75話 ラビリンスの異変(後)
「……サシャ、これはどういうことだ!?」
「いやいや、こっちが聞きたいから!」
眼前で繰り広げられている、ラビリンスの魔獣と飛行蟲の数千規模に達する壮絶な争い。
それはいかなサシャとて、想像だにしていなかった光景だ。
「飛行蟲と戦っている相手は味方……そのつもりでしたけれど。さすがに、これは――」
「いや待てヴィオラ! なぜ魔獣の攻撃が飛行蟲に効いている!?」
「――っ! 確かにそうですっ! なんでズメイはもちろん、ラプトルの攻撃まで――!?」
ひゅう、と息を飲みこむサシャ。
シルヴィエとヴィオラの会話を聞くなり即座に閃いてしまったのだ。それは多分、ここがラビリンスの【ゾーン】の中だから、と。
「使徒殿、どうする? さすがにこれは想定外もいいところだ」
「違うぞサシャ君、双方が争っているこれはまたとない好機だ! ここは私が一発、とっておきの古代魔法で両者を一網打尽に――」
この予想もしていなかった状況に、さすがに全員の意思統一も乱れている。けれどもサシャは咄嗟に言葉を出せず、ぐっと拳を握りしめた。
まず、ラビリンスが【ゾーン】を使っていることは、ここの皆にもまだ秘密にしておきたい。なにせ【ゾーン】は天人族の秘術という触れ込みで、自分はもちろん姉ダーシャも大々的に使っているものなのだ。
さらにいえば少し前、二度目にラビリンスに入った際にサシャとラビリンスの高い親和性が問題視され、<歩くラビリンス>との類似性がどうのと過敏な反応をされた記憶も新しい。
……結局のところ、その<歩くラビリンス>に関する詳細は聞きそびれているけれども。
ここでそのラビリンスが、天人族姉弟より大規模かつ継続的に【ゾーン】を使いこなせていると広まってしまうのは、さすがにマズいとサシャにも分かるのだ。
エリシュカの言葉に乗って、この場の魔獣を問答無用で殲滅してしまいたい気持ちはある。そうすれば全てを曖昧にして流せるかもしれないからだ。だが、そうするには躊躇いがあって――
「待てエリシュカ! この守護魔獣の間の魔獣に限っては敵とも言い切れないだろう! 先日の<密緑の迷宮>を忘れたか!」
「そうだエリシュカ、ここは使徒殿に判断を委ねるべき場面だ。使徒殿、考えはまとまったか?」
シルヴィエとイグナーツの頼れる二人が、サシャの躊躇いを見事に言葉にしてくれた。
そうなのだ。
この間の<密緑の迷宮>では、魔獣たちはまるでコアの意思に従っているかのように攻撃を取りやめていた。
ということは、今彼らが飛行蟲と壮絶に戦っているのも、もしかして。
「そうだ、コアは!? ここのコアはどうなって……」
ハッと顔を上げたサシャの叫びは途中で途切れた。
コアが鎮座しているであろう円形闘技場の向こう側、そここそが最大の激戦区だったのだ。無数の飛行蟲が上からも下からも殺到し、コアの鮮烈な青光すら覆いつくされている。
魔獣たちはまるでそれを食い止めようとするように群がり、暴竜ズメイがそこに合流しようと狂ったような奮闘をしていて、その穴を埋めるかのように新たなラプトルも次々と召喚され続けていて――
「そういうことか! 今いくよっ!」
サシャは弾丸のように飛び出した。
眼前の激闘の意味が分かったのだ。奈落がコアを、若きヴラヌスを襲撃しているのだ。魔獣たちはそれを必死に守っている。続々と魔獣が召喚され続けているのは、今こそまさにその攻防が繰り広げられているという証拠。
ならば、今サシャがするべきことは。
「おい! 使徒殿、待て!」
「サシャさま!」
飛行蟲がどうやってここに入ってきたかとか、成体手前のヴルタを襲って奈落は何がしたいのかとか、その辺は見当もつかない。けれどもこのまま奈落の好きなようにさせて良いはずがない。
……今行くから、もうちょっとだけ頑張れっ!
