11話 ファルタの夜と次の予定
「では皆さん、本当にお疲れ様でした。思いのほか早い到着でしたからね、これは臨時の感謝報酬です」
日没と同時に閉鎖される街門をぎりぎりでくぐり抜け、本当にファルタまで一日で到着してしまったぺス商会の一行。諸々の手続きも無事終わり、商会主であるオットーの慰労の言葉と共に解散となろうとしていた。
「ボリスさんたちは次のファルトヴァーン行きまでお休みです。なにせこんなに早く戻ってくるとは思っていませんでしたから、さすがに荷の準備が出来ていません。それに持ち帰ったトゥーマ商会の荷を届けたり、リリアナさん親子のブシェクまでの同伴商隊探し、サシャさんの魔鉱石販売などなど……ちょっと忙しくなりそうです。しばらくは有給休暇扱いで、この臨時報酬を使って骨休みしていてください」
「よっしゃ、久々の休みだ!」
「さすがぺス商会! 気前がいいねえ!」
オットーから臨時の報酬が入った布袋を受け取り、それぞれ喜びを露わにしているボリスとコウトニー三兄妹たち。通常の護衛報酬は所属の傭兵団を通じてやりとりしているだけに、こうして直接受け取る臨時報酬は彼らの懐を大いに潤すのだ。
「サシャさんは明日またウチの商会で、ということで本当に良いんですか?」
「はい!」
次いでオットーはサシャに向かって心配そうに尋ねたが、サシャは力強い頷きをもってそれに答えた。質問主が首をかしげるのに合わせ、頭上の犬耳も「本当に?」と言わんばかりに揺れているが、それに惑わされる今のサシャではない。
初めての街に、こんな日没ぎりぎりに到着したサシャ。
オットーは親切にも蚕人族の親子と一緒に商会に泊まらないかと誘ってくれたのだが、彼はそれをきっぱりと辞退したのだった。
オットーはなんだか忙しそうだし、懐にはもらったばかりの割増し護衛代金が入っている。仕事を完遂した今、塔に宿泊できるという宿屋にここで行かずして、いったいいつ塔の内部を探索するというのか。
「まあ、サシャさんがそうしたいなら止めはしませんが……。シルヴィエさんはどうします? 今回の割増金でちょうど目標額に届いていますよ」
「なっ、もう貯まったのか?」
「はい、大銀貨五枚がしっかりと。私としてはまだまだ当商会の護衛として残って欲しいのですが、武者修行の旅、続けるんですよね?」
「む……」
シルヴィエの視線がオットーの犬耳、母親に抱かれた赤子、オットーの犬耳、母親に抱かれた赤子と二回往復し、しばしの沈黙が訪れた。
口には出さないが、内心はあまりに早いそれらとの別離に驚き嘆いているんだ!――隣で話を聞いていたサシャにはそれが瞬時に分かった。そしてやはり口に出さず、こう心の中で同志シルヴィエに話しかける。
うんうん分かる分かる、自分も塔に呼ばれていなければ辛い別れだったよ、と。
「そうか、ならば名残惜しいがここまでだな。世話になった。縁があればまた会おう」
「――あれ?」
「ん? どうしたサシャ?」
何でもない!と慌ててごまかすサシャ。
どうやら同志シルヴィエは、サシャの思っていたより五割増しで大人だったらしい。私情よりも修行を優先するとはさすがは同志シルヴィエ、と勝手にサシャは感心しているが、そんな彼を無視して会話はどんどんと進んでいく。
「――分かりました。残念ですが、そういうお話でしたものね。でも今日はウチに泊まっていってください。預かっている分のお金も渡さなければいけませんし、リリアナさんたち親子も知っている顔が残れば心強いでしょう」
「そうだな。ではもうひと晩だけ世話になるとするか。いつも済まぬな」
「いえいえ、うちの娘がシルヴィエさんの大ファンなんですよ。これでこのまま別れてしまったら、後であの子に何を言われることやら――」
その時、ようやく会話に戻ってきたサシャは見た。
見上げた先にある、馬体の下半身の上で真面目な顔をしているシルヴィエの形の良い鼻の穴が、オットーの娘の話が出た途端にぷくりと広がったことを。
「……うわあ、そういうこと?」
