三章(3)
3-3
「よく来て下さった、ビルゲ。夜中にお呼びたてして、申し訳ない。……まず、くつろがれよ」
「どうぞ、お気遣いなく。」
てっきりメルゲン・バガトルのユルテ(移動式住居)へ運ばれて行くのだと思っていたジョクは、天幕に案内され、驚いていた。長老会や氏族長会議を行う、盟主の仕事場だ。居心地のよい奥の間の絨毯へ、アラルの手をかりて腰を下ろす。ちょうど、仕事を終えたばかりの長老達が、帰って行くところだった。
「長老会だったのですか? 今まで」
「…………」
「盟主こそ、お疲れでしょうに」
ジョクが労わると、メルゲンは、口髭に覆われた唇に微笑を浮かべた。アラルが、タオを送るために下がる。
長老のなかで一人だけ残ったトクシンが、ジョクの為に乳茶を煎れてくれた。
天幕には、ジョクとメルゲン・バガトル、トクシン・サカル、遅れて入って来たオルクト・バガトル(トゥグスの父)の四人がいた。
「……良いようだ、メルゲン・バガトル。みな帰った」
「ラーシャム。義兄上も、おくつろぎ下さい」
オルクト族長は、神妙な表情でジョクの隣に腰を下ろし、胡座を組んだ。メルゲンと二人の族長に囲まれる態勢になったので、ジョクは少し緊張した。
そんな彼に、メルゲン・バガトルは穏やかに話しかけた。
「そう、身構えることはない。シルカス族の賢者よ。我等は、貴公の知恵をお借りしたくて、お呼びしたのだから」
「……何ですか?」
「その前に、ひとこと、礼を言わせてくれ」
『似ている』 乳茶を勧められながら、ジョクは、盟主がトクシン長老とオルクト族長の緊張もほぐそうとしていることに気づいた。その、揺るぎのない信念に裏打ちされた精悍な面差しを眺め、思った。
『何て、ディオに似ているんだろう』
トゥグスとは違い、ジョクには、間近に盟主の顔を眺める機会は多くなかった。ディオは碧眼、メルゲン・バガトルは冬の夜空のような漆黒の瞳だが、年齢の差を考えても、二人は瓜二つといえた。
ディオが長じれば、正しく、こうなるだろうと予想される――その通りの顔をして、その通りの静けさで、メルゲンは続けた。
「いつも、息子が世話になっている由……礼を言う、安達よ。どうか、これからも、息子の力になって頂きたい」
「いえ……」
「儂も礼を言う、ビルゲ」
オルクト族長が、苦笑しながら口を挟んだ。盟主とは違い、こちらは雷のようなしわがれ声だ。
「いつもいつも、うちの莫迦息子が、迷惑をかけて申し訳ない。息子が、少しは貴公のように賢くなってくれれば良いのだが」
「いえ……あの。どうか、お止め下さい」
オルクト族長のぼやきに、メルゲンとトクシンは、表情を和ませた。親ほど年長の氏族長に頭を下げられて、ジョクは恐縮した。
「お礼など、おやめ下さい。お世話になっているのは、わたしの方ですから。迷惑をおかけしているのは……」
「そうか?」
「そうです」
メルゲンの声は、優しかった。ジョクは、彼を真っ直ぐに見返した。
「ディオとトゥグスが居なければ――わたしは、とうにこの命を絶っていたと思っています。シルカスは、絶えていたでしょう」
「貴公と共に生きることを『迷惑』と考えるような男には、私は、息子を育てた覚えはないのだが」
「…………」
「儂もだ」
柔和だが厳格なメルゲン・バガトルの言葉に、ジョクは息を呑んだ。オルクト族長も、相槌を打つ。
壮年の族長は、がっしりとした顎を動かして、白い歯を見せた。
「儂も覚えはないぞ、賢者よ。もし、あの莫迦息子が、そのような心得で貴公に恩着せがましくふるまうなら。二・三発、どつき倒してやらねばならん。いや、百発だな」
「いえ、あの、違うのです。わたしが言いたかったことは。どうか、誤解しないで下さい。そのような意味ではなく――」