夢中で駆け出したサシャの耳に飛び込んできたのは、シルヴィエの呼び声だった。
「サシャ、独りで行くな! 理由は後で聞くから共に戦うぞ! 我々は奈落と戦う一心同体の仲間だろう!」
仲間。
その言葉がなぜかサシャの胸を鷲掴みにし、咄嗟に足を緩めさせた。
振り返れば聖槍や神剣を構えたシルヴィエが、ヴィオラが、イグナーツが、必死になって追いかけてきている。
「ごめん! それとありがとう! 奈落に襲われているコア、助けようと思って!」
「そういうことか、任せろ! あの飛行蟲の数だ、囲まれたら危険だぞ! さっきの陣形を保って突っ込む!」
「はいっ! 敵は奈落、そこに間違いはありません!」
「ま、待ってくれ私を置いていくな! か弱い魔法使いなんだぞ!」
「エリシュカ殿、ちょっと失礼!」
「ひゃあ!」
頼もしい仲間たちが一気にサシャに追いつき、そして魔法使いのエリシュカはイグナーツの逞しい腕に抱えられて顔を真っ赤にしている。
「よし、じゃあみんなお願い! そうだ、助太刀の挨拶代わりにこれを!」
大きく息を吸い込んだサシャの視線の流れに従って、その足元から阿鼻叫喚の円形闘技場を横切ってコアがいる激戦区まで、一本の太い帯が道のように石造りの地面にくっきりと浮き彫りになっていく。かなり上達してきたサシャの【ゾーン】だ。
わざわざそんな形にしたのには理由がある。範囲を広げすぎると、コアの【ゾーン】を奪って戦いの邪魔をしてしまうかもしれない。コアは今、次々とラプトルを召喚して戦っている最中なのだ。
ならば出来るだけ範囲を絞って、更にこれから皆で蹴散らす飛行蟲から自分も無駄なく力を吸収できる、そんな思惑から展開されたサシャ自身の【ゾーン】。
あわよくば、なぜ今魔獣に攻撃が通っているのか、これで皆が忘れてくれたらありがたいし、できればコアがこれに気付いて、仲間割れを防ぐために魔獣たちへ味方が来たと伝達してくれれば最高だ。
「おおっ、使徒殿の【ゾーン】か! これなら不確定要素なく戦えよう!」
「この道に沿ってまっすぐ突っ込めばいいのだな! 分かったぞサシャ!」
「さあ行きましょう!」
なんだか皆は少し勘違いしているみたいだが、それはそれ。説明している時間すら惜しいのだ。サシャは「じゃあみんなお願いっ!」とひと声叫んで、再び猛然と走り始めた。皆も阿吽の呼吸で走り出し、見る間に綺麗な陣形が整っていく。
目指すは飛行蟲と魔獣が大乱闘をする向こう側、目的はコアの救援と奈落勢の殲滅。
「どけえええ邪悪な虫けらめ! 我らの前に立ち塞がれると思うな!」
「お願い! コアのところまで通して! 味方だよっ!」
速度を落とさぬまま吶喊の叫びを上げ始めたシルヴィエの脇で、サシャが声を振り絞って前方で暴れ狂う魔獣たちに呼びかける。効果があるかは分からないが、やらないよりはマシだと閃いたのだ。
このままだと、魔獣ごと蹴散らしていかないと進めない。
同じくコアを守ろうとしている者同士、それが悪手なことは火を見るより明らかだ。
だが、死闘を繰り広げている数千もの凶暴なラプトルにそんな叫びが届くはずがない。
各々が咆哮を上げて狂ったように飛行蟲に飛びかかり、喰らいつき、そして飛行蟲の鋭い鎌となった前腕で無惨に返り討ちにされていく。
「ええい! じゃあこれならどうだっ!」
サシャは円形闘技場のとば口を駆け下りながら、ありったけの青の力を全身にみなぎらせた。
コアが持っているのも同じ青の力、こうしておけば仲間だと気付いてくれるかもしれない。力の節約は考えなくていい。眼前の大乱闘の凄絶さを裏付けるかのように、先ほど展開した【ゾーン】からとめどもなく力が流れ込んできているのだ。
「みんな、ちょっとだけ待って!」
サシャは一瞬の猛烈な加速でシルヴィエを追い抜き、そのまま一気に大乱戦の中へと飛び込んだ。
そして人外の反射神経で乱闘外縁部を駆け抜け、飛行蟲だけを片端から青い焔で燃え上がらせていく。暴れ狂うラプトルを何匹か突き飛ばしたが、頑健なラプトルの中でも帝王と名付けられるほどの種だ。突き飛ばされた先で即座に、怒りの咆哮と共に跳ね起きて戦いを再開させている。
「サシャ、一体何を――」
シルヴィエの声が聞こえた時には、サシャは予想以上の手ごたえを感じていた。
近づいたラプトルが一瞬の硬直の後にその場から後ずさり、進路を譲ってくれるようになったのだ。
