62話 状況の変化(前)
本日3/3話目。
1/3話目は幕間なので読み飛ばしても大丈夫ですが、よろしければそこの前書きだけでも目を通していただければ。
長らく間が空いてしまったので第二部までの簡単なあらすじと、今後の投稿予定などを書いてあります。
「――キリアーン渓谷に出現したという今回の奈落は、消滅している可能性が高いわ」
未曾有の激戦が連日繰り広げられているザヴジェル南境、そのザヴジェル騎士団の南方駐留部隊本部の作戦会議室にて。
「私が見てきた範囲では、あれだけいた死蟲すら残っているのはほんの僅かだったわね」
いの一番での偵察から戻った天人族の月姫の報告に、居並ぶ重鎮たちが一斉にどよめいた。
「……まさか奈落が、そんなに簡単に?」
「……あの夥しい死蟲も消えただと?」
「……どこかに移動したのではないのか?」
誰一人としてそんなに呆気なく奈落が消えるなどとは思ってもいなかったが故に、どよめきはなかなか収まらない。司令官のヘルベルトが咳払いをし、代表して質問の手を上げた。
「ダーシャ様、もう少し詳しい話をお聞かせ願いたい。偵察してくださった範囲、死蟲の様子、奈落が消滅したと予想するその根拠など――」
「そうね、私もちょっと予想外の展開だったわ。まず今回飛んできたのは――」
ダーシャがその漆黒の翼を背中に畳みながら、自らの行動を振り返るように報告を補足していく。
「南は旧キリアーノ領のかなり奥、ツァルダ川といったかしら、そこまでね。キリアーン渓谷に向かって一直線にそこまで飛んで、帰りは海側、東に大きく迂回して戻ってきたの」
「なんと、この短時間でそんなところまで。ツァルダ川といえば、キリアーン渓谷までの半分強を進んだ位置か……ふむ」
司令官のヘルベルトらが卓上に広げた地図を覗き込み、補佐官が指で大体の行路をなぞっていく。
「改めて上空から見ると、旧キリアーノ領は酷いありさまだったわ。まるで禁呪を連発されたかのような、焼け焦げた大地が延々と広がっていた。けれども瘴気どころか、空気に淀みは一切ない」
「……ふむ。先兵が引き連れる瘴気の霧に飲まれたが最後、その土地は暗黒に喰われて消えるとは言われていますが。そこまで旧キリアーノ領に踏み込んでも、瘴気は消え失せていましたか」
「ええ、欠片もなかったわね。そして残念ながら死蟲はちらほらと残っていたけど、明らかに数が少ない上に行動がてんでバラバラに見えたわ」
騎士団の重鎮たちの間に再びどよめきが走る。
つい昨日までは大地を埋め尽くすほどに夥しい数がいたのである。多少は昨日の戦いで屠ったにしろ、一夜にして消え失せるとはにわかには信じられない話であった。
「そう、あれだけの数がいたのにね。そしてそれが奈落が消えたんじゃないか、私がそう感じた一番の理由。数だけの問題じゃないの。残った死蟲は東で魔獣に襲いかかっているものもあれば西に走っているものもあって、互いに争いすらしているものもあったわ。それはまるで――」
そこで一旦言葉を切り、少女の外観を持つカラミタ禍の英雄は騎士団の重鎮たちをぐるりと見回して言葉を継いだ。
「――取り残された残党が、統制を失って好き勝手しているかのような」
「なんと……」
「まあ、あくまで上空から眺めた印象に過ぎないし、断定はしないわ。見てきた範囲の個人的見解として、奈落が消滅した可能性も念頭に入れるべき、ってところ。フーゴおじさんとか、地上で偵察に出た他の人の話も聞きたいところね」
フーゴら<青光>傭兵団のケンタウロス勢は、騎士団の偵察部隊と手分けをして近隣を広く浅く確認に行っているらしい。空から彼らも帰還しつつあるのが見えたので、間もなく戻るはずよ。ダーシャはそう話を締めくくった。
しん、と静まり返った場だったが、一拍置いて居並ぶ面々が徐々に口を開き始めた。
「……まあ確かに、ダーシャ様の話を聞く限りは奈落消滅の線が真っ先に頭に浮かびますな。瘴気が消え、死蟲の大半も姿を消し、残りは勝手に動き回っているという」
「予想外ですが、頭ごなしの否定もできませんな。連日の攻勢に何者かの統制はあったことは誰もが認めるところです。敵わないと思ったらあの大群が一斉に退く、退いて新たな攻め手を加えてからまた一斉に攻めてくる」
「ふむ。ただその統制についてだけいえば、今の状態は、昨日の戦いで指揮系統が壊れただけという可能性も捨てきれまい。奈落そのものが消えたと決めてかかるのはまだ早い。月姫様の言うとおり、他の偵察者の報告を待つしかあるまい。それと――」