ここでメルゲン・バガトルとオルクト族長が、見事な髭をふるわせて笑い出したので、ジョクは絶句した。(笑い方まで、メルゲンは、ディオに似ていた。) それから、恥ずかしくなる。
誤解していたのは、他ならぬ自分だと気づいて。
「……スミマセン」
「なに、貴公が謝ることはない。賢者よ。我々は、貴公を尊敬している。息子達も然り……。それ故、お呼びしたのだから」
「……判りました。盟主、オルクト・アンダ。では、貴方がたも、考えをお改め下さい」
「何?」
ジョクが面を上げると、メルゲンは、軽く瞬きした。
オルクト族長も、首を傾げた。
「ビルゲ?」
「……わたしが、この身のせいで同胞に迷惑を懸けていると卑屈に思う考えは、改めます。どうか、貴方がたも、お改め下さい。わたしがこの身に業を負うが故に、尊敬するというお考えを」
「…………」
「歩けないわたしが――わたし達が、貴方がたと同じ生き方をしようとしているからといって、尊敬するのはやめて頂きたい。当然のことをしているのですから、わたし達は。……貴方がたが歩けるからといって、わたしは、尊敬などしませんよ。我々は皆、己に出来ることを、当たり前にしているだけです」
「…………」
「ご気分を害しましたなら、どうぞ、お赦しを」
「いや」
黙したメルゲンに、ジョクは頭を下げた。メルゲンは首を横に振ったが、瞳と口調には当惑が含まれていた。
「いや……。だが、これは」
「成る程」
トクシン・サカルが呟き、オルクト族長は腕組みをして唸った。ジョクが見ると、メルゲンは眉根を寄せていた。
盟主は、軽く息を吐いた。
「ラー(了解した)、賢者よ。私の方こそ、貴公の気分を害したのであれば赦してくれ。そのように考えたことは、なかったのだ」
「……解っています」
「これほど堂々と言える者は、貴公だけであろう。貴公と同じ立場にいる多くの者は、それほど毅くはなかろうし……。我々には、口に出来ぬ言葉だ。ディオや我々が、貴公らの尊厳を傷つけることがあっても、ご寛恕ねがいたい」
「……それも、理解しています」
「それから……。貴公に言われても、おそらく、我々の貴公に対する感情は変わらないであろう。何故なら、貴公がいう当然さえ出来ぬ者が大勢いると、知っているのだ」
「…………」
「それから――」
「どうぞ、お始め下さい」
ここに至って、ジョクは哂った。ディオの性格を知っている彼は、メルゲンがこういう問答に弱いと、容易に推測できた。
「つまらぬことを申し上げました。お赦し下さい。……お聞かせ下さい。わたしで出来ることでしたら、務めさせて頂きます」
「…………」
メルゲン・バガトルは、困惑気味に口を閉じた。まだ言い足りない風ではあったが、本来の用事を思い出したのだ。身振りで、トクシン・サカルを促した。
大柄なオルクト族長より細身なトグル氏に似ているトクシンは、感情を抑制した声で、ジョクに話しかけた。
「事態は芳しくないのです。シルカス殿」
「…………」
「刻一刻と悪化していると言って、過言ではありません。概ねのところは、既にご存じと思いますが――」
「トゥグスに、聞いています」
ジョクは頷いた。
「ボルド安達が、オルドウを去ったと――」
「オーラト氏もだ」
オルクト族長が、忌々しげに言った。ジョクは、眼を見開いた。
「オーラト殿も、ですか?」
「ああ。いや、違うのだ……」
「表向きは、縁者のボルド氏を止められなかった責を負って謹慎する、と仰っていますが――」
盟主の言葉を、トクシン・サカルが引き継いだ。彼が、最も冷静だった。
「スブタイ・ミンガンをはじめ、氏族の者を連れて帰られました。今後の情勢を見極めてから、どちらに味方するかを決めるおつもりなのでしょう」