もしかしたら、オットーの娘にも同じ犬耳がついているのかもしれない。もしかしたら、それはものすごい破壊力を持っているのかもしれない。なにせ中年のオットーについていてアレだ。それを小さな女の子が標準装備していたら――
「ぐぬぬ……」
同志シルヴィエは今夜、犬耳天国を堪能した上で修行に戻るのだ。さすがは同志、ツボはきっちり押さえている。思っていたより数段上級者だった彼女に、サシャはなぜか負けた気がして――
「何やってんだサシャ? 塔の宿に行くんだろ、ほら行くぞ?」
「はーい」
サシャはあっさりと気持ちを切り替え、件の宿へと案内してくれるボリスたちへと駆け寄った。考えてみれば、へそくり魔鉱石販売の話を詰めに明日オットーのところへは行くのだ。オットーの娘はそこで見ればいいだけの話だった。
物事には流れというものがある。今日は魅惑の塔の内部を探検し、明日はオットー家という名の犬耳天国を探検する――完璧である。
サシャはまだ何か話し込んでいるオットーたちにあっさりとひと晩の別れを告げ、意気揚々と塔の攻略に向かったのだった。
◆ ◆ ◆
数千年の歴史を持つ古都ファルタ。
その細く入り組んだ石畳の路地には、サシャが見たこともないほど多種多様な亜人が溢れていた。
オットーのような犬人族の珍しい亜種はもちろん、ボリスたち豹人族のようないかにも戦闘種族といった見た目を持つ虎人族や蛇人族も多く闊歩し、そしてサシャがやや苦手としているエルフやブラウニーなどの魔法使い系の種族などなど、かなりの種類と数が複雑に入り組んだ通りを行き交っているのだ。
中でも特に目につくのは矮人族、いわゆるドワーフの多さだ。
鍛冶や石工の優れた職人である彼らは、古代迷宮群から産出される様々な稀少素材を求めて大陸全土から集まってきているらしい。そんな亜人達がそれぞれ特徴的な装いをして、オレンジ色の魔石灯で照らされ始めた歴史ある街並みを賑やかに行き交っている――それが古都ファルタの宵の口の光景だった。
「おおお。中もすごいけど、窓からの景色もなかなか」
そんな光景を、ファルタの中でも特に由緒正しい塔の三階の窓から眺めているのはサシャだ。そこは創業五百年の宿屋、<ブラーズディル塔での憩い>亭の一室。ボリスたちの口利きもあって無事に部屋を確保することができた彼は、好奇心の趣くままにあちこちを眺めまわし、そしてこの小さな窓に吸い寄せられていたのだった。
何より彼が魅了されたのは、行き交う人々にゆとりがあること。人混み特有のすりやひったくりはあるのかもしれないが、これまで当たり前だと思っていた公衆の面前での略奪や強盗、人さらいなどは一切ない。人々は皆、笑顔さえ浮かべて夜の街を闊歩しているのだ。
サシャからしてみれば、それは楽園にも等しい光景。
天変地異が頻発し、日照時間が短くなって慢性的な飢餓と魔獣の脅威に怯えている世界とは思えないほどの素晴らしい光景だった。
ザヴジェルに来て初めに見た港街、ファルトヴァーンでもそれは感じていた。
けれどもその貿易盛んな港街だけでなく、内陸に入った街でも同じような豊かさが続いている――
「ザヴジェルって、すごいねえ……」
もちろん、室内の雰囲気も食堂での食事も素晴らしいものがあった。
六百年前に建造されたというこのブラーズディル塔は、元々は当時有名だった錬金術師の自宅兼研究所として使われていたらしい。不自然に変色した石壁や迷路のような廊下とかつての隠し部屋などなど、未だ当時を偲ばせるものが随所に残っていた。
サシャの泊まる部屋は当時はその隠し部屋だったそうで、魔石灯の試作品がこの部屋で作りだされただとか、錬金術師とさる貴族夫人との道ならぬ恋がこの部屋でこっそり紡がれただとか、そんな逸話がごろごろと残っているらしい。
それらを説明してくれる宿の主人の言葉にサシャは目を輝かせて聞き入り、それら先人のロマンに満ちた物語に胸を膨らませたのだった。
そしてまた、食堂で供された食事も良かった。
印象的だったのはクリームシチューと呼ばれていた、白くとろみのあるスープだ。まろやかで優しい味に舌鼓を打っていればなんと、中から野菜がごろごろと出てきたのである。その時の驚きときたら!
