その強い意思が込められたザヴジェル式の敬礼だ。
「では、我々は行く。後は頼んだ」
シルヴィエが凛とした声で告げ、颯爽と歩き始めた。ヴィオラとイグナーツ、そして敬礼を返していて少し遅れたサシャも一緒だ。
「……次は<赤の湿地迷宮>だ。ここのように上手く立ち回ってくれているといいのだが」
「急ぎましょう」
「ああ」
一行の表情は硬い。
異変に気付いた<神罰の迷宮>を含めれば、彼らが奈落を食い止めたのはこの<湖底の迷宮>で三つめ。未踏破ラビリンスはまだ三つ残っている。全てが同時進行で動いているとすれば、この先は溢れ出た死蟲の大群と戦うことになるのかもしれない。
無言で見送ってくれている、ザヴジェルを守るという同じ目的を持つ採掘者たちの中を足早に通り抜けながら、一行の足はどんどん早くなっていき、管理小屋を出る頃には全力の疾走となっていた。
だが。
そうして次の<赤の湿地迷宮>に辿り着いた時。
彼らは、最悪の懸念が的中してしまっていたことを知る。