「クチュウト安達も、庭(縄張りの草原)へ帰られた」
メルゲンの声に、ジョクは、彼に向き直った。メルゲン・バガトルは頷いた。
「こちらは、私がお勧めした。最も危険な場所に在る彼族の庭を、今、氏族長が留守にするべきではない」
「つまり。今、オルドウには、我ら三氏族しか居らぬということだ」
オルクト族長は、どうにも状況が気に入らないらしく(気に入るはずもなかったが)、苦々しく言った。
「バヤン殿の為に集まった諸氏の長達も、もう帰るであろう。残った手勢で、我々は、ボルドの裏切り者とタァハル部族と、戦わなくてはならない。下手をすると、オーラト族まで敵に回る……。最悪の場合、タァハルと手を結んだ、タイウルト部族とも。オロスやハル・クアラ部族も、機に乗じて攻め入って来るやもしれぬ」
「この状況を打開する策はないかと、我々は考えていたのだ」
メルゲン・バガトルの口調は、明日の天気の話でもしているように落ち着いていた。片手を振って、オルクト族長をなだめる。黒い瞳には、微笑みすら見えた。
ジョクは、慎重に訊ねた。
「……何か、ありましたか?」
「うむ」
ここで、『儂は気に入らぬ』 と言わんばかりに、オルクト族長が咳払いをして顔を背けてしまったので、メルゲン・バガトルは言い淀んだ。――しかし、結局、囁くように続けた。
「あったと言うべきか……。有効と思える手段は、今のところ、一つしかないのだ。貴公の意見を伺いたい、ビルゲ」
「どうぞ」
「現時点で、我々の取り得る行動は、三つあると考えている。一つは、ボルド氏に降伏し、オルドウもイリも、奴等とタァハル部族に明け渡して、救いを求めること――」
「反対」
即座にオルクト族長が応じ、メルゲンは、唇を歪めた。声が、わずかに低くなった。
「ラー、義兄上。……私も、この策には反対だ。降伏しても、我々は、タァハルに皆殺しにされるだろう。イリでは、二つの部族を養い得ない。戦いもせずに部族が滅んだとあっては、民も納得しないだろう」
「当然だ」
「では、戦うのか?」
オルクト族長は相槌をうったが、改めて問い返されると、返答出来なかった。
ジョクは黙って、盟主を見詰めた。
「ボルド氏とタァハル部族を倒す為に、我ら三氏族で兵を挙げる……成る程、不可能ではあるまい。我々が全力で戦えば、奴らを退けられるかもしれない。――だが、オーラトは、どうなるのだ?」
「…………」
「私は、いつも、最良と最悪の事態を、同時に考える習慣でね」
集中して聴いているジョクを見て、メルゲン・バガトルは、あわく微笑んだ。
「我々がタァハル族とボルド氏と戦っている間に、オーラト族に後背を攻められたら、どうするのだ。或いは、同時に攻撃を仕掛けられたら……。クチュウト氏とシルカス氏の庭を、守ることは出来ないぞ。我々に、そこまでの力はない。さらに……もし、タイウルト族とオロス族が、これに加われば。産まれて来たことを後悔する羽目に陥るだろうな」
「…………」
「そこで。私は、三つ目の策を挙げたい。すなわち、和睦――」
「……今さら、和睦ですか?」
ジョクが思わず呟くと、メルゲンは寂しげに……哀しげに、眼差しを曇らせた。ジョクは、酷く悪いことをした気持ちがして、口を閉じた。
「ほら、みろ」
オルクト族長が声を上げた。
「メルゲン。シルカス公も、こう言われるのだぞ。やはり、儂は反対だ。だいたい、向こうが先に裏切ったものを、何故、我々が許してやらねばならんのだ? まして、盟主たるお前が自ら出向いて説得するなど、正気の沙汰ではない」
これにはジョクも驚いて、閉じた口を再び開けた。
「盟主が行くと仰るのですか?」
「そうだ」
「そのような……殺されてしまいますよ、安達」
メルゲンは、今度は、ゆっくりと微笑んだ。漆黒の瞳に、深みが増す。全てを見透かすように。
