お妃さまは、できた人 ―私が『ざまぁ』を書くとこうなる―
(既に終わったかもしれない、)一大ムーブメント、所謂『ざまぁ』を書いてみたくて書きました。
「アナトリア・ヒルデンバルド! 今を持って、このヴィンセント・ビスタークとの婚約を破棄する! ここに集まる皆のものは、全てその証人である!」
「はあ……?」
その日は、王立学術院の卒業生を祝う舞踏会が催されていた。特別に貸し出された王城の大広間では、シャンデリアがきらびやかに輝き、その空間を縁取る豪華かつ荘厳な意匠を照らしている。
広間の中央部を囲むように、贅沢な料理が並び、ある者は料理をとりわけて、ある者は侍女が運びまわるグラスを手にして歓談しているところだった。
その空間を、この国の第1王子であるヴィンセント・ビスタークの大きな声が引き裂いた。
黄金の髪に縁取られた端正な顔が怒りに歪み、その緑の透き通った瞳には、その透明さを邪魔する怒りの熱がともっていた。
それに返るのは、呼びかけられた張本人の問い返すような声。彼と少しの空間を挟んで向き合う、アナトリア。現王の姉が降嫁した公爵家の長女であり、王子とは従兄同士、また婚約者として、これまで過ごしてきた女性である。
アナトリアは、ゆったりと首を傾げ、広げた扇で口元を隠しながら、ヴィンセントと同じ緑の瞳で、じ、とヴィンセントを見返す。首の動きに合わせて、アップスタイルにセットされた髪から僅かに肩へと流された、ひとすじのクルミ色が揺れる。
王立学術院の今期の卒業生であり、宴の主賓に含まれる2人である。これからダンスが始まろうとしていたこともあり、婚約者として、また、次代の王と王妃になるだろうカップルとして、1番衆目を集める広間の中央へ向かっていたところだった。
シン、と静まりかえった広間の隅で、くすくすと、嘲笑のような笑い声が聞こえた。
聞こえるわよ、だめよ、という言葉とともに、次第におさまっていった、その矛先が、アナトリアに向いていると思ったのだろう。それが、自分に都合のよい勘違いだ、露とも思わずに。
ヴィンセントは気をよくしたように、口の端をわずかに持ち上げた。
「とりあえず……そうですね、理由をお伺いしましょうか」
「俺が、リナ・フォークスを愛しているからだ!」
「はあ……」
ヴィンセントがそう言いながら、2人を囲む群衆へ手を差しのばすと、まるで呼びだされたように群衆の隙間を縫って、リナ・フォークスの姿が現れた。
リナ・フォークス。
フォークス男爵の妾腹の娘であり、秘匿されて育てられてきたものの、その利発さ故に男爵が認知し、王立学術院へ入学することになった生徒であった。
とはいえ、学年は2つ下なので、アナトリアにとっては、彼女が学年主席である、と言う程度にしか、その優秀さは分からない。
アナトリアの学年では、彼女自身が主席であることも、相手の優秀さを推し量れない理由となっているのかもしれない。
ヴィンセントは当然のように、リナへとその手を伸ばし、リナも当然のようにその手をとった。
そのことに、再び周囲の人間からさざめきが広がった。小声で、また幾重にも重なって聞き取れないが、言っていることはおおよそ想像がつく。
今日この日、ヴィンセントは彼女を伴って舞踏会へ参加していたのだ。
その所為で、アナトリアは怒り狂う父母を押し留めて、弟にエスコートを頼むことになった。舞踏会へ参加できるのは、王立学術院の上位3学年のみであり、弟の婚約者がそこから外れていたことが幸いであった。
そんなわけで、婚約者ではない人物をエスコートして現れたヴィンセントに、周囲の興味が向かないハズがない。その渦中の人物の登場に、一斉に観衆の興味が向いたのだろう。
ふと、アナトリアが2人から視線を上げると、現王の代理として祝辞を述べにきた宰相が、真っ青な顔で頭を抱えていた。可哀そうなことである。
とはいえ、アナトリアは、呆れながらも目の前のヴィンセントの相手をしなければいけないのである。宰相にはぜひ1人で今の、そしてこれからの苦労を背負っていただきたい。
「ヴィンセント様のお気持ちはよく理解できましたわ」
