04話 辺境の地、新たな人生の始まり
「カルジャの港がもう駄目らしいぞ」
「ああ、噴火の影響だろ? 火山灰が膝まで積もってるっていうじゃねえか」
「カルジャはまだいい、問題はルセクだ。どうやら奈落に呑まれたらしいってのがもっぱらの噂だ」
「なんだと!? あそこが使えなければマツィークとの航路が――」
様々な噂話が集まる港街、ファルトヴァーン。
そこはハルバーチュ大陸の北三分の一を占拠する魔の森の手前、人系種族が住めるうちで最も北に位置する港街だ。
そこでは今日も日の出から波止場の桟橋には大型の帆船がぎっしりと横付けされ、大量の貨物と人でごった返している。天変地異が頻発して日照時間すら短くなっている昨今、ここまで賑わっている港街は大陸中を探してもここだけといっていい。
「おおい、その小麦はウチの船に積み込む分だろうが! 横取りするんじゃねえ!」
「まあまあ、そちらさんのはほら、あそこで人夫が一生懸命運んでますよ。……お客さん、この港は初めてですかい? ここでは誰も小麦を奪い合いません。金さえ出せば欲しいだけ買えるんですから。ええそうですとも、ようこそザヴジェルへ!」
ずらりと停泊した帆船の前では、慣れた者にはもはやお馴染みとなった光景が繰り広げられている。この港街では、よそと全く勝手が違うのだ。
むせ返るような潮の香りと、活気あふれる喧騒。
ここファルトヴァーンがここまで繁栄している理由は、ひとえにこの港がザヴジェル独立領の海の玄関口だからである。
ザヴジェル独立領、人々はそれを「この終末が近づいた世界に残された最後の希望だ」と口々に語る。
そこではかつてのように農業が盛んに行われ、かつてのように魔鉱石などの貴重な資源が潤沢に採れ、かつてと同じ安穏とした暮らしを人々が未だに送っているのだ。
「む……まあ、話には聞いて、頭では分かっていたけどよ。すまねえ、つい他所の癖が出ちまったみてえだ」
「あはは、お気になさらず。みなさん初めはそうですよ。あ、私はクレメンス商会のヤン=ネポムクと申します。どうです? この混雑じゃ積み込みにもまだまだ時間がかかるでしょうし、良かったらそこの軽食処で何か摘まみませんか? 美味いサンドイッチを出すんですがね、お近づきの印にご馳走しますよ」
「な、サンドイッチだと!? そ、それはパンに具を挟んだ、あのサンドイッチか!?」
外来の船長が目を真ん丸に見開き、思わずといった風情でゴクリと唾を飲み込んだ。それもそのはず、パンといえば原料は小麦。一日の三分の二が夜となってしまった今、野菜や小麦などといった農産物は王侯貴族すら滅多に口に出来ない最高級品なのだ。
――このザヴジェル独立領以外では。
「そうそう、そのサンドイッチですとも。ささ、行きましょう行きましょう。実は私ども、実は小麦以外にも魔鉱石やポーションといった、ザヴジェルならではの――」
ここファルトヴァーンでお馴染みとなった光景は、やはりお馴染みの展開へと繋がっていく。こうして商人はわずか銅貨数枚の投資で、以後何年も大金貨を生みだす大口の契約を掴み取るのだ。
「いやはや、今日は良き日ですなあ! いくら世界に魔獣があふれているとは言え、こうして立派な船長さんと巡り合えたんですから!」
とはいっても、彼らファルトヴァーンの商人たちはけして暴利を貪れる訳ではない。
途方もない数の魔獣が跋扈しているのは、海上海中もまた同様なのだ。そんな海を渡れる船と船員を持つ船長の方が、この街で商機を待ち構えている商人より遥かに数が少ない。
もし阿漕な商売をしていたら、あっという間に他の商人に奪われてしまう。ゆえに商人は常に利益を計算しつつも、出来るかぎり誠実に新顔の船長を己の懐に招き入れようとするのだ。
ちょうど今も繰り広げられた、お馴染みの光景のように。
――そして、そんないつもの光景のすぐ隣では。
「うげえええ……もう駄目かも……地面が揺れてる……」
「神父さま、気を確かに! 地面は揺れてなんかねえですよ! 近くの宿まで案内しま――ちょっ、ここで吐かないで!」
横付けされたばかりのとある帆船、その渡し板の上では、こちらは少し珍しいといえる光景が繰り広げられていた。
ザヴジェル領には珍しい神父の格好をした若い男が、息も絶え絶えに船から抱え下ろされてきたのだ。
「嘘だ……ここは陸なんかじゃない……だってまだ揺れて――うっぷ」
「ほらほらしっかりしてくだせえ! ホント、こんなに船酔いが酷い人は初めてですぜ。たいていはじきに慣れて治るってのに」
そう。
神父風の若い男は、遥かアスベカ王国ではその名を知られた凄腕の元傭兵、サシャだ。