がやがやと話し始めた重鎮たちのうちの一人の物言いたげな視線を受け、ダーシャは力強く頷いた。
「ええ、もちろんもう一度飛んでくるわ。今度は奈落が出現したというキリアーン渓谷、そこまで行って直接確認してくる。フーゴおじさんたちの話を聞いたらすぐ発つつもりよ。日暮れまでには戻ってきたいところね」
「助かります、月姫様」
「いいえ、元々そのつもりだったもの。今回はとりあえずの第一報を入れに戻ってきただけ。あと、そうだわ、今のうちに言っておくわね。さっきの一幕で薄々分かってしまったと思うけれど、この子は」
唐突に振り返ったダーシャの視線を追い、部屋中の注目が一斉にサシャに集まった。「ひえっ」と小さな悲鳴を飲み込んだのは当のサシャ。奈落の動向について彼なりに考え込んでいたところの不意打ちである。が、翼を持つ少女はおかまいなしに高らかに宣言した。
「この子は、間違いなくアレクサンドル――例の神隠しに遭った悲劇の赤子よ! 天人族の真の英雄ヤーヒムの実子であり、名族シェダの嫡流リーディア=シェダの忘れ形見であり、そして私の弟! これまで探すのに協力してくれた皆に、父に代わって御礼を言わせて。本当に、ありがとう」
そう言ってその場で深々と頭を下げるダーシャに、部屋の空気は一転した。全員が一斉に立ち上がり、口々に驚きと祝福の言葉が紡がれていく。
「おおお! やはりか!」
「長年の心労もこれで晴れましたな! おめでとうございまする!」
「稀少な天人族に後継がもう一人、なんとめでたいことか。しかも英雄の子はやはり英雄。昨日までの大活躍も大いに頷けるというもの!」
「この慶事、ザヴジェルの民草が知ればどれだけ勇気づけられることか。是非とも――」
それらの祝福にダーシャは笑顔で受け答えをしているが、サシャは次々に降りそそぐ大仰な言葉に居た堪れなさで一杯である。正直、すぐ脇にいるシルヴィエの陰にそそっと隠れてしまいたいところだったりする。
けれども、眼前のお歴々が自分の捜索に協力してくれていたらしいという意味でも、英雄たる姉や両親に見合う振る舞いをしなければという意味でも、精一杯取り繕って神妙に頭を下げるサシャ。
ここでさらりと気の利いた演説のひとつでもできれば格好いいとは思うのだが、そこはそれ。さすがに自分には無理すぎると理解しているサシャであった。
「――まあでも、呼び方はアレクサンドルではなく、これまでどおりサシャと呼んであげてちょうだい。接し方もこれまでどおりで良いわ。本人もそれを望んでいるし、ね?」
そんな姉の気遣いにも助けられ、サシャはそうっと顔を上げてみた。するとそこには、温かい笑顔で全員が自分と姉を心から祝福してくれている光景があった。
……サシャがザヴジェルを更に好きになった瞬間である。
そうこうするうちに、感激に目を潤ませたヴィオラが立ち上がり、胸が一杯といった様子でぱちぱちと手を叩きはじめた。それが作戦会議室の全体に広がって、満場総立ちの拍手に変わっていく。
「あは、あはは。……ありがと、う」
天涯孤独の捨て子だった自分を、こんなに大勢の人が受け入れてくれている。
未だにどこか信じられなくて、でも嬉しくて、上手く言葉が出てこなくて。どうにか一番伝えたいことだけを口から押し出すサシャ。
それを聞いた皆の拍手がさらに高まって。
やがて満面の笑みのヘルベルトが机を回り込んでダーシャとサシャの前に来て、剣ダコのあるごつごつした手でサシャの手を握りしめた。
「サシャ君、我々は貴君を心より歓迎する。今更にはなるが、あえて言わせてもらおう――ザヴジェルに、おかえりなさいと」
そう言ってサシャの手を両手で握ったまま、心底嬉しそうに微笑む司令官ヘルベルト。
「本来なら全騎士団を揃えて盛大に祝宴を開きたいところではあるのだが――」
「そそそそれは勘弁して、ヘルベルトさん! い、今はそれどころじゃないし!」
「ふふふ、さすがはサシャ君だ。祝宴はいずれ必ず開くとして、今は奈落の対応を先にさせてもらうとしよう。先ほどの姉君の報告で何やら風向きが変わった気配もあるが、未だ予断を許さない状況。祝宴は今しばらくお待ちくだされ」
「もも、もちろん! 奈落のことで手伝えることがあったら手伝うから!」
「おお、ではこれまでどおり頼りにさせてもらいますぞ。これからも、どうぞよろしく」
「こここ、こちらこそっ!」
サシャの言葉に拍手がさらに大きくなり、やがてヘルベルトが小さく手を上げてそれを押し留めた。