「そうだろうとも! これまでお前は勉学に帝王学に宮廷マナーにと理由をつけては、俺のことなど鑑みようともせず、学術院やこの王城に入り浸りであった。その時に、俺を傍で俺を支えてくれたのが、このリナである!」
この頃になると、オーディエンスからは、小さなざわめきすら、聞き取れなくなっていた。ふと、周りを見回せば、男性は眉を厳めしく寄せており、女性はその顔を扇で覆っていた。
おそらく、呆れて物も言えなくなったあまりに、他人には見せられない表情になってしまったのだろう。
辺りを見渡したアナトリアに、彼女が衆目を気にしたとでも思ったのか、ヴィンセントが言葉を続ける。
「婚約者を放っての自由三昧! お前の行動は目に余るものがあった!」
「……そうですか。ヴィンセント様にご不快を与えてしまっていたのでしたら、その点については謝罪いたしましょう」
「お前の冷たい心に触れるうちに冷え切った俺の心を温め癒してくれたのは、リナなのだ」
「なるほど、それほどまでに、フォークス男爵令嬢を愛していらっしゃると。……それで?」
アナトリアの最後の言葉は、ぞっとするほどの冷たさを含んでいた。
「だからこそ、今ここでお前との婚約を破棄し、新しい婚約者として彼女を迎えいれることとする!」
その言葉にも広間は静寂を保っている。顔を青白くして今にも倒れそうな宰相は、広間奥の扉から出て行ったようだった。まぁ、そうなるだろうな。
ヴィンセント自身は、新しい婚約者の発表に、広間の人間が歓迎に沸きたつとでも思っていたのだろうか。辺りを見渡して、どこか不機嫌そうな顔をしていた。
「……残念ながら、それはできませんわ、ヴィンセント様」
「なんだと!? 今さら醜く俺に縋りつこうというのか! そうまでして、王妃の座を欲しがるというのか! 小賢しい雌狐め!」
「宴の場で雑言を耳にするのは、他の皆さまがご不快に思われますよ」
「そうやって話を濁す気か!」
「いいえ、ヴィンセント様のお立場を思い、婚約者としてご忠言差し上げたまで。差し出がましいことでしたら、失礼いたしました」
あくまで平然としたアナトリアの様子に、ヴィンセントは不機嫌そうに言い募る。
「お前は、婚約破棄ができないと言ったな! その理由を述べよ!」
「……簡単ではありませんか。私とヴィンセント様の婚約は、陛下と我が父ヒルデンバルド公爵との間で決められたこと。その当事者だからといえ、勝手に解消というわけにいかないことは、ヴィンセント様でもお分かりでしょう?」
「お前は、先ほど俺の気持ちが分かったと言ったではないか!」
「気持ちの問題と政略の問題は別ですわ。陛下が望まれ、父が納得したのであれば、私はそれに従うまで。フォークス男爵令嬢のことは、陛下の許しを得て、側妃としてお召し上げになればよいのです。そういった意味で、お気持ちは承知したと申しました」
「なんだと! 父上と公爵を引きあいに出してまで、婚約破棄を拒むというか!」
「いえ。もし、陛下が望まれれば、私はヴィンセント様の婚約者ではなくなるでしょう。しかし、陛下の御心にお変わりがないのであれば、私はヴィンセント様の婚約者であり続けます。……それとも、ヴィンセント様は陛下のお言葉に異を唱えられるということですか?」
「う……ぐっ……」
さすがのヴィンセントも言葉につまったようだった。
公衆の場で婚約者をこき下ろすことはできても、いかに父とはいえ、現王の言葉に異を唱えることの不敬は、さすがに理解できているということだろう。
「失礼いたしました。まさか、そんなことはおっしゃらないですわよね。私としたことが、過ぎた勘ぐりをしてしまいましたわ。ご不快に思われたでしょう。謝罪いたします」
アナトリアが、そう言ってヴィンセントに膝を折ったのは、あくまでオーディエンスへのパフォーマンスに他ならなかった。ヴィンセントの不敬はあくまでアナトリアの勘ぐりで、ヴィンセント自身にその意がなかったことを明白にするためである。
尤も、このままヴィンセントが引き下がらない限り、その配慮も無駄になるかもしれないが。
