08話 サシャの癒し(前)
初夏の日差しの下、それから街道を進むことしばらく。
一行は何度か魔獣に襲いかかられたものの、幸いにしてどれもブッシュラットの群ればかり。凄まじいばかりの槍捌きを見せるケンタウロスのシルヴィエや、豹人族のコウトニー三兄妹――出身地の名前を取ってそう呼ばれているらしい――の怒涛の連撃により、これといった問題もなく進んできている。
それら個々の護衛たちも頼もしい限りなのだが、前の荷馬車に乗るボリスの的確な指示が特に冴えわたっている。この商隊が少数精鋭というのは本当だったんだ、生国ではちょっとした有名傭兵だったサシャも感心する程だ。
「なんだよ神父さん、気持ち悪い目で見やがって」
「あはは、ボリスさんはカッコイイな、って。オットーさんも護衛に恵まれてるねえ。やっぱりあの耳の人徳かな?」
「んだよそりゃ。あの人も耳のことは気にしてるからな、本人の前で言うんじゃねえぞ」
何度目かの襲撃を危なげなく撃退し、軽快に進んでいく荷馬車の脇ではそんな会話も交わされ始めている。初夏の日差しは徐々に強くなってきているが、ここザヴジェルは空気がカラッと乾燥しているからか、実に爽やかな旅行日和なのだ。
「そうそう、一応説明しておくとだな」
そんな呑気な空気を振り払うように、ボリスが真面目な顔になって馭者席からサシャを見下ろした。
「ここからファルタまでは比較的安全だけどよ、これまでもちょくちょく出てきてるように最近の魔獣の数は半端じゃねえからな。ちょっとの怪我でもすぐに治しとかないと、いざって時にそれが足を引っ張ったりするんだわ。毒を吹きかけてくる厄介なのもいるしな。最悪なのは、そんなのが開いたままの傷口にでもかかった日には――」
よほど痛いのだろうか、ボリスは思い出したようにぶるりと体を震わせた。
「だからよ、神父さん――ああもう、俺もサシャって呼ぶからな。そんなことでサシャ、この先誰か怪我をしたら、癒しはマメにしてくれると助かる」
ボリスはそこで破顔し、神の癒しってのも見てみたいしな、と屈託のない笑い声を上げた。よし来たと、そこで張り切るのがサシャである。
遠い故郷では異端認定された彼の癒しも、ようやくこの新天地で活躍の場が与えられたのだ。ここでは神殿の権威もたいしたことないようで、彼の癒しが頭ごなしに呪い呼ばわりされることもない。
何より、異端認定をされてなんだか否定されたような気分になっていた自分自身が認められたようで、サシャのやる気は早くもはち切れんばかりに膨れ上がっている。
「了解、任しといて! 誰かが魔獣に脚を食いちぎられそうになってても、繋がってさえいれば何とかしてみせるよ!」
「そうそう、それは安心――って、おい! そんな笑顔で随分と物騒なこと言うじゃねえか!」
「え?」
サシャとしてはこの商隊に愛着も湧きはじめ、癒し要員として雇われた身としても誠心誠意働きますよ、との意思表示も込めてみただけのことだったのだが、予想外に強烈なツッコミが返ってきた。
続くボリスの言葉を聞けば、どうやらここザヴジェルでの魔獣との戦いは、サシャの常識とはまた随分と異なるようであった。
「ったく、街道を行くだけでそこまでヤバいことにはならねえよ。どこから来たのか知らねえけど、ザヴジェルは騎士団が優秀だからな。大型の魔獣はもうここらにはいないんだ。それでも中型以下の、狩っても狩っても増えちまう奴らは油断できない相手だけどな」
「え、じゃあ目の前の魔獣と戦ってたら、空からワイバーンがああああ!とかにはならない? 地面からサンドワームが俺の脚をををを!とかも大丈夫? あ、ひょっとしてこの魔鉱石を採ったズメイとかも珍しかったりする?」