「――類稀なる天人族の若者に、一同、敬礼!」
居並ぶ騎士団の重鎮たちが、ザッと音を立てて一糸乱れぬ複雑な敬礼をした。
それは相手に対する最上級の感謝と未来の幸運を祈るもの。サシャも慌てて覚えている唯一の敬礼を返す。兵士たちと交わし合った、右肘を胸の高さに上げて拳で左胸を叩くというシンプルだが格好いいアレである。
残念ながらそれは一般兵が挨拶代わりに使う軽いものなのだが、それはそれ。
こうしてサシャは本格的に天人族の一員と認められ、ザヴジェルに改めて温かく迎え入れられたのである。
◇
「いやあ、神父殿があの天人族だったとは。只者でないとは思っていたが、驚いたぞ」
「あはは……こっちもびっくりなんだよねえ。捨て子の孤児だとばっかり思ってたから」
暫しの時が経ち。
サシャはバルトロメイら<連撃の戦矛>のメンバーと一緒に、荒れ果てた旧キリアーノ領の偵察に出ていた。
「で、そんな重要人物が我々のような民間人と動いてても良いのかい?」
「え、我々のようなって、騎士団に所属してない民間人なのは一緒だよ? それに領壁にいると会う人全員が次々に祝福してくれて、嬉しいんだけど恥ずかしいというか」
「がはは、神父殿らしいな! ま、この偵察は手広くやらなければいけないからな。どんな理由であれ、人手が増えるのはいいことだ」
天人族ダーシャがもたらした、衝撃の偵察第一報の後。
次々と帰陣してきた他の偵察部隊の報告も似たような内容であり、ザヴジェル南領境に駐屯する防衛軍は大規模な追加偵察を決定した。サシャが自ら参加を志願してこの場に出ているのも、その追加偵察の一翼である。
ちなみに姉であるダーシャは宣言どおりに奈落が出現したキリアーン渓谷へ単独で飛び、シルヴィエは父フーゴと共にケンタウロスならではの周辺地域長距離偵察に参加している。
境壁の守りとしては神剣使いのヴィオラとイグナーツが残り――ヴィオラは最後までサシャと同行したがったが――、その他全体の兵力の実に四割を偵察に出すという思いきった采配。
奈落の動向をはっきりさせなければ動きようがないとはいえ、精鋭と名高きザヴジェル騎士団らしい決断力である。
「それに我々としても、神父殿が同行してくれるってのは本当に有難い話だしな」
バルトロメイが、荒れ果てた周囲の地形を油断なく見回しながらしみじみと言う。
緩めに散開した重装備の<連撃の戦矛>の戦士たちも警戒を怠っていないのだが、あれだけいた死蟲が一匹もいないというこの静けさもまた、そこはかとない不気味さを感じさせるものなのだ。
「……僅かに残っているという死蟲の残党に出くわした時の事を考えれば、これ以上心強いことはない。本来なら全員が神父殿と同行したいのだろうが、こうして我ら義勇兵にその切札を回してくれるあたり、騎士団の連中は相変わらず義理堅いというか」
「あー、それは何となく分かるかも。でもまあ、その辺はバルトロメイさんだって一緒でしょ? 一番死蟲がいそうな地域をこうして請け負ってるんだから」
「がはは、ザヴジェルの新しき英雄<救世のアパスル>と一緒なのに、後ろに引っ込んでいては名が廃るからな。一撃さえ与えて剣が通るようにしてくれれば、後は我々が片っ端から退治してみせるさ」
そこは任せといて!と胸を張って請け負うサシャ。
昨日までの戦いで散々死蟲を打ち倒してきたし、もうその相手も慣れたものである。こうして歴戦の仲間たちもいる今、残党のひと群れやふた群れぐらいはどうとでもなる自信があった。
その上。
サシャには是非ともこの偵察で試しておきたいことがあった。それはサシャにとって、死蟲を始めとした奈落の先兵との戦いにおける革命的な新手段。
二度目の偵察に出ようとする姉ダーシャを見送る際に教わったそれ。いちいち死蟲に青の力で切りつけなくても、まとめて相手ができるそれは――
「っ! ハヴェルの奴が何か見つけた! 死蟲だ! 戦闘陣形を取れ!」
左前方の窪みから、十を超える死蟲が一斉に躍り出てきた。左翼を進んでいた<連撃の戦矛>のメンバーから警戒の合図が出された、そのわずか数秒後のことだ。
「応っ!」
けれども名だたるトップクランの戦士たちは誰も動じない。野太い返答と共に、即座に集結し陣形を整えていく。
「よしきた! まずは任せて!」
そこにサシャがそう叫ぶが、その場から動く気配はない。むしろその場をしっかりと踏みしめ、大きく息を吸い込んでいる。
いったい何をしているかというと――