「……俺としては、冷めきっていたとはいえ、一応の婚約者であったお前の名を守ってやるつもりだったのだが、そうもいかぬようだ。お前がこれまでリナへ対して行った数々の非道! それは、もはや罪である! 罪人として、我が婚約者にふさわしくないことを、今、この場で明白にしよう!」
「はあ……」
この返事をするのは、今日3回目だ。予想通りではあるが、今しばらく、婚約者の戯言に付き合わねばならないことに、内心で溜息をつく。
「一体、何のことでしょう?」
「1つ、リナをその嫉妬から言葉で責め立て、精神的に追い詰めさせたこと! 1つ、リナの私物を私室あるいはロッカー等から無断で持ち出し、破棄したこと! 1つ、リナの衣服を故意にワインで汚し、男爵令嬢に恥をかかせたこと! 1つ、リナを亡きものにしようと学術院2階の窓から彼女に向かって鉢を落とし、その命を危険にさらしたことである!」
「……そうですか」
アナトリアは扇を閉じて、それを口元に添える。
「残念ながら、1つを除いて身に覚えがありませんわ」
「言い逃れるつもりか!」
「いいえ、まさか。ですが、そうですね……。先の言葉は覚えておいてくださいましね。ヴィンセント様が申し上げられた中の1件以外は、全て身に覚えがないと。その上で、例え話をさせていただきますけれど。……もし私が、それら全てに関わったとして、何か問題が?」
アナトリアは口元に薄笑いを浮かべて、ゆっくりと小首をかしげて見せた。
「なんだと! その罪の重さも分からぬというのか!」
「まず1つめから。こちらが、私に身に覚えのあることですわ。あぁ、覚えがあるとはいえ、理由は嫉妬ではありません。未婚の女性が、未婚かつ婚約者のいる男性に気易く近づいては、双方にとっての醜聞になると。特に、ヴィンセント様は、これから国を背負っていかれる方なのだから、少し弁えてくださいな、とお願い申し上げました。とはいえ、こうしてヴィンセント様に手を引かれ、舞踏会へいらしたということは、精神的にも、さほど追い詰められてはいらっしゃらないのでしょう。……それとも、私の言葉は間違っておりますかしら?」
ヴィンセントは咄嗟に反論できずに、ぐっと押し黙る。リナの醜聞にもなると言われて、また、一般論であっても、それは違うと言えるだけの図太さは、さすがに有していないのか。
「それでも、ことさらに相手を追い詰める物言いを選んだのではないのか」
「申し上げたではないですか。アナタ様とこうしてこの場へいらっしゃるのであれば、堪えてはいらっしゃらないのでしょう、と。それから、残りの件ですが。私はやっていませんが、もし、そういう事実があったとして、その証拠はどこに……?」
「なんだと!?」
「私物をうっかり失くしてしまったり、人の多い場所でぶつかった際に飲み物を溢してしまったり、窓際を通る際に飾られた鉢にぶつかり、下へ落としてしまうことは、偶然でも起こるではありませんか。フォークス男爵令嬢は、間違いなく、それが、私によって、故意にもたらされたものだと、そうおっしゃったのですか?」
「そ、そうだ!」
「……証拠は?」
「しょ、証拠は、現場に残されていたお前の髪の毛だ!」
「……同じ髪色の生徒が何人いるとお思いに?」
まさか、それだけが証拠だというのか。ねつ造したにしても、少なすぎるだろう。再び扇で口元を隠すと、今度ばかりは小さな溜息をその場で吐いた。
「お前はリナの証言が嘘だというのか!」
「先ほどからそう言っているではありませんか。そして、或いは私が本当にそれらを行っていたとしましょう。ヴィンセント様の婚約者である、私、ヒルデンバルド公爵令嬢が、ヴィンセント様に不用意に近づき、ともすれば愛を語り合っている女性、フォークス男爵令嬢に対して、忠言が無駄に終わり、仕方がなく物理的にその行動を諌めることとした。……やり方が稚拙なことは恥じるべきでしょう。しかしながら……それの、どこが、問題に?」
「なんだと!?」
ギラリ、とヴィンセントの瞳の奥で怒りの炎が再燃した。
「命を奪おうとして、それを正当化するつもりか!」
