58話 種族
「――もう、こんな顔じゃしばらく皆のところに戻れないわ」
今回の大勝利の立役者、天人族の<月姫>ダーシャに用意された質素な部屋の中で。
窓際でいつしか暗くなっていた外を――いや、窓に映った自分の顔をまじまじと眺めた有翼の少女が、参ったとばかりに溜息を吐いた。
「ご、ごめん。変なこと言っちゃったよね」
「ううん、嬉しかっただけ。もっとお姉ちゃんて呼んでくれてもいいのよ?」
「あー、それは何というか、ちょっと恥ずかしいというか。そのうち、自然と呼べるようになると思うから。そのうちに」
「もう……。でもそれで許してあげる。時間はこれからたっぷりあるんだから」
ダーシャは真っ赤になった目尻をにっこりと下げ、外観年齢にふさわしい幸せそうな微笑みを浮かべた。
「そうだ! じゃあ皆のところに行く前に、お姉ちゃんが色々お話してあげる! 奈落のこととか種族のこととか知らないと、皆との話についていけなくなるからね! 今頃向こうではフーゴおじさんが説明してると思うのよ。何から聞きたい?」
「え。……なら奈落のこと、かな?」
「分かったわ! お姉ちゃんが知ってることを全部教えてあげる!」
心底嬉しそうに意気込むダーシャに、サシャは「ぜ、全部じゃなくていいから」と慌てて釘を刺した。彼女が知ること全部となると、朝になっても終わりそうにない予感がひしひしとするからだ。
「――ええと、そうだ! 今日使った【ゾーン】? あれで死蟲とかに剣が通じるようになるのは凄いことだと思うんだ。今後の戦い方もきっと一気に変わっていくよね」
「ああ、【ゾーン】ね。アレが瘴気の守りを崩すと知った時は本当に驚いたわ。ただ、発動が難しくって私じゃ二日か三日に一度ぐらいしか使えないのが難点。しかも今日分かったと思うけど、長時間の維持もできないし。使いどころはよくよく考えないといけないわね」
いつしか自分の膝に戻ってきたカーヴィを撫でつつ、そうなんだ、と考え込むサシャ。
今日の戦いは【ゾーン】があったからこその大勝利である。あれを常に使っていけば今後はもっと楽に――と思っていたサシャだったが、なかなかそうはうまく行かないものらしい。
「……練習したら使えるようになるかな?」
「ううーん、前も言ったと思うけど、アレは初めの一歩が大変なのよね。私もそこに五十年とかかかったし。もちろん教えてはあげるけど!」
「あはは、その時はよろしくです。でもすぐには無理かあ……その【ゾーン】て、確か領域内の生物が死んだ時に力をもらえるんでしょ? 今日の戦いで、なんか途中からものすごい勢いで力が流れ込んできてたんだよね。お陰であんなに青の力を大盤振る舞い出来てたんだけど、それ、【ゾーン】が発動しかかってるんだったら嬉しいなあ、なんて思ってて」
ななな、なんですと!?
サシャの何の気なしのぼやきに、まさにそういった顔をしたダーシャが口をぱくぱくと開閉した。
サシャの言ったそれは正しく【ゾーン】の第一歩、いやむしろ物凄い勢いで力を得ているのならば第六歩ぐらいまで進んでいる可能性がある代物だ。今のダーシャですら【ゾーン】で得られる力は微々たるものなのに。
そして彼女は思い出した。そう言われてみれば、確かにあの境壁には微かにだが、誰かの【ゾーン】の気配を感じていたことを。
「……な、なんで!? もももしかしてこの子、神隠しにあっている間にクラールに本当に何かされた? せっかく教えてあげるチャンスなのに、お姉ちゃんの威厳が!」
「え、なんだって? なんて言ったかよく聞こえな――」
「……はっ! でもきちんと使いこなせていれば会った時にあそこまで疲弊している訳がないし、あの気配も私の【ゾーン】で簡単に上書き出来ちゃったじゃない! ということはまだまだ未熟! きっと偶然、威厳は健在! つまりクラールより私の方が断然上ってことよ!」
「ねえ急にどうした――」
「お姉ちゃんが教えてあげるから! 分かったわね!」
唐突に唸りだしたかと思えばビシッと指をさして宣言するダーシャに、サシャは「だからさっきからそう言って……」と言いかけたが、すんでのところで口を噤んだ。なんだか逆らってはいけない気がしたのだ。
「じゃ、じゃあその時はよろしくね」
