53話 英雄たち(前)
「喰らええええ!」
乾坤一擲、刺又を手に境壁から飛び出したサシャ。
高低差は十メートル以上、けれどもあっという間に地面は迫ってくる。
サシャは急速に接近する巨岩蟲の小山のような背中目がけ、刺又を力の限り突き立てた。両手に凄まじい衝撃が走るが意地でも刺又を離さない。離すどころか予想外の手応えに反射的に全身を捻って衝撃を背後へと押し流し、そして。
ふわり。
斜めに落下していたサシャの軌道が、跳ねるように少しだけ上へと修正された。長柄の刺又を咄嗟のつっかえ棒にして、不恰好ながらも棒高跳びの要領で巨岩蟲を飛び越えたのだ。
「うわぁあぁああぁあああー」
けれども。
そこに、サシャにとっての計算違いがふたつ。
まず手にしていた物が槍ではなく刺又で、巨岩蟲の背中を一気に貫くどころか、そのU字型の先端が硬い表皮に阻まれて止まってしまったこと。咄嗟に刺又の長柄をつっかえ棒代わりにして飛び抜けたが、本来はそうするつもりではなかった。
そしてふたつ目の計算違い。
それは高速で軌道を変更したその落下先が、暴走する死蟲の大波の真っ只中だということだ。しかも刺又は手放してしまっており、完全なる無手である。
「わああぁあぁああぁあああー!」
サシャは情けない叫び声を上げながらもどうにか背中から双剣を抜き直し、そのままの勢いで死蟲うごめく波へと突っ込んだ。
「がはっ! ぐがが!」
何匹も重なりそれぞれに疾走する死蟲の層を突き破り、サシャは地面にぶつかって跳ね転がった。幸いだったのは、死蟲の天敵たる青の力を全身に漲らせていたことと――
「うおおお!」
――サシャ自身が類稀なる高速治癒能力を持つ、ヴァンパイアの係累だったことだ。しかも治癒の源である青の力は、とっくに全身に行き渡っている。
激痛を堪えて転がりながらも剣を振るい、覆い被さってくる死蟲の波と即座に高速戦闘を始めるサシャ。その身体の至るところから治癒の過負荷を示す蒸気のようなものが立ち昇っているが、お陰で身体は動かないことはない。
「やあぁああああ」
無我夢中で死蟲の咢を躱し、双剣を振るい、躱し、蹴り飛ばし、サシャはかろうじて生き残っている。四方八方から死蟲にのしかかられつつも、その囲みを抜けようとがむしゃらに目指すのはヴィオラと約束した、右だ。
いくらサシャとて、巨岩蟲の一匹と刺し違えるだけのつもりで境壁から飛び降りたのではない。最初の一匹は結果として背中を刺又で叩いただけになってしまったが、それはそれ。
本来の目的は、イグナーツの防壁の右側から溢れ出てくる巨岩蟲を全て止めて、ヴィオラの負担を軽くすること。そうするためのアイデアは既に頭の中に閃いている。
後はどうにかしてこの圧倒的な死蟲の囲みを抜け出して、本来の右側へと向かうことが出来るかどうかなのだが――
「サシャさま、避けてっ!」
無我夢中で目まぐるしく戦い続けるサシャの耳に、ヴィオラの絶叫が飛び込んできた。
反射的に盲従を決断したサシャが、眼前に迫る複数の死蟲の頭を連続した足場にして宙へと飛び上がった、その時。
巨大な緑白光の刃が、宙返りをするサシャのすぐ頭の下を雷のように横切った。
ヴィオラの斬撃だ。
一瞬だけ周囲の音が消え、緑白光の軌道上にあった死蟲全てが動きを止めた。そしてその一直線の軌跡に沿って、全ての死蟲の体躯がずれて崩れ落ちていく。
一拍置いて鼻が曲がるほどの悪臭を放つ体液がそこら中で噴出し、即死しきれなかった死蟲が苦悶のあまり狂ったように暴れ出しはじめた。
「……ありがとヴィオラ!」
これだけ間近でヴィオラの魔剣の斬撃を体感するのは、サシャにとって初めてのことである。魔法であって魔法でないその出鱈目ともいえる威力に、思わず思考が飛びかけたのは致し方のないこと。