「……ヴィンセント様ともあろう御方が……。公爵令嬢たる私が、本気でその命を狙おうとして、白昼堂々、通るか、通らないかすら分からない、フォークス男爵令嬢を待ちながら、その真上の廊下で、鉢を構えてずっと待っている必要があると? その様子を目撃した生徒が全くいないということも不思議なものですが、今はそれは置いておいて。学院で、私が1人の生徒を排除するために、そんな稚拙な行動が必要だと、本気でお考えなのですか?」
ぱちり、と音をたてて、アナトリアの手元で扇が閉じられる。
「もし、私が彼女を本気で排除したいと思ったならば、我が父、ヒルデンバルド公爵を通じて、彼女の父、フォークス男爵に直接、お話させていただくのが最も安易ではありませんか。それをせず、彼女の学院での居場所を守って差し上げるため、少々稚拙な嫌がらせをすることが、はしたないと責められこそすれ、まるで罪人のように咎めるに値する罪であると、本当に、そう、おっしゃりたいので?」
アナトリアが並べる言葉は、実に理にかなっている、……はずである。にも拘わらず、その言葉はもはやヴィンセントには届かないのだろう。まるで耳を閉ざすように、その言葉を聞こうともせず、ヴィンセントは双眸に怒りを湛えて声をあげた。
「醜い言いわけなど無用! これ以上、この宴にふさわしくない妄言を並べ立てたいというのであれば、牢でじっくりと聞いてやるわ! この者を捕えろ!」
「あぁ!」
……果たして、会場の至るところに立っていた兵士たちをぐるりと見渡して命じたヴィンセントの言葉に応じたのは、彼のすぐ傍に立っていた騎士見習いの男、ジャンのみであった。
「近衛! なぜ動かん! この国の第一王子、ヴィンセント・ビスタークの命令であるぞ!」
その言葉を聞いても、近衛が動くことはない。
勇んで足を踏み出したジャンも、その異質な空気に気圧されたのか、アナトリアに向けた足が止まっていた。
その対面で、アナトリア自身も、ほっと息をつく。自分に危害が加えられなかったことに、ではない。彼女自身が、実力行使に出ずに済んだことに、である。
「愚か者め!」
そこで、広間に響きわたる怒声が響いた。
先ほど、宰相が慌てて出て行った扉から、壮年でがっしりとした体格の男が厳めしい顔付きで現れたからである。
深緑の瞳は怒りと呆れを綯い交ぜにして、ヴィンセントへと向いていた。
彼こそが、この国の現王、ビスターク王である。
突然の王の登場に、訳が分からないものも含め、皆々が膝をつく。
「父上!」
「公の場で父と呼ぶほど分別がつかずにおるか!」
「何を怒ってらっしゃるのです。今、まさに悪辣な人格で王妃の座に収まろうとしていた彼女を断罪して……」
「黙らぬか!」
ビスターク王は、そう一喝すると、広間の中心部へ歩み寄った。
「まさか、これほどの愚か者だったとは。我が息子のことながら、嘆かわしい」
「陛下! そのものは、自らの身分を笠にきて、男爵令嬢に数々の非道を重ねてきたのですよ!」
とりあえず、父を王として呼ぶ分別程度は戻ったらしい。下げた頭の上を通過する、空々しい声にアナトリアは内心で息をつく。
「皆、楽にせよ。そして、ヒルデンバルド公爵の娘よ、直答を許す。そなたは、ヴィンセントの言うとおりの行いを、フォークス男爵の娘に対して行ったか」
今現れたところだというのに、ことの仔細をよくご存じらしい。もしかしなくとも、随分と前から、扉外でスタンバイしていたのだろう。
「いいえ、陛下。私が行ったのは、未婚の淑女が、婚約者のいる男性と、気軽に2人きりにならぬよう諫めたことのみ。そのほかは、私はもちろん、私と親しくしてくださっている学友を含めて、私の知る範囲のものではございません。……ヒルデンバルドの名に誓います」
「……ふむ、では、その言葉が偽りであった暁には、ヒルデンバルドが責を負うであろう」
「はい」
ビスターク王はアナトリアの言葉にひとまず満足したように頷くと、後ろを振り返って、ヴィンセントの斜め後ろに控えていたリナを振り返った。