背後で盛大に燃え上がる青い焔も、彼らの注意を引くに充分なものがあるのだろう。
なにせ彼らの召喚主たるラビリンスコアが持つ青の力と同じ力が、敵である飛行蟲を片端から浄化するがごとく燃え上がらせているのだ。
そんな力を振るうサシャに、まるで感情を持っているかのように何事かと凝視する爬虫類の視線がひしひしと突き刺さってくる。
「――サシャさま、ラプトルがっ!」
「ラプトルが退いていく!?」
「そういうことかっ! さすがは使徒殿、クラールに愛されし者! その神威には魔獣ですら敬意を払い!」
「好機ですっ! サシャさまに続きましょう! 敵は飛行蟲、奈落の先兵だけっ!」
「応ッ! 邪魔者はいなくなった! 残った奈落の回し者はこの聖槍で片端から貫いてくれるッ!」
「イ、イグナーツ殿、降ろしてくれ! 私も古代魔法で戦うぞ!」
仲間たちが勇ましい叫びと共に一斉に参戦し、サシャが討ち漏らした飛行蟲を次々と屠りながら駆け寄ってくる。
戦女神もかくやと思われるほどの槍さばきで、半人半馬の高所から手当たり次第に飛行蟲を貫いているシルヴィエ。その隣を神出鬼没に動きまわり、緑白に輝く神剣で鮮やかな蹂躙劇を繰り広げていくヴィオラ。
エリシュカもイグナーツの腕から飛び降り、頭上に無数の氷塊を浮かべながら必死に走ってくる。近接戦闘は周囲に任せ、空中から襲いかかろうとする飛行蟲が近づくや否や、その氷塊を矢のように飛ばして撃墜しているのだ。
「さあ使徒殿、行くぞ!」
そんな三人を神盾で厳重に守りながら駆け寄ってきたイグナーツが、サシャの背に鎌脚を向けようとしていた飛行蟲を目にも留まらぬ一閃で屠り去った。
護りの神盾を瞬時に大剣に戻し、その長い腕で必殺の一撃を繰り出したのだ。
イグナーツはその神剣の性能が故に護りの面ばかりで活躍しているようだが、本人の資質としては生粋の剣士。それも熟練の、樹人族ならではの長い腕を活かした剛剣を振るう凄腕剣士なのである。
「さあ使徒殿、世界の侵略者からをコアを護るのだ!」
「奈落にラビリンスコアを取られるなど、サシャさまの言うとおり良くないことに決まってます! さあ行きましょう!」
「サシャ、私と二人で前衛をするぞ! 敵さえ絞れれば今さら飛行蟲など!」
「わははは! 精霊が張り切って仕方がないぞ! それあいつも撃ち落とせ、ヒャッハア!」
なんだか一人危険人物が混じっているような気がしないでもないが、仲間たちと合流したサシャは皆と一緒になって駆け出した。
これでなんとかなりそう、そんなサシャの直感は正しい。
それだけ一丸となった仲間たちの攻撃は卓越しているのだ。
もちろん行く手からラプトルが引き潮のように退いてくれることも大きい。群がるラプトルが急にいなくなり、そこに取り残されていく満身創痍の飛行蟲――それが動き始める間もなく、幾筋もの攻撃が降り注いで屠り去っていく。
貫通力に磨きがかかったシルヴィエの乱れ突き、青の力を潤沢に注がれたサシャの双剣。正面に取り残された飛行蟲はそれだけで大半が動きを止められ、蒼い焔に包まれる。そしてそこにヴィオラの神剣とエリシュカの精霊魔法も加わり、余裕があればイグナーツの斬撃もだ。
「ありがとうみんな! でも急ぐよっ、なんだか嫌な予感がする!」
「応ッ!」
「はい!」
五人が一丸となって進撃するその速度は、まさに破竹の勢いそのものだ。
立て続けに燃え上がる蒼焔の示威効果もあってか、前方で飛行蟲に群がっていたラプトルが潮のように道を空け、そこに五人の怒涛の攻撃が殺到していく。
サシャとシルヴィエが振るう、清冽な青光を伴うヴラヌス由来の力。
ヴィオラの神剣に宿る、緑白に輝く破壊神ゼレナの力。
そしてイグナーツの神剣は大地神ゼーメの神遺物であり、エリシュカの古代魔法の源は、この世界の四代元素を司る精霊の力だ。
それぞれの力は奈落の先兵である飛行蟲を軽々と貫き、切り裂き、燃え上がらせ、敵ともせずに道を切り開いていく。獰猛な魔獣と奈落の先兵が争う壮絶な乱戦の中、五人はあっという間にすり鉢状の円形闘技場の中央付近まで下り終えた。
このまま一気にコアのところまで!
サシャが縦横無尽に双剣を振るいつつ、そう思ったその時に。
――次世代を託されし者よ 救援感謝する だが吾 もうこの【外なる空虚】の手の者らを 抑えること能わず……
サシャの頭のどこか遠いところに、そんな絶望的な声が届いた。




