15話 勧誘(前)
「さあ、もし良かったら色々と話を聞かせてくれないか」
「くくく、なにせ<毒霧>の麻痺毒を数秒できれいに解毒しちまう神父さんだ。逃すもんかってね」
時は僅かに流れ。
魔に飲まれて暴れ出したゾルタンが完全に無力化され、騒動が沈静化した、その後。
ちなみにゾルタンは駆けつけたザヴジェル騎士団がその身柄を厳重に確保して帰っていった。現在、完全に魔に飲まれてしまった者――通称「魔狂い」――が正気を取り戻した例はない。ゾルタンを待つ運命は処刑か、対策を研究するためのモルモットか――そのどちらかでしかない。
日照時間がどんどん短くなり始めたここ数年。
ゾルタンのように突然魔に飲まれて魔狂いへと堕ちる魔法使いが、あちらこちらで報告されるようになっている。魔狂いの共通した特徴は、瞳から魔獣と同じ深紅の燐光を放って暴れ始め、無差別に人を襲い続けることだ。
街中で暴れ出されても被害は大きいが、騎士団所属の正規の魔法使いが魔獣討伐任務中に暴れ出した例もある。それは頻発する天変地異に並ぶ、密かな社会問題となりつつあった。
魔法使いは数が少ないものの個としての戦闘力は突出したものがあり、この魔獣あふれる世の中では社会的地位も高い傾向にある。騎士団においては勿論、傭兵などの民間武装集団などでも中核となる戦力として欠かせない存在なのだ。
それが魔狂いとなれば何の脈絡もなく唐突に暴れ出し、戦線の背後から仲間を虐殺し始める。サシャが戦場で魔法使いから距離を置きたがる、その理由のひとつでもあるのだが、魔に飲まれる原因やきっかけは今のところ一切分かっていない。
魔法使いの誰がいつ魔に飲まれてしまうのか、防止策はあるのか、そして暴れ出した後でどうにか正気に戻す方法はあるのか――関係各所が必死になって研究しているというのが今の現状。
今回のゾルタンは五体満足で生け捕りとなった稀有な例であり、おそらくはその研究に回され、あまり公にできない実験の素体となる可能性が高い――と、それはさておき。
「それはそうとシルヴィエ、あんたもう身体は大丈夫なのかい? 奴の毒を受けてただろう?」
サシャとシルヴィエは今、ユニオンホールの片隅に作られた軽食処のテーブルのひとつを占拠している。同席しているのは先ほどのゾルタン制圧で大活躍をした大手クランの、なんだかいやに貫禄のある代表者がそれぞれ一人ずつ。
「ああオルガ、もう全く問題ない。癒しが効いたのだろう」
「ほうほう。やっぱり大したもんなんだねえ、坊やの癒しってのは」
「サシャ、もう一度礼を言う。素晴らしい癒しだった。ありがとう」
同席している一人は、蓮っ葉な物言いが印象的な美貌の女魔法使い。先の騒動で一番に飛び出してきて周囲を叱咤混じりに仕切っていた、まさにその人である。
サシャに向けた自己紹介によると名前はオルガ。年齢不詳、高級そうなエバーグリーンのローブとそれに包まれた挑発的な肢体、暗銀色の髪に健康的な小麦色の肌という見た目から分かるとおりに生粋のダークエルフであり、魔法使いが集う有力クラン<幻灯狐>のマスターとのこと。
大捕物のその後の、普段どおりの喧騒に戻りつつあるユニオンホール。騒動の立役者たちが集うこのテーブルにおいても、その美貌の魔法使いは周囲からちらちらと向けられる好奇の視線を物ともせず、くつろいだ様子でシルヴィエと言葉を交わしている。
「それにしても最近は魔に飲まれる奴らが多くていけないよ。魔法使いのクランを率いる身としては頭が痛い問題さね」
「<幻灯狐>からは魔狂いは一人も出ていないだろう? 随分と厳しい独自の鍛練を課していると聞くぞ」
「まあね。役に立ってるかは分からないけど、ウチのメンバーは心も鍛えるようにしているからね。あれは心が弱いものから堕ちていく――それがあたいの持論だよ」