「では、フォークス男爵の娘よ、直答を許す。そなたは、ヴィンセントのいう行いを、このヒルデンバルド公爵の娘、或いはその周囲の人間の手によって、確かに受けたのか。同じくフォークスの名に誓って述べよ」
果たして、リナの顔は今にも卒倒しそうなほどに、真っ青になっていた。
「もちろん、双方の言葉が食い違っていた場合には、余の前で、偽りを家名に誓った反逆者がいることとなる。その責を明らかにするため、例え学術院内のことであろうとも、我が名をもって、その真実を詳らかにすることとなる」
王の前で嘘の証言をすることは、もちろん罪である。しかも、家名に誓うということは、自分だけではない、その家族にまで責任が及ぶ。
例え、やった、やらないの水掛け論であろうとも、王の前で1度家名に誓ったのならば、それが偽りであったときには、その者は反逆者なのである。
しかも、王が真実の追求に乗り出すとまで宣言したのだ。例え、過ぎ去った時のことであろうとも、それを明らかにする魔法もある。
「わ、私は……。私は……」
「余の前で真実も告げられぬのか!」
それが、出来レースであろうとも、ビスターク王は追求をやめたりしなかった。それほどまでに、彼の息子の行いに、それを唆したリナに、腹を立てているのだろう。そして、その理由も、アナトリアには分かっていた。
「陛下! リナは度重なった非道に恐怖を覚えているのです! それを強く追及するような真似は……!」
「お前は黙っておれ!」
ヴィンセントが助け舟を出す。既に自分が見限られていることにも気づいていないのだ。我が婚約者ながら情けないものである。しかし、それも仕方ないとは思う。
アナトリアはこれまで、決してヴィンセントを諫めてこなかった。リナがヴィンセントに接近したときも、リナには面と向かって注意をしたが、ヴィンセントには何も言わなかった。
自らが王妃となるために努力を積み重ねていた時間を、その婚約者を放って得た自由だと詰られても、何も言い返さなかった。
それは、ヴィンセントを王たらしめる責任は、婚約者であるアナトリアよりも、ヴィンセントの周囲にある従者や教育係といった人間の方が、よほど重いのだと、アナトリア自身が思っていたからであった。
尤も、そこに、自らの婚約者を愛せないが故の仄暗い意図があったことも否定しないが。
そして、ビスターク王は、失敗した。
親の贔屓目か、自分の息子は間違わないと、今日ここに至るまで、信じてしまっていた。
「私は……、フォークスの名に誓って……アナトリア様やその周りの方に、酷い行いを……された、とは……申せませ、ん」
「リナ!?」
なるほど。潔さだけはあったようだ。
ここで、わずかばかりの時間かせぎのために嘘偽りを並べたて、王宮の人間を動かし、学術院を巻き込んで大捜査を行ったあげく、家族を巻き込んで罪を被る腹は決められなかったらしい。
嘘をついた際の不利益を、こう並べたてると、実に当たり前の結論である。
「では、そなたが被害を受けたという数々のことは、どう説明する? ヴィンセントがねつ造した嘘か?」
「父上! 俺はねつ造など!」
「では、なぜだ。この娘の証言はどういうことだ」
ビスターク王は、今度は父と呼ばれたことを訂正しなかった。最早、そんな些事など、どうでもよくなったのだろう。確かに、既に王家が被った泥を鑑みれば、いまさらである。
「リナが、彼女が俺に告げたのです! アナトリアが、そうしたのだと」
「フォークス男爵の娘よ。先の余の質問に答えよ。そなたは、偽りを我が息子に述べたのか」
「それは……」
リナは恐れ慄いたように躰をガタガタと震えさせて、結局なにも述べられないようだった。
「これ以上の沈黙は肯定とみなす」
「……」
ボロボロと涙を流しながらも、リナは沈黙を守った。
「なるほど。余の前で嘘偽りを述べなかったのならば、フォークスの家には責は及ばぬだろう。そなたは、未だ学術院に籍を置く身。責はそちらで受けよ」
王家がわざわざ出張ることもないということだろう。ここまでの大事に発展していることからして、フォークス男爵令嬢に明るい未来は待ってはいるまい。なにしろ、その悪評はこの場に集まる多くの貴族の口から、この国中の貴族の耳へ入るのだろうから。