彼は静かに、だがはっきりと応えた。
「……私だから役に立つとは、考えられないか」
「何ですって?」
「族長だから効果があるとは、考えられないか、賢者よ。義兄上達も……。隷民の使者では、斬り殺されてしまう。自由民でも、然り。だが、族長であれば、そうすぐに殺すことは出来ない」
「…………」
「それが即戦争に繋がるのだと考えれば、躊躇いも出よう。……我々がボルド安達を殺せなかったのと、同じ道理だ。その迷いに、私は、活路を拓きたい」
「殺されてしまったら、どうするのだ」
苦汁を飲まされたような表情で、オルクト族長が言い返した。すっかり義兄の口調に戻っていた。
「お前の言うことは判る、メルゲン。それでお前が殺されてしまったら、どうすれば良いのだ。バヤン殿のように」
「あの時は、確かにこちらが出遅れた。今度は違う」
「…………」
「義兄上、安達……ご了承頂きたい。私は、ただ頑迷に和睦を主張しているつもりではないのだ。父上の時にも。――私はこれを、彼の部族との戦いの、戦略の一つと考えている」
「戦略、ですか?」
メルゲンは疲れたのか、ジョクの問には答えず、乳茶に口をつけた。懐から煙管をとり出し、眺めて考える――吸おうとはせず。トクシン・サカルが代わりに言おうとするのを、片手で制すると、おもむろに説明を始めた。
「……安達。残念ながら、今の我々に、タァハル部族とボルド、オーラト氏族の全てを敵にまわして勝てる力のないことは、認めて頂けると思う。更に、タイウルト部族やオロス氏族まで敵にしては、手の打ちようがない。最悪の場合、これらの部族が、一斉にこのイリに攻め入って来る可能性がある」
「…………」
「だが、一斉攻撃でなければ、話は違って来る。まだ迷っておられるオーラト氏族を引き止めることが出来れば、北方の守りは確保される。オロス族も、考えを変えるだろう。……我々がタァハルに対する戦いに備える為の時間を、私は稼ぎたいのだ」
「盟主」
「使者が貴族階級の者であれば、旅程を考慮しても、ボルド氏に対して最低で三日……オーラト族に対しては、五日間の猶予が得られる。この間、両氏の結託を防ぐことが出来れば、我々が生き残れる可能性もあるだろう」
「そういうことなら、儂が行こう」
ジョクは、メルゲンを見詰めていた。淡々と語る盟主の顔を見ながら、『この人を臆病者と言ったのは、誰だろう』と、思っていた。
いったい、『臆病』とは、何を指して言うのかと。
そんな少年の視線を、メルゲン・バガトルも真摯に受け止めていた。オルクト氏族長の言葉に、フッと頬を緩めた。
「ボルド族の所へは、儂が行く。盟主・メルゲン・バガトル、貴公が本営を離れる必要はない」
「いえ、義兄上。貴方には、残って頂かなくてはなりません。ここに残って、オルドウを守って頂かなくては……。後事に備え、ディオやトゥグスを導いて頂きたいのです」
「…………」
「息子は、まだ未熟です……まだ、幼い。息子達だけでは、オルドウを守り切れません。実戦に長けた、貴方のような方が必要です」
「…………」
「それに、相手がオルクトでは、彼氏は話を聴かぬでしょう。ここはやはり、盟主である私が行くべきかと考えます」
オルクト族長は、沈黙するしかなかった。
ここに至って、ジョクは、メルゲン・バガトルが何故自分を呼び出したのか、推測することが出来た。
「……オーラト族の所へ出向く者が、必要ですね?」
訊ねると、メルゲンは、少年の聡明さを喜ぶように眼を細めた。
「賛同して頂けるのか?」
「ラー(御意)。それが、貴方の御意志なら――」
「…………」
「わたしで、どれだけお役に立てるのかは、分りませんが……。出来るだけのことは、させて頂きます」