「ふむ。そのあたりは文字どおり門外漢なのだが……。オルガも飲まれないように充分気をつけるのだぞ。お前を討伐するなんて役割は真っ平御免だからな」
シルヴィエとオルガは旧来の知り合いのようで、注文したエールを片手に気軽な口調で会話を交わしている。どうやらシルヴィエの武者修行の一環として、過去に何度かオルガのクランの魔獣狩りに同行したこともあるらしい。
「おいおい、女のお喋りはその辺にして本題に入るぞ。……神父殿、先程の癒しは見事だったぞ」
そう言ってシルヴィエとオルガの話に割り込んだのは、この場に同席している最後の一人。
ラビリンス内外で大型の魔獣を専門に狩っているハンタークラン、<連撃の戦矛>を率いているバルトロメイだ。熊人族ならではの巨体を分厚い金属鎧で包んだ彼が、木製の椅子を軋ませてサシャへとその体の向きを変えてきた。
「さて、神父殿。よかったら色々と話を聞かせて欲しい。なにしろザヴジェルじゃ神父どころか、神殿からして消滅寸前だからな。神父殿が行った神の癒し、初めて見たが素晴らしいものだった。あれほど治癒が早いなど、噂に聞くブラディポーションの原液に匹敵するクラスだろう」
そう言ってバルトロメイは、無精髭の生えた厳つい顔でニヤリとサシャに笑いかけた。
ダークエルフのオルガもそうだが、二人はどちらも先ほどサシャが使った神の癒しに強い興味を抱いている。騒動が終息するなり半ば強引にこの場を設けたのもそれが故。詳しい話を聞き、もし可能ならば他所に取られる前に彼を自らのクランに引き込もうと考えているのだ。
――なにせ先ほどサシャが披露した神の癒しは、それほどまでにザヴジェルの常識を覆すものだったのだから。
「そうだねえ。それにあの後、腹を刺されたユニオンの職員にも癒しを行ったと聞いてるよ? それでも平気な顔をしているあたり、まだまだ余力はあるんだろう? 大したもんだね」
そこに<幻灯狐>のクランマスター、オルガも負けじとサシャの視線をバルトロメイから奪うように話に交じってくる。その無形の迫力に、思わず言葉を濁して視線を彷徨わせるサシャ。
「まあ……余力が残ってるというか、それなりに?」
実際問題として、確かにまだまだ余裕はある。昨日街道で母子を救出した後、体内の青の泉は補充をしてあるからだ。けれどもそれはサシャの苦手な行動であり、人々が忌み嫌う禁忌のようなものでもあり、こうして街に入った今、次にいつこっそりと補充できるか分からない。
たとえその人目をはばかる行動の相手が魔獣だとはいえ、おおっぴらに人の目がある場所でやる訳にはいかない。この場で下手な物言いは禁物、そんな防衛意識がサシャには働いている。
が、サシャが見せた癒しに興味津々のクランマスター二人は、そんなサシャの「逃げ」ぐらいでは止まらなかった。注文した料理が所狭しと並び始めたテーブルにぐいと体を乗り出し、少しでも情報を得ようと迫ってくる。
「謙遜は美徳だが、本当のところを教えてほしいのだがな。まあ、老練な魔法ババアから見ても余裕ありとなれば、それが本当なのだろう。ちなみに先程ユニオンの職員に癒しを行ったところは見せてもらっていたが、どこまでの癒しが可能なのだ?」
「ちょっと熊公、あんた喧嘩売ってるのかい! ……でもまあ、どこまでの怪我が癒せるかってのはあたいも是非聞いておきたいところではあるね。まさか死者を甦らせたりも出来るのかい?」
「そそそ、それは無理だって! 自己流だし、欠損とかだって無理だから!」
流れに任せてとんでもない事を言い出す女魔法使いに、サシャは慌てて大声で否定した。彼女は魔法使いにしてはサシャが苦手な「邪な気配」に殆ど染まっていないようなのだが、珍しい人だねえなどとこっそり感心している場合ではなかった。