「お、俺は悪くない! その女に、リナに騙されたのです!」
「……真実も見極められぬ曇った目を持ったか!」
リナが、がくりと崩れ落ちたのと同時に、ヴィンセントが声をあげた。愛したと言いながら、見事な手のひら返しである。
アナトリアは再び扇で顔を隠しながら、冷めた視線だけを婚約者へ向ける。
「女1人の言葉を真実も確かめずに信じ込み、余とヒルデンバルドの名の下に約束された婚約者を公衆の面前で侮辱した挙句、こともあろうか、謂れのない罪による投獄を近衛に命じるなど、言語道断であるぞ! そなたの責は、学術院内で収まるものではないと心得よ!」
「父上!」
「これ以上の妄言を、この公衆の面前で述べることは、王家の名を貶めることと思え!」
さらに罪が大きくなると脅されて喚けるような豪胆な男ではない。アナトリアが予測したとおり、ヴィンセントは黙り込んでしまった。
「アナトリア・ヒルデンバルドよ」
「はい、陛下」
「そなたがヴィンセントの婚約者となる際に交わされた約束を果たさねばなるまいな」
まるで苦渋の決断でも迫られたように、ビスターク王は眉根を寄せていた。
そんな王を前にして、アナトリアは再び膝をつく。そうして畏まって、ビスターク王の次の言葉を待った。
「今をもって、そなたとヴィンセント・ビスタークとの婚約を解消する。そして、そなたは近く、隣国ヘルツァルトの皇太子の下へ嫁ぐこととなろう」
「はい、承知いたしました」
「我が母の、そなたの祖母の故郷である。健やかに暮らせ」
「もったいなきお言葉」
ビスターク王の言葉に、ざわざわ空間が揺れた。
隣国ヘルツァルトと、ビスタークとは、長い間同盟関係にある。ビスターク王がいうように、王の母であり、アナトリアの祖母でもある前王妃はヘルツァルト王家に連なる人間であった。
広大な平野部と海を持つビスタークと、鉱山を有するヘルツァルトは、双方の国の発展のため、周囲の国に飲み込まれないため、それだけ強い絆が求められてきたのだ。
広間のざわめきは、婚約破棄やアナトリアが隣国に嫁ぐことはもちろんであるが、その嫁ぎ先として、王が告げたヘルツァルトの皇太子に、ある噂があることも大きな理由だろう。
ヘルツァルトの皇太子は、眉目秀麗、文武両道とたいへん名高い。そんな、できすぎた皇太子は、それに似合わない、ある噂があった。
彼は結婚適齢期であるにも拘わらず、婚姻しておらず、婚約者すらいない。ヘルツァルト国内はもちろん、ビスターク国内でも、どういうことだ、まさか男色なのかと、実しやかに噂されていたのである。
しかし、その真相も蓋を開けてみれば簡単。
その座に、アナトリアが予約されていたという理由であった。
アナトリアは幼少期から厳しい躾のもと、生まれながらに備わった才をその努力でもって最大限に生かし、いつしか王妃の器と呼ばれるまでの才女になっていった。
王妃の器と呼ばれるようになってからも、ヴィンセントが言うように彼を顧みることもせず、ただ真っすぐに弛まぬ努力を続けてきた。
少しばかり、ヴィンセントのために砕く心があれば、この結末はなかったのかもしれない。
しかし、『王妃の器』であったアナトリアには、色恋よりも国の発展を優先する思考が既に備わってしまっていた。婚約者との語り合いよりも、己の才を伸ばすことを優先する思考が。
アナトリアが王妃の器と呼ばれるようになるのと、どちらが先であったか。
ビスターク王とヘルツァルト王は、その双方がアナトリアを次期王妃にと望んだ。
そして、その時に、ヒルデンバルド公爵家を巻き込んだ密約が交わされたのだ。
アナトリアの出自を鑑み、まずはビスタークの第一王子であるヴィンセントと婚約する。しかし、万が一、ヴィンセントが何らかの理由で立太子されないような事情が起きた暁には、アナトリアはヘルツァルトの第一皇子の婚約する。