だが、サシャは着地するなりひと声お礼を叫んで、猛然と駆け出した。
あれだけ圧倒的だった死蟲の囲みに、確かな緩みが生じたのだ。この機を逃せばまた果てなき大波が押し寄せてくる。
サシャは意を決して死地を駆け抜ける。
青く輝く双剣を引っさげ、人外の脚力と反射神経を最大限に発揮して。
それはまるで地を走る青き稲妻だ。
先ほど情けない叫びを上げていた者と同一人物とは思えないほど、その動きは凄まじい。
剣も魔法も効かないと言われていた死蟲。
この地に生きとし生けるもの全ての敵である、奈落の先兵。
その海の中を、天空神の聖光を後光のようにまとった神父が、鎧袖一触で右へと縦断していく。
そのオーラは治癒の過負荷を示す蒸気のようなものが見せる錯覚なのだが、遠く境壁の上から眺める者には分からない。
――終末世界に降り立った、最後の使徒。
兵たちの誰かが、そんな言葉をぽろりと口から零した。それは瞬く間に多くの兵士たちの共感を呼び、口々に全軍へと広まっていく。奮闘の合間に彼らが目にしたその光景が、果てなき防衛戦を続ける彼らの心をどれほど奮い立たせたことか。
「あれを見よッ! 神は我らと共にあり! 者共、かの使徒に恥じる戦いはするな! 我らは神の加護を受けしザヴジェルの精鋭なりッ!」
いつぞや似たようなことを叫んだ隊長が、再び高らかに天に叫んだ。割れんばかりの大歓声が周囲の戦士たちから沸き起こる。またもや全員に本物の主神の加護が降りたかのような、力漲る生命の咆哮だ。
「クラールに感謝を!」
「今ここに来ているのは飛行蟲だけだ! さっさと殲滅するぞ!」
「うおおおお! 我らが故郷を奈落から守れ!」
境壁上を強襲する飛行蟲の数は二百。
それへの守りには、昨日共に戦ったサシャも、ヴィオラも、イグナーツも参加できていない。唯一シルヴィエが八面六臂の大奮闘で支えていたが、地鳴りのような大喊声と共に兵たちの動きが変わり、徐々に戦況を盛り返していく。
そして、見るもの全てにその新世代の英雄たる姿を強烈に印象付けた、後光に包まれた本人はといえば。
境壁上のそんな状況に気づく余裕すらない、極限の高速戦闘に五感の全てを没入させていた。遮るものは全て斬り、迫るものは全て躱す。躱しきれずに無数の傷がその身に刻まれていくが、傷つく端から癒えていく。
そんな忘我の戦いに耽るサシャの、頭の中にあることはただひとつ。
ただでさえ余裕がないはずのヴィオラに、余計な負担をかけてしまった。
かくなる上は宣言どおり右手の巨岩蟲を完璧に抑え、ヴィオラの手助けを無駄にしないようにするしかない。それが皆がいる境壁を守れる唯一の方法なのだから――そんな単純なことだけだ。
そして、ついに。
「一匹目、見つけた!」
数分とも数秒とも思える縦断劇を経て、サシャの紫水晶の瞳が戦場右端を疾走してくる巨岩蟲を捉えた。
「こうすれば、どうだ!」
サシャは更に速度を上げ、どうにかその巨岩蟲の前へと回り込んでいく。そうして右手にまとった青光を極限まで強めて――
「うおおおおおお」
巨岩蟲は前方に割り込んできたサシャに気づいたのか、小山のような巨体の進路を急角度にサシャへと変えてくる。その醜悪な頭部を紙一重で躱し、サシャはすれ違いざまに右手の剣を大きく振りかぶって。
「喰らええええっ!」
強烈な青光を宿した剣が、長い長い巨岩蟲の腹下で蠢く触手のような鞭毛群を薙ぎ払っていく。それがサシャの狙う、巨岩蟲の突撃を止める一手。
境壁の上から見ていて閃いたのだ。小山のごとく突進してくるワーム型の巨岩蟲は、蛇のように体をくねらせてこちらに接近してきているのではない。ずんぐりむっくりの胴体は微動だにさせず、滑るように地面を進んでくるのだ。ならばおそらくは、足代わりになる何かを使って移動しているはずだと。