この終末世界で育ったサシャにとって野菜は究極の贅沢品であり、一番の大好物だ。
思わず声を上げてしまった彼がそっと口に運べば、弱火で数時間かけて煮込んだというそれら色とりどりの野菜群はとろけるような舌触りで、それぞれの仄かな甘さと香りがふわりと口の中に広がっていく――まるで夢を見ているような極上の体験を、サシャはしたのであった。
「いやあ、すごい宿を紹介してもらっちゃったねえ。これで料金は庶民派っていうんだから驚きだよ」
案内してくれたボリスが言うには、この宿は今のサシャの懐具合でも泊まれる庶民派の宿らしかった。考えてみればザヴジェルは未だ農業が従来どおりに行われている土地であり、あのクリームシチューもここではそこまでの値段ではないのかもしれない。
けれどもサシャの感覚では、あれは王様とかその手の人達が結婚式などの特別な場で食べる特別な料理であり、長い歴史を持つこの塔自体にしてもそう簡単にお目にかかれるものではない。ましてや中に入って一泊するなど、お金には替えられない価値のあるものだった。
「……けどまあ、お金、またなくなっちゃったね。魔鉱石も一日や二日じゃ売れないだろうし、どうしよ?」
この宿の料金は一泊銀貨一枚。
ごく普通の庶民が記念日などでちょっと贅沢をしたい時などに、そこまで気負わずに宿泊できる料金設定だ。
が、サシャの持ち金は元が元。
オットーが多めに護衛報酬をくれたとはいえ、それが銀貨一枚と大銅貨五枚だ。どう頑張っても、明日またこの宿に泊まるのは無理な計算だった。オットーに相談してへそくり魔鉱石の売価から幾許かを前借りするという方法もない訳ではないし、そこまでしなくても、魔鉱石が売れるまでぺス商会に滞在してもいいとオットーからのありがたい申し出もある。けれども――
「……ラビリンス、行っちゃう?」
そう呟くサシャの顔に笑みが広がる。
ラビリンス、それもザヴジェルで行ってみたい場所のひとつなのだ。
なんでもそこに一歩足を踏み入れれば、この世界とは別の広大な亜空間が幾層にも連なっているという。それが世界の七不思議、神の迷宮とも言われるラビリンスだ。
そのラビリンスでは、中に充満している濃厚な魔素が次々と魔獣を生みだし、さらにはその魔素を含んだ貴重な資源や素材の宝庫となっているらしい。そんな高額な魔素資源の採掘で一獲千金を夢見る者が雲霞のごとく集まって、実際に毎日のように大金持ちが誕生している――そんな夢のような場所。
そしてここファルタは霊峰チェカルが抱える古代迷宮群に隣接し、古来よりその恵みで栄えてきた街だ。霊峰チェカルに散在するラビリンスの数は二十や三十ではきかないという。今もサシャの眼下を行き交う戦闘系の亜人のうちの多くは、ひょっとしたらそれらラビリンスで生計を立てている者たちなのかもしれなかった。
「それに、そういえば…………」
ボリスたちはサシャをここに案内した後、所属する傭兵団<黒豹牙>が運営する長屋で飲み明かすと言っていた。その時は、傭兵団が所属する傭兵のために部屋を用意している、そこに驚いて気を取られていたサシャだったが、今思えば「他の傭兵団の長屋にも声をかけて景気よく――」などとも言っていた気がしないでもない。
つまりそれは、他にもここファルタに長屋を構えている傭兵団があるということであり、そして、ファルタにそれだけ傭兵の仕事があるということでもある。
「ということは……」
ファルタは何で栄えている街か――それは、間違いなくラビリンスだ。
ボリスたちのように商隊の護衛として年間契約している傭兵もいるのだろうが、ラビリンスがらみで稼いでいる傭兵も多いのではないか。
「うん、きっとそうだ!」
今のサシャは冴えている。
なにせ極上の野菜パワーが体の隅々にまで充満しているのだ。一を知れば十を知るがごとく、様々な考察が頭脳に溢れ出てくる。
外の世界と同様、魔獣はラビリンスの中にもいるのだ。
ラビリンスに入る人が護衛を求める場合もあるだろうし、腕に自信のある傭兵ならば手っ取り早く魔獣を狩りに入って売り捌いているかもしれない。