もちろん、その後、ヘルツァルトの第一皇子まで立太子されないようなことが起これば、今度はビスタークの第二王子に……と、そんな様態で、気付けばアナトリアの婚約者は、両国の王子・皇子の予約で埋まっていた。
そして、ヴィンセントより2つ年上であったヘルツァルトの第一皇子は、1年ほど前に立太子の礼がなされていた。彼は、アナトリアを妃に迎える資格を有した。
一方で、アナトリアがヘルツァルトへ嫁ぐということは、つまるところ、ヴィンセントが王太子となる未来が、閉ざされてしまったことを指す。
「今までお世話になりましたわ、ヴィンセント様」
雰囲気が滅茶苦茶になったままでお開きとなった舞踏会の去り際。愕然としたままのヴィンセントに、にこりと無邪気に微笑んで、アナトリアは王城を後にしたのだった。
「言ってやればよかったのに。元から僕の方が好みだった、とね」
薄暗い部屋の中、たくましい腕の中に抱きしめられたアナトリアの耳元に、吐息交じりの声が落ちた。それに僅かに体を震えさせて、アナトリアも自らを抱きしめる腕に手を這わせる。
「あら、裏事情をご存知の方は、みな、分かっておりますわよ。アナタが私を逃す気などなかったのだと。私がアナタに嫁ぐことを信じて、一切の婚約関係を断って、私を待っていてくださったのですもの」
「ただ信じていたんじゃないよ。そうなると、分かっていたのだから」
そのための努力もしたしね、とアナトリアを抱きしめる男が哂う。
ヘルツァルト王宮。その皇太子の部屋に、彼の妃となったアナトリアは居た。
件の騒ぎから半年もしない内、正しくはただの輿入れ準備期間である僅かばかりの婚約期間を挟んで、アナトリアはヘルツァルトへと嫁いでいた。
その婚約期間中に、アナトリアは1度も自らの夫となる男に会ってはいない。
それどころか、それまでの人生の中で数えても、まともに会話らしい会話をしたのは、彼が外遊でビスタークを訪れた期間くらいのもので、そのほかは、両国で催された舞踏会で、ヴィンセントの連れとして挨拶した程度である。
それでも、アナトリアはなんとなく分かっていた。自分は将来、ヴィンセントではなくこの男に嫁ぐのだろうと。
初めて会った時、その整った相貌に浮かぶ怜悧な瞳に見つめられ、そんな未来を幻視したアナトリアは、それを決して嫌だと思わなかった。否、或いは楽しみに思っていた。
だからして、ヴィンセントの周囲の人間が無能で固められ、ヴィンセントを王たらしめる能力が奪われていった過程にヘルツァルトが噛んでいるだろうと、直感のようなもので感じ取っていても、何もしなかったし、何も言わなかった。
彼女が進んでヴィンセントを窘めるようなことも、してこなかった。
「キミの元婚約者殿は、辺境の地の領主として事実上の島流しにされた挙句、今後、一切の婚姻を許されないそうだよ。王太子には聡明な第二王子がなるんじゃないかな」
「そうですか」
アナトリアにとって、もはや隣国となってしまった出身国の内情、それも、元婚約者の行く末などには、とんと興味がなかった。今後も、隣国として持っておく以上の関わりは持たないだろう。
第一に考えるのは、自国となったヘルツァルトのことなのだから。
「キミは、あの無能を愛しては居なかっただろう?」
「えぇ」
「僕とも政略結婚だ」
「えぇ」
「……キミの幸せはどこにあると思う?」
アナトリアの夫。皇太子ガレオン・ヘルツァルトは意地悪そうな声音で彼女に問いかける。
「アナタの歩みとともに発展する、この国の元にありますわ、ガレオン様」
「そこは、僕に愛を語ってほしいなぁ。まぁ、嘘はよくないけど、ね?」
嘘で身を滅ぼしたどこかの令嬢のことを言っているのだろうか。
「お慕いしております。ヘルツァルトの国と、アナタの名に誓って」
「本当に、僕のお妃さまは、できた人だよ」
ガレオンはアナトリアの髪を優しく撫でて、その唇にキスを落とした。
痛快感よりも、仄かにダークさが垣間見える感じになりました。
勢いのある『ざまぁ』を期待していた方には申し訳ありません。
表立ってはともかく、それなりの身分格差があれば、少しくらいの非道は許されるんじゃない? という私感が、書き始めたきっかけです。