王都の郊外で異端審問官たちを丸一日引っ張り回し、国外に出てようやくここまで辿り着いたのだったが。
彼は知らなかった。
自分がここまで船酔いする性質だとは。
初めは良かった。生まれて初めて目にした海に感動し、期待に胸を膨らませてこの最新の帆船<クラールの恵み>号に乗船したのだ。旅人は珍しいのか、とんでもない船賃を要求されたがそれはそれ。サシャの上がりっぱなしのテンションはそこをケチることなく、気前よく言い値をぽんと投げ渡したりもしたものだった。
雲行きが怪しくなってきたのは出航してわずか五分の頃。
それから文字どおりの生き地獄が始まり、以後三十日にも及ぶ航海の間、ずっと彼は苦しみ続けてきたのである。
もしかしたら――
そう、もしかしたら、その船酔いはサシャがひた隠しにしている、彼の種族が影響しているのかもしれなかった。
サシャの生国では狩られ尽くしたその種族には、たしか流水に弱いという噂もあったはずだった。船の上、すなわちそれは好き勝手に揺蕩い波打つ大量の水に囲まれた場所である。もしかしたら、それで身体が弱っているのかもしれない――
終わりの見えない吐き気との戦いの中、サシャは朦朧とそんなことを考えたりもしていた。
が、原因がそれだと分かったからといって船酔いが収まるはずもない。まだかまだかとひたすら待ち望んだ旅程の終わりが、今ようやく訪れたのであった。
「おーい、誰かいるかい? 神父さまがちょっと具合が悪いんだが、部屋は空いてるか? 悪いが俺は船の積み込みに戻んねえといけねえから、ここで見てやってもらえるとありがたいんだけどよ?」
「はいはい、いらっしゃいま――ってあんた、ひどい顔だね。神父さまとは珍しいけど、いいよ、ウチで休んで行きな。二階の一番手前の部屋が空いてるよ」
げっそりと憔悴した顔のサシャが涙目で吐き気と戦っている間にも、親切な水夫が親切そうな宿の女将に彼を引き渡してくれている。
あれよあれよという間にサシャは船客から宿の宿泊客となり、やや不本意な形ながらも、彼の新天地での人生がそこに始まったのであった。
◆ ◆ ◆
「うわああ……どうしよ…………」
翌朝。
動かぬベッドでひと晩休み、ようやく体調が戻ったサシャは宿の受付でとてつもない窮地に陥っていた。金が、ないのだ。
船賃で手持ちの大半を払ってしまった彼の財布にはほとんど現金が残っていない。このひと晩の宿代を払った今、残るはわずか銅貨二枚だけ。外の出店で一つ何かを買えば空になるという寂しさだ。けれどもこの程度、彼にしてみればどうとでもなる……
……はずだった。
サシャは元来あまり金銭に執着しない性格だ。けれども彼は癒しが使えたし、ここでの当座の生活資金として傭兵時代に手に入れた、虎の子の魔鉱石を売り払ってもいいと考えていた。売れば数ヶ月は遊んで暮らせるはずの、とっておきのへそくりである。
直前の放浪生活のように癒しをして生活を繋いでも良かったが、それで異端認定という面倒事が舞い込んだばかりだ。かといってせっかく辿り着いたザヴジェルですぐまた戦いばかりの傭兵稼業に戻るのもどこか気が乗らない。ならばとそのとっておき魔鉱石を宿の清算後に女将に見せたところ、反応はと言えば――
「へえ、魔獣から採った天然ものかい? 珍しいねえ。随分と大きいし、面白い形と色をしているじゃないか」
「でしょ? 自慢のお宝ってやつ。けどずっと持ってても仕方ないし、当座の資金にコレを売っちゃおうと思ってるんだ」
「え、売れるのかいコレ?」
「へ?」
――そんな思いもよらぬ言葉が返ってきたのである。
「悪いけどあんた、ブシェクのラビリンス産に比べちまうとコレは全然ダメだよ。あれは形も属性も揃ってるし、ウチじゃもう長いことブシェクのしか使ってないよ。この辺りの人はみんなそうなんじゃないかねえ」
どうやらここザヴジェルにはブシェクという街があり、そこのラビリンスで採れる魔鉱石が周辺市場を席巻しているらしい。
しかし、手持ちの虎の子に比べて何がそこまで違うのか。売れるかどうかすら危ぶまれるほど、そこまで程度の低いものではないはずだった。その辺りを尋ねてみると、女将は未だ朝食の客がそこまで入っていない食堂をちらりと眺め、改めてサシャに向き直って丁寧に解説をしてくれた。
「ブシェクのラビリンスで採掘する魔鉱石には、属性の混じりやら生き物特有の個体の癖ってもんがないからね。あたしも細かいことは知らないけど、商人に言わせりゃ雑味がないから同じ魔力量を引き出しても魔道具の出力が違うとか、魔道具の寿命が倍くらい延びるとか、そんなことみたいだよ」
「属性の混じり……? 魔道具の寿命……?」