サシャが神父服の懐にしまってある魔鉱石の膨らみをぽんぽんと撫でると、ボリスはその父親じみた顔を盛大にしかめて頷いた。
「んなもんどこの魔境だよ、まったく。ザヴジェルじゃワイバーンに襲われる危険があるのは北の魔の森か、ハナート山脈の奥地まで分け入った時だけだぞ。あとズメイなんて旧スタニーク王国の方に行かないとお目にかかれない代物だ。あっちじゃ随分と派手に暴れ回ってるらしいけどな」
なんと、ワイバーンの脅威もサンドワームの脅威もこのザヴジェル独立領ではさほど身近なものではないようだった。生国アスベカでは傭兵として魔獣退治の最前線にいたために感覚がずれているのかもしれないが、それでもザヴジェルは随分と安全が確立されている土地のように感じるサシャだった。
サシャの意識の中では「北の果てのザヴジェル、イコール、ものすごい辺境」というイメージが強かったのだが、どうやらそれは全く逆なのかもしれない。安全という面でも繁栄という面でも、実はザヴジェル以外の方こそ本当の意味の辺境なのかもしれなかった。
「……つか神父さん、今その魔鉱石をズメイから採った、って言ったよな? まさか神父さんも討伐に参加したのか?」
「え、ああ、だいたいそんな感じ?」
思わぬボリスの質問に、サシャは慌てて視線を逸らした。そう、確かに討伐に参加していた。というか、懐の魔鉱石にはそれ以上のいわくがあって、あまり正確には話したくないというのが正直なところだった。
――その魔鉱石を手に入れたのは、サシャが傭兵を引退したきっかけになった戦いでのこと。
それは忘れもしない三年前の冬のことだ。
当時のサシャの雇い主だったアスベカ王国騎士団が、準備もろくに整わないままズメイ討伐に出たのが運の尽きだった。
狩れども狩れども押し寄せてくる魔獣との戦いに皆が疲弊しきっていたこともあり、蓋を開けてみれば二匹いたズメイに王国騎士団はあっけなく潰走。そしてその時、しんがりを押し付けられたサシャが死闘の末に返り討ちにしたのだ。
あの時はさすがに死んだかと思ったし、そんな自慢話のようなものを吹聴する趣味はサシャにはない。何よりあれは、サシャの勇名に嫉妬していた騎士団の上層部が、丁度いい機会とばかりにサシャを切り捨てていったのだ。
それまでいいように孤児出身のサシャを使い続け、挙句の果てにそれである。以来サシャは人前で自分の強さを見せることに若干のためらいを覚えるようになっている。周囲に迷惑をかけぬよう、必要とあらば全力を出して戦うのは全然構わない。けれど、必要がなければ戦いは最低限でいいし、過去の武勇伝を自分で吹聴するのはなおさら不要なことだと思うのだ。
それに、何を言っても華奢な見た目が災いして信じてもらえないことが多いし、逆に真っ向から信じられ、変に周囲から期待されるようになると貧乏くじを押し付けられる確率も上がる――ズメイ相手に、単独でのしんがりを押し付けられたように。
結局それがきっかけで、サシャは傭兵業から足を洗ったのだった。
その際、命を救われたベテラン傭兵たち全員の連名による働きかけで、斃した二匹のズメイのうち一匹の魔鉱石をまるまる貰えたのは僥倖といえよう。それは彼らのできる最大限の感謝の表れであり、格好の引退資金であった。
……いざ魔鉱石を売ろうとしたら、ザヴジェルの魔鉱石市場が特殊で買い手が限られていることまでは、サシャも含めて誰一人として予想していなかったけれども。
「お前さん、見た目によらず無茶するんだな……」
ちょっとした回想に耽っていたサシャを、ボリスが呆れた眼差しで眺めている。
