9章 チューニング〔水谷昭〕
千尋が前に座っていた。
チューニングが始まる。
「B♭お願いします」
「はい!」
もとから声のトーンが低めだからか、口調の問題なのか、千尋は緩そうな雰囲気を醸し出している。緩そうな、というよりかは、何となく柔らかい雰囲気を醸し出している。
千尋の顔が、ふっと真面目な顔になった。いや、真面目な顔だけど、どこか楽しそうな顔をしている。
いつもの千尋の表情だ。
千尋が指揮を振る。
それに合わせて音を出す。
ん?なんかおかしいな。
B♭の音があちこちから鳴る。
そう。鳴っているだけだ。音が混ざらない。
千尋が音を切る。
少し首を傾げ、でもどこか笑顔で言う。
「んー、なんか今日は音が飛んでないから……もっとあっちに飛ばすイメージを持って吹いて下さい」
「はい!」
「もう一回お願いします」
再び千尋は指揮を振る。
また、あちこちから音がなる。
鳴っているだけだ。
千尋が音を切る。ぶつりと音が切れた。
うーん、と少し唸ってから、言った。
「A群お願いします」
「はい!」
その声の中に、咲希の声が混ざっていることに気付き、ちらりと振り返った。
さっきのは、気のせいじゃなかったんだ。
あっこに心の中で、「ねぇ、咲希がいるね。さっきは気のせいかと思ったけど……」というと、心の中で声がした。
『気のせいなんかじゃないよ。間違い無く、咲希はここにいるよ』
……咲希の魂が、いる。
あっこは心の声を聞き、心の声を伝えられるような、こういう不思議な力を使えるのだ。他にもいろんなことをあっこはしてみせる。霊感も部内1だ。本当にすごい。
もう1度、後ろを見た。
確かに咲希の魂は、いる。
A群(咲希も含め)9人で音を出す。
千尋が音を切る仕草をした。
「バスクラお願いします」
そう言って小西を手でさす千尋。小西は機械の出す音に合わせて、B♭を吹く。その数十秒後、中野さんは、無言で咲希を手でさした。そうか。千尋も霊感があるんだっけ。
咲希のB♭が聞こえた。
「凛」
今度は凛のことをさした。
その次はその隣にいたさゆりちゃん。そして弦バスを弾く友子、佳奈ちゃん。チューバの耕太、小村くん、柴崎、と続いた。いつも通りだ。でも音は、いつもと違う。
千尋は、音を切り、1、2、と腕を振り下ろした。だいぶ指揮が上手くなって来たなぁ。
音を切る仕草。ぷつりと消えていく音。
「うーん、もう少し音量を出してあっちに飛ばしてください」
「はい!」
その後、B群、C群、D群、と続いた。
「全員でお願いします!」
「はい!」
もう一度、全員で吹く。しかし、千尋はすぐに止めた。もう一度、吹く。でも、またすぐに千尋は止める。
「うーん……なんだろう、なんか……」
「ごめんね、ちょっと割り込んでもいい?なんで今日はこんなに音が飛ばないの?うちの目の前で、ぼとぼと音が落ちてく……みんなしてなんかそんなに音が飛ばなくなるぐらいショックで悲しいことでもあったの?」
突然あっこが割り込み、話し出す。
いや、さすがに急にそれを持ち出すのはダメでしょ、と心の中で突っ込むが、手遅れだった。
咲希が死んでしまったことは、あっこも知っているはずだ。なのに、なぜ……
やはりと言うべきか、その途端、その場の空気が凍りついた。
しばらくして、ちりかが声をあげた。
「……あっこはミーティングにいなかったじゃん!だから知らないんだよ!だから、だから……」
「待ってちりか、落ち着いて!……ミーティングで、何かあったの?」
いや、だからあっこは知ってるんだってば。
……なんて心の中で言っても無意味だが。
「私の、事だ……」
咲希の声だ。
咲希は、悲しそうに俯いていた。
やはり、気にしているのだろうか。自分が死んだことでみんなの元気が無くなったことを……
『咲希は、何も覚えてないよ。記憶がないって本人も言ってた。でも、ミーティングで何かあったと言われたら、自分らしき人のことでしかない、と思ったんだろうね。まあ、気にしてるのは確かだよ』
あっこが心の中で返事をしてくれた。その時、凛があっこに話しかけていた。
「あっこ……。昨日、咲希が、人身事故に遭ったんだ。それで、咲希は……死んじゃったんだ」
「だからみんな、テンション下がってるの?」
あっこはそれに見事に返す。心の中で話しながらも現実で話している人の声を聞いて返せるなんて。やはり、すごい。
……ってそんなに感嘆してる場合じゃない。
「……」
みんな無言だった。
「……それならなおさら、みんなテンションあげて吹こうよ!ここから咲希のところまで、音を飛ばそう!咲希にうちらの演奏を届けようよ!」
「えっ?」
「きっと、咲希は聞いてくれるよ、うちらの演奏を。きっと、咲希はみんながいつも通り演奏した方が安心するはずだよ!」
あっこの気持ちが、分かった気がした。
『うちらみんなの演奏を聴けば、何か思い出すかもしれない』
『咲希に、うちらが元気で明るく、いつも通り過ごしているところを見せたい』
本人はきっと無意識だけど、でも、そんな思いが伝わってくる。でも、みんな半信半疑のようだった。
しばらくの沈黙。
もう、この沈黙は嫌だ。
なんで、分からないのかな。
「あのさ、」
その沈黙を破ったのは、俺だった。
「みんな、顕子が嘘をついたこと、ある?」
みんな、首を振った。
言わなければ、気が済まなかった。
「今の言葉だって、俺は嘘じゃ無いと思うけど。俺は、今の言葉は顕子の本音だと思う。だから……」
心を込めて、一言言った。
「みんなで咲希に、音を届けよう」
その言葉に、みんなは大きくうなづいた。
伝わっただろうか。
あっこが、『ありがとう』と言う声が聞こえた。恥ずかしくて返さなかったけど、でも本当は嬉しかった。
「もう一回B♭お願いします」
「はい!」
再び音を出す。
その次の瞬間、思わず笑顔になった。
ちゃんと、伝わったんだ。
音が遠くへと飛んで行く。伸びて行く。美しい響きになって、別の音が響き出す……
音を切っても、響きはしばらく残っていた。
「えっと、今すごく響いて遠くに飛んでたし、倍音も綺麗に響いていたので、曲もこんな感じでお願いします」
「はい!」
チューニング……簡単にいうと音合わせのことです。
B♭……ピアノで言うシ♭の音のことです。
A群……低音を担当する楽器のグループです。例を挙げるとバスクラリネット、バリトンサックス、ファゴット、コントラバス、チューバなどです。
B群……中低音を担当する楽器のグループです。例を挙げると、トロンボーン、ホルン、ユーフォニアム、テナーサックスなどです。
C群……中低音と高音の間の音域を担当する楽器のグループです。例を挙げるとアルトサックス、クラリネット、オーボエ、トランペットなどです。
D群……高音を担当する楽器のグループです。例を挙げると、フルート、ピッコロなどです。
補足)AからDまでのグループがありますが、学校や教本によってはこの楽器の分担とは違うことがあります。今回は作者の高校時代の分担を参考に書きました。