「任せて! 他に聞きたいことはない? 今なら何でも教えてあげるわよ!」
「そ、そしたらやっぱり奈落のことを。そもそも奈落って何なのか知ってる? 死蟲とかってどこから来て正体は何なのかとか」
「ふんふん、もっともな疑問ね。ならお姉ちゃんがヴラヌスについて教えてあげるわ!」
「はい?」
おかしい。
サシャは大いに首を傾げた。
自分は奈落について質問したつもりが、なぜかこの姉は聞いたこともないヴラヌスなるものについて説明してくれるという。
「そう、ヴラヌスというのは、私たちの正式な名称なの!」
「……正式な、名称?」
けれどもこれはダーシャなりの順を踏んだ説明の第一歩であり、彼女は今、二十年ぶりに奇跡の再会を果たした弟に良い所を見せようと必死なのである。
本来の彼女はもう少し"英雄"らしく落ち着いて振る舞っているのだが、先ほど思わぬ涙を見せてしまったこともあり、かなり空回り気味なのは致し方のないこと。
そしてここから、この大陸の中でもひと握りしか知らない、思いもよらなかった秘密がサシャに明かされていくのである。
◇
「――そうなの、ヴラヌスというのは私たちの種族としての正式な名前なのよ。まあもっとも全部で三段階の成長過程があって、ヴラヌスはその総称でもあるんだけど」
改めて椅子に座り直したダーシャが、文字どおり腰を据えてサシャに本格的な説明を開始した。
座ったことで気持ちも落ち着いたのか、その口調にも長い時を生きた者特有の聡明さというか、他者に耳を傾けさせるような風格が滲み出てきている。サシャは知らず知らずのうちに身を乗り出し、これまで知る由もなかった己の種族の話に相槌を打った。
「おおお。じゃあその……ヴァンパイア、は、その何番目かに当たるってこと?」
「そう。ヴァンパイアは正式にはヴァンチュラと言って、一番初めの幼生体ね。ヴァンチュラが二千年以上の時を経て肉を削ぎ落とし、無機結晶体のヴルタになるの。まあざっくばらんに言うと、ヴルタっていうのはラビリンスのコアのことね」
「へわあ!?」
サシャの口から思わず変な声が出た。
とんでもない爆弾情報である。カーヴィが転移で逃げ出すほど急激に椅子から立ち上がり、机の上にさらに身を乗り出して情報源に詰め寄った。
「ちょ、ちょっと待って! ラビリンスってやっぱり生き物だったの!? そ、それにヴァンパイアは長生きすればみんなラビリンスになっちゃうってこと!?」
「そうね。そこまで生きたヴァンパイアは大抵、感情が枯れ果てて無機の結晶に自ら進むというわ。もちろん進まないことを選ぶ者もいるけど」
「ええと、じゃあもしラビリンスを攻略したりとか、コアを取ってきたりとかしたら……その、同族をどうのこうのになるってこと?」
サシャの脳裏にあるのは、皆と行った<深緑の迷宮>の最深層で力を譲ってもらったコアのことである。あの時はなんとなくその場に残していくように皆に協力してもらったが、一歩間違えれば持ち帰る――オルガの言葉によれば、確かそれはコアに"絶対的な死"を与える行為――ところだったのだ。
が、そんなサシャの心配をダーシャは鼻で笑い飛ばした。
「そんなの気にしなくていいわ。だってヴルタはね、世界の幼生でもあるの。ヴラヌスには三段階の成長過程があるって言ったでしょう? ヴルタの次の三番目が本当の意味のヴラヌスなのよ。で、そうしてヴラヌスになったら、勝手にこの世界からいなくなっちゃうんだから」
「…………ええと、どういうこと?」
「そうね、このハルバーチュ大陸がある世界自体がね、そのヴラヌスの一体だと言ったら分かりやすいかしら。この世界で世間が天空神クラールなんて呼んでるモノが、まさにそれなんだけど」
「…………」
話が理解を置き去りにして、遥か彼方へ飛んでいってしまっている。
サシャは机に乗り出していた体をゆっくりと戻し、そのままストンと椅子に腰かけた。
「うーん、どう言えば分かりやすいのかしら。ヴルタ……ラビリンスは自分のまわりに何層もの独自の亜空間を作って、その奥に引きこもっているでしょう?」
「……うん、ラビリンスは確かにそうしてるって言えるかも」
「ヴラヌスはそれがもっと大規模になった感じ? 今私たちがいるこの世界がいい例よ。ここはクラールと呼ばれているヴラヌスの個体、それが作った大掛かりな亜空間なの」
