29話 幕間 ~夜に潜むもの~
ザヴジェル地方で密かに息づく、とある種族の隠れ里。
過去百年に亘って一度も陽の光が差し込んだことがないそこに、息も絶え絶えに一人の男が駆け込んできた。
「長は、長はいるか! 姫様も呼んでくれ、至急伝えたき事がある!」
男の叫びに、月明りを浴びた家々からわらわらと人影が集まってくる。
この里は常人とはかけ離れた力を持つ、とある極めて強力な種族の隠れ里だ。駆け込んできた男も齢二千年を超える、種族の中でも有数の実力者。その力量を認められて主要都市のひとつに派遣されていたその男が、ここまで息を切らせて里に駆け込んできたのだ。
異常気象が頻発し終末を迎えつつあるこの世界に於いても、それは滅多にない非常事態を予感させる出来事であった。
「何があったインジフ! まずは落ち着け!」
「長を呼んでくれ! 姫様もだ! それと<青槍>殿もいたら彼の御仁も一緒に!」
「長はエヴシェンが呼びに行った。姫様は<青槍>殿と団を率いて出立したばかりだ。キリアーン渓谷に蟲が、ついに奈落の前兆が現れたのだ。我らも連れていってくれと談判したのだが、未だその時ではないと……む、<青槍>殿も呼べと? インジフ、それはまさか」
肩で息をする男の背を抱いた里の者が、その深紅の瞳を大きく見開いて男の顔を覗きこんだ。
「……いや、確定ではない。だが、可能性はある。王に比肩するほどの青の力に加え、紫水晶の瞳」
「な――! それは決まりではないか! なんという慶事、ふた月前の神託はこのことだったか!」
「いや、それが神殿関係者の衣をまとっているのだ。胸に大きな十字架まで下げて」
「じゅ、十字架を胸にだと。どういうことだ?」
ざわり、とざわめく里の男たち。
十字架は彼らが敵視する新世代の神々、その依り代になり得るものだ。その形状、その偶像が放つ力は数少ない彼らの弱点といってもいい。
「それが分からぬ故、<青槍>殿にも相談をと思ったのだが……。蟲が現れただと?」
「うむ。姫様曰く、いよいよこの地にも彼奴らの手が伸びてきたかもしれぬとのこと。その辺りも含め、とりあえず中で話そう。長もじきに来る」
「あ、ああ。しかし、ついにこの地にも奈落の前兆とは。なんということだ――」
インジフと呼ばれた男は、里の者たちと連れ立つように奥へと歩き始めた。
彼も含めたその大半が、色味の濃淡はあるにしても人系種族には持ち得ない紅の瞳を持っている。それは彼ら隠れ里の種族の大きな特徴のひとつ。それら紅の瞳が一様に激動の予感をたたえ、言葉少なに里の奥の集会場を見詰めている。
これからそこで行われる話し合いが、彼らにどういう結果をもたらすのか――
奈落の情報はもちろんのこと、人ならざる里の者の胸をざわめかせているのは、インジフが持ち帰った特大の希望の可能性。
これまで幾度となく失望させられてきたその手の報せだが、今回はどこか違うと誰もが予感している。忌まわしい神殿の装いをしているということが気にはかかるが、おそらくは――と。
それは、長らく王が不在となっている彼らにとって、久方ぶりに垣間見えた希望の光。終末が迫りつつあるこんな時代だからこそ、密かに待ち望んでいた一縷の希望。
けれども軽々しく口にすれば消えてなくなると言わんばかりに、誰もがそんな想いを紅の瞳の奥に隠し、言葉少なに集会場へと進んでいく。
過去百年に亘ってこの隠れ里に密かに集結し、力を育んできた彼ら。
彼らは奈落を始めとした、この世界を蝕むものの存在を鋭敏に察知していた真に強力な種族だ。人知れず戦いに備えてきたその隠れ里は、今、新たな局面を迎えようとしている。