唯一の懸念は、巨体の体重をこうも高速で移動させているそれを、サシャの短い双剣で機能停止させられるかどうかだったのだが――
「うわあ!?」
――頭上を塞ぐように倒れてきた巨岩蟲の長大な体躯から、サシャは刹那の横っ飛びで脱出した。
弩級の体重を支えていた鞭毛群を一部とはいえ薙ぎ払われた巨岩蟲は、充分過ぎるほど速度が乗っていたこともあり、そこからつんのめるようにその巨躯を斜め前方へと転倒させてきたのである。
「よ、よし! 次行くよ次っ!」
巨体の手前の支えを外せば、自分の方に倒れてくるかもしれない。
そんな自明ともいえることまで頭が回っていなかったサシャだが、それはそれだ。
ちらりと肩越しに振り返ってみれば、鞭毛群を削ぎ落とした巨岩蟲はまともな移動が不可能になったかのように地面を転がりもがいている。細かいことはさておき、とにかくこれで新種の足止め方法は判明したということだ。
ならば。
あとはこの周辺で暴れ回り、先ほどヴィオラに手助けしてもらった借りと、境壁上での飛行蟲の対処をシルヴィエ一人に任せてしまった負担とを倍にして返すのみ。
幸い獲物の数には事欠かない。むしろ巨岩蟲の方からこちらに向かってきてくれている、そう思えるぐらいだ。
「さあかかってこい、ちょっと大きいだけのおバカな芋虫め!」
完全に回復しきっていない体内の泉の残量に不安はあるが、サシャは死蟲の海をこじ開けつつ次なる獲物に向けて果敢に走り出していく。それこそがまさに今、やらなければいけないことなのだ。
――だが、熾烈な戦いの渦中にいるサシャは気づいていない。
文字どおり戦場に降ってわいた天敵の出現に、奈落の大軍勢全ての矛先が、一斉に彼に向けられはじめたことに。
三度目となる奈落との戦いは、更なる激しさをもってサシャに襲いかかっていく。
◇
どのくらい戦ったのだろう。
無我夢中で戦い続けたサシャの周囲には、鞭毛群を削ぎ落として突進を止めた巨岩蟲がそこら中で暴れもがいている。
数は分からない。
数える余裕などなかったし、視界を遮る一匹一匹が大きすぎて、地上にいるサシャには全体像が全く把握できていないのだ。
サシャが確実に分かっているのは随分と長い間戦い続けていたことと、次の巨岩蟲を見つけるのに手間取るようになってきたこと、そして体内の青の泉がいよいよ残り少なくなってきたことだ。
「はァ、はァ、もうその咢は通じないってば」
死蟲は相変わらず連綿と襲いかかってくるが、その数も一時に比べれば減っているのかもしれない。ムカデの化け物のようなその動きにサシャが慣れた、ということもあるが、動きが鈍ってきた今のサシャでも充分に対処できる程度の攻勢でしかないのだ。
「はァ、はァ」
青の泉の残量でも、体力的な部分でも、サシャの本音を言えばできればここで引き揚げてしまいたいところ。だが、全体の戦況が分からないので決断を下しかねているのだ。
ここまで戦いながらうっすらと感じていたのは、もしかしたら、自分が格好の囮になって敵を引きつけているのかもしれない、ということ。
サシャがどこを駆けまわろうとも、死蟲やら巨岩蟲はそんなサシャを目がけて殺到してくる。場所によっては、明らかに境壁とは逆方向なのに、である。
それならば、こうして戦えば戦うほど皆が楽になるはず――そんな想いもあって引きどころを掴めず、少々無理をしてしまったのも事実。
「はァ、はァ、もうしつっこいなあ」
けれども、さしものサシャももう限界が近い。
相変わらず死蟲は次々と襲いかかってくるが、こうしている本来の目的、境壁に突撃しようとする巨岩蟲はさっきから見つけられていない。
ならば、あまり無理をしてここで潰れてしまうより、少しでも青の力を残した状態で帰還した方がいいのかもしれない。何より、境壁に残してきたシルヴィエが、ヴィオラが、他の皆が心配で仕方がない。