死者の蘇生など、本職の神官にすら不可能なことだ。大手クランのマスターだというこの二人がそんなひどい思い違いをしてしまっているのなら、それが変に広まったりすれば大変なことになる。今後を考えれば、この場で絶対に誤解を解いておかないと困る。
が、歴戦のダークエルフである<幻灯狐>のマスターはそんなサシャよりも役者が上だったようだ。慌てるサシャににんまりと妖艶な笑みを浮かべ、満足げに頷いた。
「くくく、なら欠損手前の怪我までは癒せるってことでいいね? 腹を毒剣に刺された者も癒せるんだ。かなりの力だよそれは」
「ほう、それは素晴らしい。やはり、少なくとも上級ポーションに匹敵する力はあるということか」
やばい。なんだか分からないがこれはやばい。
外堀が埋め立てられ、よく分からぬままに追い詰められているような予感に背筋が震えてくるサシャ。ちらりと彼がシルヴィエに視線で助けを求めると、同時にオルガたち二人の視線もそちらに流れた。
彼らからしてみれば、シルヴィエはサシャの同伴者である。
サシャ本人から情報を取れなくても、いや、むしろザヴジェルで高名な<槍騎馬>からの第三者情報が取れれば、それはそれで価値があるとの判断なのだろう。
そしてそのシルヴィエは生真面目に語り始める。
「む……そうだな。治癒効果だけでみれば、上級ポーションのやや上程度は確実にあるだろうな。昨日街道でフォレストウルフに襲われた民間人を共に救助したが、その際サシャは瀕死の母子を癒しきっている。重大な咬創と打撲、加えておびただしい出血――そんな母子をまとめて癒してのけたのだ、この神父は」
どこか得意げに口にされたシルヴィエの言葉に、ほう、とバルトロメイの上機嫌そうな相槌が入った。
「とはいえ、さっき私やユニオン職員を癒した時に比べれば、その母子の治癒時間はかなりかかっていたな。サシャ自身も大きく疲弊していたようだし、治癒能力で考えれば、私にはあれが上限に近いものだったように思える。……サシャ、合っているか?」
「うん、そのとおりだよ。リリアナさんとタチャーナちゃんは確かにぎりぎりだった。癒せてほっとしたけど、タチャーナちゃん、可愛かったねえ」
「うむ。ならばやはり、治癒効果だけで見れば上級ポーションのやや上、といったところなのだろう。かのブラディポーションほどの治癒能力はないのかもしれないが、それでもあれは素晴らしい癒しだった」
昨日救った母子のことを思い出し、思わずといった態で笑みをこぼすサシャに、尚も考え深げにゆっくりと頷くシルヴィエ。
「あはは。あの親子を救えたのは本当に良かったよね。上級ポーションてのは良く分からないけど、あれは確かにここ最近で一番の大仕事だったかも」
そしてこれは、サシャとしては好ましい流れでもある。
過剰な期待は誰のためにもならない。ザヴジェルで流通している上級ポーションがどの程度のものなのかは知らないが、それなりかちょっと良いぐらい――サシャの癒しは、シルヴィエのお陰でそんなニュアンスで定義されたように感じられた。
が、ほっとしたサシャを逃がさないとばかりにピクリと片眉を上げたのは、ダークエルフのオルガだった。
「ちょい待ちなシルヴィエ。あんたにしちゃ何だか奥歯に物が挟まったような物言いだねえ? 治癒効果だけでみれば、なんて何度も前置きしちゃってさ」
「む……また細かいことを。オルガも判っているだろう、サシャの癒しが本物だということは。ただ、そうだな。実際に癒しを受けた私から言わせてもらえれば」
「言わせてもらえれば、何だい?」
ずい、とオルガがさらに体を前に乗り出した。
シルヴィエはそれに動じる様子もなく、自らの中で正しい言葉を探しているかのようにゆっくりと言葉を繋いだ。