サシャの心の声が漏れたわけではない。ズメイ討伐に参加したことについて言っているのだ。
「さっき確かに剣の腕には驚かされたけどよ、ズメイを相手にして生き延びただけでも拾いもんだぜ? どこの国か知らないが、そうやって魔鉱石があるってことは騎士団に加えて軍も動いたんだろう? ズメイとなりゃどこの騎士団にしたって追い払うのが精一杯だからなあ。……あれ? でもよくそれでお前さんが魔鉱石なんてもらえたな?」
悪気はないボリスの、けれど絶妙な追求にサシャの視線が再び泳ぐ。
「あはは……まあ、ちょっと頑張ったというか、たくさん命を救ったというか?」
「おお、そこで神父の本業、癒しってヤツだな。そんな魔鉱石をもらえるぐらいだし、よっぽど強力な癒し手なんだな。ポーションに頼らない神の癒しなんて話にしか聞いたことないけど、こりゃ期待してるぜ」
「ままま任せといて!」
サシャが大袈裟に胸をどんと叩いた、その時。
「――お喋りはそこまで!」
肩越しに叫ばれたシルヴィエの鞭のような声が、ボリスとサシャの会話を強引に打ち切った。
見れば先頭の彼女はピタリと脚を止め、油断なく愛槍を構えて前方を睨みつけている。街道が緩やかに曲がりつつ林に入っていく、その先だ。
「……ボリスさん、ちょっと行ってくるね」
「……ああ、油断するな。シルヴィエと一緒に動くんだぞ」
ボリスが後続のオットーたちに合図をして待機させている間にも、サシャは警戒態勢を取るシルヴィエの元へと音もなく駆け寄っていく。
「来たか。分かるか、この匂い?」
均整のとれた馬体の上から、槍を構えたまま振り向きもせずに問いかけてくるシルヴィエ。
サシャは言われるがまま背伸びをして周囲の匂いを嗅ぎ、即座に背中から双剣を抜き放った。
「……血、だね。それも複数の人間の」
「ほう、亜人でもないのにそこまで分かるか。周囲に動きはない。おそらくはあの林の中、事後だな」
シルヴィエが言っているのは、この先で商隊が魔獣に襲われ、既に敗北という形で決着がついている可能性が高い、ということだ。
人の血の匂いはまず商隊と魔獣の戦いを意味し、広がる静寂はそれが既に終わっていることを意味する。にもかかわらず未だ血の匂いがここまで流れてくるという事は、商隊側に手当をする人間が残っていないことを濃厚に示唆しているのだ。例外は多々あるが、今のこの場合はほぼ間違いないようにサシャにも感じられた。
「匂いが新しいし、まだ息がある人がいるかも。ね、行ってみてもいい?」
「……私も行こう」
シルヴィエが後ろを振り返り、複雑なハンドサインをボリスへと送った。
戦い、事後、偵察、その場で待て、そんな意味合いのものだ。この周囲の静けさからすれば声で伝えて良いのかもしれないが、万が一魔獣が付近に残っていた場合を考え、人の血に酔ったそれらをこれ以上呼び寄せてしまう可能性を排除したかったのだろう。
「今の、後で教えて? 知ってるのと微妙に違う」
「……構わないが、既に知っているものがあるということか。サシャ、お前は神父ではなかったか――チッ!」
言葉の途中でシルヴィエが猛然と駆け出した。
曲がり角を曲がった途端、林の奥から魔獣の唸り声が上がったのだ。そして同時に、助けを求める女の声も。
「今行くッ!」
砂埃を巻き上げ、逞しい馬体の四脚で瞬く間に林との距離を詰めるシルヴィエ。そしてサシャも負けてはいない。全力疾走するケンタウロスに遅れること数歩、人にあるまじき速度で追随している。
「なッ! お前、何故ついてこれる――」
「話は後! フォレストウルフの群れだよっ! 背中は任せた!」