……よし、一度戻ろう。
そうサシャが心を決めた、その時。
「う、嘘でしょ……」
境壁と反対側、漆黒の瘴気たなびくキリアーノ領側の空に。
その空を昏くするほどに、飛行蟲の第二陣となるおびただしい大群が浮かんでいたのだ。
◇
「はァ、はァ、はァ、はァ」
サシャは駆ける。
仲間たちがいる境壁とは、まったくの逆方向に。
「はァ、はァ、はァ、はァ」
当初は皆の元へ駆け戻ろうと考えたものの、試しに横方向に動いてみて気がついた。おびただしい数の飛行蟲が向かう先、それは自分だということに。
「はァ、はァ、はァ、はァ」
あれだけの数の飛行蟲を境壁に行かせてはいけない。ただその一念でサシャが駆けていく方角は境壁とは逆方向、瘴気たなびく旧キリアーノ領の懐深くへと入っていく方角でもある。
それが何を意味しているのか、分かっていない訳ではない。
少しは減少傾向にあった死蟲の襲撃も、旧キリアーノ領の奥地へ進めば進むほどまた増えてきている。この状況で飛行蟲の大群まで加われば、いくら人外の自己治癒能力を持っている自分であっても、とんでもなくマズい状況になることは火を見るより明らかだ。
ただ、あの千は超えているであろう飛行蟲の大群を、皆がいる境壁に連れていっては駄目なのだ。そちらの方こそ怖気立つような確信を持って言える。どう足掻いても守りきれない、と。
どちらを避けるかといえば、答えはひとつしかない。
「はァ、はァ、はァ、はァ」
だからサシャは死蟲の波を力づくで掻き分け、必死に駆けるのだ。
仲間たちがいる境壁とは、まったくの逆方向に。
「はァ、はァ、はァ、はァ……くそ、一匹ぐらいどこかに残っててもいいのに」
けれどもそんなサシャも、まるきりの無策という訳ではない。
彼が必死に駆けながらも血眼になって探しているもの――それは、魔獣だ。
体力の枯渇は致し方ないとしても、魔獣の生血さえ啜れば青の力は補充できる。死蟲や飛行蟲といった奈落の先兵が苦手としていて、自身の自己治癒能力の源でもある青の力。それさえ潤沢に用意できれば、少しは打開の道が開けてくる可能性は高い。
最悪、出し惜しみをせずに全身から青の光を放出し続ければ、奴らも遠巻きにして襲ってこなくなるかもしれないのだ。小山のような巨岩蟲はお構いなしに突っ込んできそうだが、それならまた鞭毛群を削ぎ落として足止めしてやればいいし、そもそもこのところ向かってくるのは死蟲ばかりでしばらくあの巨体を見かけてさえいない。
そして何より、幸いにしてここには誰の目もない。
しかも今は一面の焦土になってしまっているとはいえ、死蟲が襲来するほんの数日前までは、この辺り一帯は無数の魔獣が跋扈する深い森だったと聞いている。
手頃な魔獣さえいれば、人目を気にせずに血を啜りたい放題なのだ。
「はァ、はァ、はァ、はァ……でもその魔獣が、一匹も残ってないとか」
問題は、この瘴気たなびく一面の焦土を見渡す限り、動くものは未だおびただしく蠢く死蟲しかいないということだ。焼け焦げたような地面には魔獣の死骸すらない。逃げ出したのか、死蟲に食べられたのか、それとも森と一緒に瘴気に焼かれてしまったのか。
「はァ、はァ、はァ、はァ……今回の死蟲の侵攻進路からは結構外れたはずなんだけど……ああもう」
見上げれば、空を埋め尽くす飛行蟲の大群がすぐそこに迫っている。
時間切れだ。前脚に巨大な鎌を持ち、差し渡し十メートルはあるだろう皮翼を怒ったように羽ばたかせる蟻の化け物が、数百といった単位に分かれて一斉に降下態勢に入ろうとしている。
――もうこの場で迎え撃つしかない。
サシャがせめてもの反撃をしてやろうと足を止めた、その時に。