「……あれは、得難い体験だった。強いて言うならば、クラールは未だ我らを見守っている。あの刹那に私はそれを実感した。そしてその御力は、今なおこの身体に残っている」
「――ほう?」
「ちょ、ちょっとシルヴィエ、ななな何を言ってるのかな!?」
慌てたのはサシャだ。
思わずあたふたと立ち上がるも、好ましい穏便な流れだと思っていたものは既に欠片もない。例えて言えば、「飼い主が抱っこしてくれたが、そのまま猛獣の前に突き出された猫」のような気分である。
神の力が今なおシルヴィエの体に残っているというのは、おそらく癒しの余韻の身体能力活性化のことだ。が、今のサシャにそれを細かく説明する勇気はない。すでに追い詰めに入っている猛獣たちに、更なる餌を投げ与えるような気がしてならなかったのだ。
台無しだよ!とシルヴィエを睨むが、本人は「お前の癒しの価値は私が判っているぞ」とばかりに重々しく頷くだけだ。
「へえ……」
そんな二人のやり取りを見て、オルガが納得とも感嘆ともいえない声を漏らした。
脱力したように椅子に座りなおしたサシャを正面からまじまじと眺め、ふうむ、と大きく頷いている。腕組みをしたその下では、エバーグリーンのローブに隠された豊満な胸がふにゃりとひしゃげている。
「ふーん、主神の存在を実感した、ねえ……」
オルガの頭の中にあるのは、どんな癒しにしても魔法にしても、そこまで神々の存在が前面に出てくるものなど聞いた事がないということ。魔法には全く縁がなく、神々との親和性も乏しいケンタウロスという種族のシルヴィエが、まさかそんなことを言い出すとは驚き以外の何物でもない。
百戦錬磨の魔法使いである彼女は元々、彼女なりの理由で神の癒しを使ったサシャに強い興味を持っていた。それは戦いにおける彼の癒しの有用性だけではない。
二百歳をゆうに超える彼女は、ザヴジェルの神殿が衰退していく前にその神の癒しを見たことがある。先ほどサシャが使った癒しは彼女の目から見て、記憶にある神殿の癒しとは比べ物にならないほどに高度なものだった。
神の力を借りて人智を超えた現象を引き起こす、そういった意味では神の癒しと魔法は同じ行為である。力を借りる神の種類と手法が異なるだけだ。
だからこそ、練達の魔法使いであるダークエルフのオルガには分かっていた。先ほど目の前でこの神父姿の少年が行った神の癒し、それはまるで、かつてこの地に存在していた名高い――
そして他でもないシルヴィエが、癒しの中で神を感じたと証言している。それこそまさに――
「ふーん……その上で、魔に飲まれる直前のゾルタンに立ち向かっても行ったんだよねえ…………」
オルガは、サシャとゾルタンが揉めた経緯を初めから見ていた訳ではない。シルヴィエが刺された時に周囲から上がった悲鳴を聞いて振り返り、サシャが詠唱もなしに途方もない規模の神の癒しを行う瞬間を目の当たりにしたのが始まりだ。
その癒しの非現実さもさることながら、その後のサシャの行動にも不可解な部分はあった。
サシャ自身はいつの間にか戦いの場から離脱していたようだが、魔狂いに堕ちたゾルタンの動きは、他の魔狂いとは比べ物にならないほど鈍重なものだった。お陰で実にすんなりと無力化することができたのだが、それがこの少年が何かしたせいだとまでは言わない。
だが、魔に飲まれる直前のゾルタンに短剣を渡せと迫ったあの行動。
後から振り返れば、それはまるでゾルタンが魔剣をきっかけに魔に飲まれかけているのを分かっていたかのようであり、それは紛れもなく、これまで誰も事前に予知できなかったことで――
……こいつはもしかすると、もしかするねえ。
魔法使いオルガの美麗な顔に、獲物を狙う猛獣の笑みが浮かんだ。