そこから続けられたダーシャの説明によれば、大陸各地にあるラビリンスは、この世界そのものであるクラールが自身の胎内で育てている、言ってみれば世界の子供のようなものらしい。
それぞれが独自の亜空間を持っていて、歳月と共にゆっくりとそれを成長させている。そうやって母なるクラールの亜空間――つまりはこの世界――の中で成長をしていって、やがて外に出て新たな世界を形成していく。
それがヴラヌスという種族、世間の呼び名を借りれば「天空神」という種族の生態なのよ。
そうダーシャは断言した。
「けどね、今私たちが現実に住んでいるのは、この世界よ。何千何万という人が暮らしている、父さんや母さんが愛したこの世界なの。クラールは確かにこの世界という空間を創ったけど、それだけ。子であるヴルタもそこに勝手に寄生して、勝手に自分の都合で外に出ていってしまう存在。それにね、そんなヴラヌスは種族として何を糧にしていると思う?」
「何を糧に? ……なんか話が大きすぎて良く分からないよ」
「それはね、人の命よ」
さらりと口にされたその言葉に、サシャは目を見開いて絶句した。
「――今日は私、【ゾーン】を使ったでしょう? 領域化した空間の中で死んだものの命から力を貰えるアレは、ある程度成長したヴラヌス特有の能力なの」
「……そういえば、シルヴィエが言ってたかも。ラビリンスに転移スフィアやら帰還の宝珠やらの便利なものがあるのは、呼び込んだ探索者の命をそのラビリンスが喰らうため。そんな説があるって」
「そう、昔から言われているそれは真実ね。ラビリンスはそうやって探索者をおびき寄せ、自分の亜空間の中で死んだ人間から【ゾーン】を使ってその生命を啜っているってわけ。ラビリンス内の果樹も魔鉱石もみんな、人間をおびき寄せるための餌なのよ。つまりヴラヌスという種族からみれば」
「……種族からみれば?」
恐々とした囁きで続きを尋ねるサシャに、ダーシャは忌々しそうに眉をしかめてこう答えた。
「ヴラヌスからすれば、全ての人系種族は自らの体内で飼っている、文字どおりの家畜ね」
予想より何倍も酷い回答に、サシャの体が大きく揺れた。咄嗟に椅子の背もたれに背中を押しつけて喘ぎを押し殺し、なんとか動揺を押し殺す。ここまでの話を繋げていくと、自分に関する吐き気を催すような嫌な結論がひとつ、どうしても頭に浮かんできてしまうのだ。
だが、同族であるダーシャはそんなサシャに構わず、淡々と言葉を重ねていく。
「だってほら、ヴラヌスの幼生ヴァンチュラ――ヴァンパイアにしたって、人の血を飲んで糧にしているでしょう? あれは未熟で【ゾーン】が使えないから直接生命を摂取しているだけなのよ? つまりヴラヌスという種族からすれば、人というものは親が子のために胎内で養殖している栄養満点の家畜にすぎないのよ」
でもね。
ダーシャはサシャに言葉を挟む暇を与えず、更に話を進めた。
「でもね、貴種ヴァンパイアである父さんは母さんを、人を、この世界を愛した。自分の種族の成り立ちに逆らっても、ね。それは私も同じよ。だからこの世界を守る。ヴラヌスの生態なんて知ったことじゃないわ。私たちが、ヴルタにならず人として生きていくことを選んだ私たちが、そして愛しい人たちが現実に生きているのはこの世界なんだもの」
背中に翼を持つ奇しき運命の少女はそう言い切り、ふう、とひと呼吸を置いてサシャに微笑みかけた。
「ええと、話が逸れちゃったけど。そんなことで、ヴルタ――ラビリンスのコアはどうなっても気にしないことにしているの。彼らは私たちとは文字どおり別次元の生態に沿って生きている縁遠い存在で、会話が出来る相手でもないんだもの。天空神が聞いて呆れるわ。神には神の理があるというけれど、本当に酷いものよね。で、問題は」
ようやく前置きが終わったわ、とダーシャはひとり小さく頷き、その透きとおったアイスブルーの瞳に深い憂慮を込めてサシャを見つめて――
「この世界の創造主であるクラールは、それはそれは老いて弱っているわ。貴方も肌で感じているでしょう? 魔獣が異常に増殖し、地震や噴火や異常気象が頻発して、はては日照時間まで日々短くなっていることを」
――そう、囁いた。