あっという間に到達した林の間を紙一重で駆け抜けながら、ついにシルヴィエを追い抜いたサシャが叫ぶ。生い茂る木立に正面から突入した関係上、どうしても馬体の大きいシルヴィエは速度を落とさざるを得なかったのだ。
「させるかあああっ!」
逆に速度を上げすらしたサシャが、最後の木々を抜けた瞬間に大きく跳躍した。その先に広がっているのは見るも無残な惨劇の跡。
街道上で横転した馬車と無惨に転がるいくつもの人影、濃密な血の匂い、二十は下らない口元を真っ赤に染めたフォレストウルフの群れ、そして――
「喰らえええ!」
銀光一閃。
障害物をひと足で飛び越えたサシャの左手の曲刀が、今まさに最後の獲物の喉笛に喰らいつこうとしていたフォレストウルフの胴体を分断した。
そして残る右手の曲刀が、すぐ隣に群がっていた別の一匹の肩から上を斬り飛ばす。続けざまに左でもう一閃、着地して右でもう一閃。
瞬く間に四匹を血祭りに上げたサシャがその残骸を蹴り飛ばすと、下から血塗れの若い女が現れた。今にも息を引き取りそうな瀕死の状態ながらも、傷だらけの両腕で産後間もない赤子を護るように抱きしめている。
「えいくそ、間に合えっ!」
双剣を投げ捨てたサシャの両手から青い光が溢れ出す。なりふり構わない、全力の癒しの光だ。静謐な光が惨劇の場にぶわりと広がり、そして――
「この馬鹿ッ! 魔獣の真ん中で武器を捨てるなッ!」
――ひと足遅れで突入してきた美しきケンタウロスが、その槍で矢継ぎ早に周囲のフォレストウルフを屠っていく。
「だって、赤ちゃんが!」
それは心の叫び。サシャは遅れて駆けつけたシルヴィエを振り返りもせず、必死に癒しの光を親子に注ぎ込んでいる。その姿はまばゆいほどに青く光り輝いており、あまりの神々しさに戦闘中のシルヴィエが思わず振り返るほどだ。
「お願い、二人とも戻ってきて! もう大丈夫だから!」
サシャから溢れる青の光がひときわ強く輝き、そして。
火のついたような赤子の泣き声が辺りに響き渡った。
固くこわばっていた母親の両腕がびくりと動き、そんな赤子をぐっと胸に抱え込む。
「ま、間に合ったあ……」
そう。
サシャのなりふり構わない命がけの癒しが、かろうじて間に合ったのだった。
「これが、神の癒し……」
サシャが疲れの浮かぶ顔を上げれば、シルヴィエが呆然とした眼差しで自分を見つめていた。周囲の魔獣はすでに残らず逃げ去っている。彼女の槍先から血が滴っているところを見ると、突入前に頼んだとおりにサシャの背中を守ってくれたのだろう。そう頼んだ時はただ、自分の方が前で突入しそうという、それだけの理由だったのだが。
何はともあれ、親子の急場は凌いだのだ。
サシャは大きく安堵の息を漏らすと、言葉もなく自分を見下ろす美貌のケンタウロスに向かってペコリと頭を下げた。
「ごめんシルヴィエ、飛び出しちゃった。それと、ありがとう。……こういうの、昔から特に弱くって」
「あ、ああ。飛び出したのは構わないが、こういうの、とは? その親子は無事救えたようだが」
「ん、子供を守る母親とか親をかばう子供とか、そういうの。自分が孤児だったからかな、なんか憧れがあるのかもね。あは」
そう言って親子に戻されるサシャの紫水晶の瞳はどこまでも優しく、そしてどこか眩しいものを見るような、思わずシルヴィエが声をかけるのをためらってしまうものだ。
いつしか泣き止んだ赤子は母親の胸にしっかりとしがみつき、死相が浮かんでいた母親の顔には血色が戻ってきている。我が子を抱きしめる腕の力強さを見れば、彼女が意識を取り戻すのも近いのだろう。
新天地ザヴジェルにおけるサシャの癒しは、まずは大成功から始まったのだった。