「だったら…………」
一攫千金はさすがに無理だとしても、自分だって日銭ぐらいは稼げるのではないか――サシャの頭にそんな計算が雷光のように閃いた。
「それだ!」
これでも、かつて生国では若手最強と言われたりもした元傭兵なのだ。こと魔獣との戦いなら自信もある。魔鉱石の採掘なんかは専門家でないと無理だとしても、ラビリンスでないと存在しない、毛皮などの素材が非常に高く売れる魔獣などもいると聞く。
そんな魔獣をなんやかやしてうまく探しだし、なんやかやしてうまく狩って売ればいいのだ。
そう考えると、なんとなく出来る気がしてくるサシャである。不確定要素の占める割合が大きすぎる皮算用だが、そこはそれ、その場でなんやかやすればいいのだ。
明日はオットーの商会に顔を出す約束だが、善は急げ。その前に朝一番で様子を見に行こう。偵察は大切だからね――そんな計画がサシャの中で音を立てて組み上がっていく。
ちなみに。
人前であからさまに武力を見せることを躊躇うサシャであったが、それについては問題ないと踏んでいる。戦う場所はラビリンス、戦場のように周囲に多くの目がある訳ではない。ズメイのように大型の竜種を狩ればさすがに噂にもなるだろうが、手頃な大きさの手頃な魔獣であれば全くもって問題はない。
それに、魔獣ひしめく戦場に突撃して片端から虐殺していく訳ではないし、狙った獲物を狩るだけだ。故郷では戦いばかりの日々に嫌気が差して傭兵業から足を洗ったのだったが、その程度ならそこまで厭世感を感じるようなこともない。
魔獣を狩るのはこんな世界に生きる以上は仕方のないことだし、サシャは今、何より金欠なのだ。
「……むふふふ、ゴールデンオークとか狩れちゃったらどうしよ? あの金色の毛皮、アスベカではたしか金貨五十枚とかで売られてたっけ。いや、あれはこんな小さな胸当ての値段だった。丸々一匹分の毛皮とかだったら……むふふ、むふふふ……」
夜も更けつつある遅めの時間。
神父姿の若者の不気味な笑みが、由緒正しき塔の三階の窓からファルタの街へと広がっていく。
ちなみに明日、そんなサシャの野望は世の中の現実という壁に打ち砕かれるのだが、そんなことは与り知らぬこと。一攫千金となる魔獣は狩るのが困難だから一攫千金になるのであって、ラビリンス内の地理や諸事情を知らない人間がそう簡単に狩れるものではない。それに、ラビリンスと共に発展してきた迷宮都市には迷宮都市なりのルールや商慣習があることもまた、彼の頭にはない。
けれども。
よし今日は明日のラビリンス行きに備えて早く寝ておこう、いやせっかくだからもう少しだけこの窓から街を眺めて――そんな幸せな悩みに頭を悩ませつつ、結局深夜まで街を眺めて過ごすサシャであった。
――そして。
細く入り組んだファルタの路地の、その奥まった暗がりで。
「……彼は何者だ? あれほどの青の力、尋常ではない」
「里に大至急知らせろ。あの瞳の色を見たか? もしかするともしかするやもしれぬ」
「まさか今になって、神隠しに遭った御子だと? あれから二十年、しかもあの格好だぞ。あり得ぬ」
「それを判断するのは我らではない。我が使いに立とう。二日と掛けずに着いてみせる」
闇より更に暗くすら感じる暗がりの中に、身体の中に青い泉を持つ者の一団が緊急集結していた。それぞれの泉はサシャのそれより遥かに小さいが、まさに同じもの。人に非ざる彼らが持つ、彼らだけが知る彼らの証だ。
「……ふた月前のクラールの神託はあの者の出現を意味していたのかもしれぬ。里に知らせてくるまでの間、くれぐれも監視を頼む」
「それは容易いこと。彼が街に入るなり、ここの全員が飛び起きたほどの青の力だぞ? 見失う方が難しい。こちらは任せておけ」
「よし、通常任務の方も怠るなよ。では、行ってくる」
そう囁きを残し、影のひとつがふつりと消えた。
残った者たちもそれぞれに動き出していく。
まどろむ天空神の手によって導かれた事態は、ゆっくり、ゆっくりと転がり始めた。