「そうさねえ、ウチで言えば、調理の加熱用の魔道具には純粋な火属性の魔鉱石を使って、食材保存用の冷蔵の魔道具には混じり気なしの氷属性のを使ってるって言えば分かるかい? 余計な属性が混じってない分、魔道具に余計な負担をかけないって感じかね。そんな話は聞いたことないかい?」
「むむむむ。なんか聞いたことがあるような、ないような……」
言われてみれば、サシャの生国アスベカでもザヴジェルの魔鉱石は最高級品として売られていた記憶がある。つまり、サシャのとっておきは内包する魔力量こそ大きいものの、本場ザヴジェルに来てしまえば属性不揃いの半端もの、そんな扱いになってしまうようだった。高級品には縁も興味もなかった貧乏傭兵改め放浪者の、初めて知った悲しき現実である。
「うーん、でもこの手の天然ものを蒐集してる道楽者がいるっていうし、隣のファルタって迷宮都市に行けば誰か欲しがる人がいるかもしれないよ? あくまでも実用品というよりは趣味の品って扱いだけど……期待はしないで行ってみたらどうだい。街道を二日も行けば着いちまうしね」
「うおう、まさかそんなこととは。さすがは魔鉱石の本場ザヴジェル、恐るべし……」
ザヴジェルに着いたら早々に虎の子の魔鉱石を売り、一気に悠々自適の生活資金を獲得する――そんなサシャの心づもりは脆くも崩れ去った。
「……なら仕方ない、か」
けれどもサシャには最大の武器、癒しがある。こうなればそれで稼げばいいのだ、サシャは頭を切り替えてすっぱりと心を決めた。
生国アスベカではその癒しが原因で面倒なことになりはした。
けれどそれから国境を超えること四回。やはり神殿は国ごとに組織が変わるようで、異端認定された者の情報など一切伝わってはいなかった。しかもそこから船で三十日も移動したのである。ここで生活のために軽く癒しをしても、まず問題はないはずだった。
ならば後は念のために周囲の様子や反応を見つつ、やってみるのみ。
目立ちすぎない程度に癒しをして、それで日銭を稼ごうと女将に話を振ってみれば――
「あらまあ、あんた本当に神の癒しを使えるのかい? その格好は伊達じゃなかったんだねえ。そりゃ凄いとは思うけど、今ウチには怪我人はいないし、街で声をかけてもあんまり人は集まらないんじゃないねえ」
「え」
「ああ、ザヴジェルじゃポーションが安いからね。怪我をしても、みんなとっととポーションで治しちまうんだよ。あんたには悪いけど、神殿すら誰も行かずに寂れちまってるよ。ちょっと前まではおじいさんが一人で頑張ってたけど、今はどうなってることやら」
「はあ、ここじゃそんなもんなんだ……。そういえば、ザヴジェルといえばポーションの本場でもあったっけ……」
――そちらはそちらで渋すぎる状況が判明し、サシャは頭を抱える結末になったのであった。
言われてみれば、どんな怪我でもたちどころに治ってしまう奇跡の霊薬、ブラディポーションはここザヴジェルが発祥の地だと聞いた覚えがサシャにはあった。その流れで普通のポーションも他所より生産が盛んで、一般的なものとして庶民にも安く出回っているのだろう。更にいえば、精強なザヴジェル騎士団に守られたこの港町には怪我人がほとんどいない。
思いもよらぬ状況であり、魔鉱石の件と併せ、本格的にサシャが金欠であるという事実が判明した瞬間だった。
「ぐぬぬ、まさかここまで環境が違うとは……」
さすがは豊かさで名高い辺境の地、というべきか。
まさかとっておきの魔鉱石がここでは趣味の品扱いになるとは思っていなかったし、サシャはこれまで、癒しを不要と断られたことはなかった。傭兵時代も周囲の傭兵たちは大喜びで癒しを受けていたし、どこの農村に行っても癒しを始めれば大歓迎。これまで対価に自分から金を求めたことはなかったが、その気になれば結構な額を稼げていたはずだった。それはもちろんこのザヴジェルに来ても同じ、そんなつもりでいたのだが。
「ヤバい、見事に計算が狂っていく……」
サシャの計画では、虎の子の魔鉱石を手放してそれなりの金額を手にし、しばらくはのんびりと骨を休めようと思っていた。そうして天下の楽園ザヴジェルの雰囲気を肌で楽しみながら周辺の情報を集め、面白そうな場所へと旅に出る――気が向いたら癒しをして旅費を補充しつつ、悠々自適のぶらり旅――そんな心踊る未来予想図が、音を立てて崩れていく。
まさかの金欠。
まさかの八方塞がりであった。
さて、どうしよう――サシャがその特徴的な紫水晶の瞳で宿の女将を正面から見つめ、大きく息を吸った、その時。
「神父さま、神の癒しを使えるというのは本当ですかな?」
救いの神が、彼につぶらな瞳で微笑みかけたのである。