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幕間 義兄義妹

かつての師が光となり空の星に加わるその向こうで、黒竜は順調に育っていた。


腹に養分(データ)の袋を抱えた孵化する寸前の幼竜は、殻を破り生まれ出るその瞬間に向かって頻りに蠢いている。


その様子を眺めながら、欠損した自己の筐体を修復しているうちにふと、詩織は軽いめまいを覚え――刹那の時間、夢を見た。


それはアイヒシュテットとの、共感覚の共有であった。





“そこはマイナー進行にしてみたらどうだ? それでこの二小節目のFをDmにして――”


“あ、何かぐっと切なくなった”


“明るいだけだと単調になる。こういうのでぐっと締めればより楽しい曲になる。人生と同じだ”


“おお! 素晴らしき人生。多少根暗な方が人生楽しくなるという”


“そこは皮肉ではなく感謝を述べるべき所だな。おにいちゃんありがとうと言え”


“無理。口が腐る”


“ならば防腐剤を詰め込むしかあるまい。今こそ兄の愛を示そうか”



見覚えのある面影。二人は兄妹なのか。アイヒシュテットは一つの楽譜を共に見ている青年と少女の姿を眺めていた。


少女が楽譜に何かを書き込み、近くにあったキーボードで譜面に視線を落としたまま鍵盤を叩く。


この旋律には覚えがある。シホの好きな歌手の歌だ。


曲の拍子を取りながら、青年は少女の横で独り言のように語る。


歌はいい。世界共通言語だ。人も動物も虫も植物も関係ない。もし宇宙人がいたとしても、彼らの前では今ある全ての対話手段が無意味なものであったとしても、音楽だけは意味を持つ。音は宇宙の声だから。この振動という現象は宇宙の理に最も近く絶対に切り離せない摂理だと。


かつて人が神に舞曲を捧げたのは偶然ではない。それは必然だった。人は音楽に触れたその瞬間に、その絶対的な力の前に畏怖をした。その結果人は宗教を発明し、宗教は神という存在を作り上げ、巫女を通して世界に問いを奏でてきた。


“私、もっともっと歌が巧くなりたい”


“ふむ。だったらいい方法がある。常に疑問を持ち続ける事だ。相手の気持ちを相手の立場で考える。歌詞の意味を考えるのではなく、お前が歌を聴いて欲しいと思う人の気持ちを想像する事だ”


“それって、そんな事で巧くなる?”


“巧くはならん。技術は反復練習によって確立していくのが効率的だ。だがそれとは別に必要なものがある。私の方法論を用いれば聴衆がお前の音に耳を傾けてくれる確率は高まるだろう。理由は聞くな。真理はいつも相反する螺旋の向こうにある。それを言葉で表現する事は面倒臭い”


彼は言う。振動数は宇宙のものだと。歴史を辿れば精霊使いの長たる巫女は、形はどうあれ皆歌を備えていた。万物に干渉する術が波動(うた)である事を人間はその本能で知っていた。歌は最も万物に寄り添ってきた対話方法であり、その言葉は宇宙の彼方にも届くのだ、と。


“ふーん。じゃあ兄貴のロリコンが治りますようにって気持ちで歌えば神様に届くね”


“無知な愚妹にまず指南すべきは私がろりこんではないという事からか”


“しすこん? あー、でもそれ神様に祈っても治すのは無理そ”


“そうだな。祈って届かない事も歌であればあるいは、って待つのだ。それは大いなる誤解――”


“じゃあ皆音楽すれば世界はハッピーだ”


“む。……そこまではわからんが――”


“おいー。そこは肯定するんだよ理屈関係無しに。あーあ。詩織の好感度が兄貴から馬鹿兄貴に変更されました。”


“兄貴ではない。おにいちゃんと呼べ”





『《強制指令(ディレクティブ)》』


ふいに意識への強制介入を受けた詩織は共感覚を切断される。


現れたのは、輪無唐草の(くろ)(ほう)に八藤丸文の袴を身につけた、精悍な顔つきの男性だった。


黒い球体を虚ろな目で眺めていた詩織は、信じられないと言わんばかりの形相で、その場ににわかに現れた彼、世道最高位職の礼装を纏ったその者――鳩摩羅什――を直視した。


彼の号令で地に芽吹き急成長した薔薇の蔓は、詩織の足に這いよりそこからその体を支柱にしてぐるぐると巻き上がり、なお伸び続けた。だが彼女はそれに構わず、詰まりかけた言葉をその男に向かって必死で絞りだす。


「そん、な!? どうして!?」


『《マークしたオブジェクトの強制解体をルート権限において執行。構成情報を寸断し回路を個別消去。システムへの情報連結の解除を申請。被検体十河詩織のユニークシグナル及び関連するパーソナルドキュメントをリジェクト》』


詩織の様子とは対照的に、男は淡々と命令を指定し執行する。詩織の足から巻き付いた薔薇の蔓が彼女の体に絡みつき、青く美しい花を咲かせた。蔓はまるで生きているかのように詩織の体を這いずったが、首まで達するとその動きを止めた。絡み方はその肉体に軽く触れる程度で縛る程の力はなかったが、蔓についた棘はその皮膚に遠慮無く食い込んでおり、その肌は血を滲ませている。


「ここに来る前にフロアサーバー外郭の構成情報をクラックした。君の用いたサーバーも直に我々が制圧する。先生にはその為の囮になっていただいた」


男はそこで初めて、詩織の瞳を直視した。何の色もない無機質なその瞳は、事務的な口調をもって事実のみを告げる。


「何て事……先生はCTO(chief technology officer)よ!? CTOを人質にさせてCTOもろとも処分する気だったって事……」


「必要があれば。我々の手には人類の存亡と進化改革がかかっている。我々の覚悟を見誤ったな」

呼吸の乱れを抑えこむかのように、詩織は蔓が絡まったままの両手で口を押さえる。


「なんで……馬鹿げてる。倉敷総一朗を失えばこの国は――。そんな価値なんてないのに!こんなものに――」


「お前が彼――ここではアイヒシュテットといったか。彼を使ってEdel-wiseサーバーから不正に侵入していたのはわかっていた。お前達の行動を容認していたのは、彼の素性を調べた先生が、彼は特S級被験体北条梓穂の実験触媒になり得ると判断したからだ。だが、お前はやりすぎた」


「聞いてトワ、私達は騙されているの。私は見せられたの。人がどう変わっていくのか。システムの治世する未来では人々は夢を見ない。優しさも愛しみも、ぬくもりだってわからない子がたくさん産み落とされて、その子らは皆、植物の種のように銀河に向かってばら撒かれるの! このシステムは決して人を幸せにはしない! だからここで食い止めなきゃ、取り返しがつかなくなるの!」


自分の切なる意志を伝えようと、詩織は必死の形相でその男――世道現最高位職、大宮司鳩摩羅什――に訴えた。


だが男は、まるで関与しない――それどころか詩織の言こそ看過できない問題だと言い出しかねない――威圧にも取れる一言をもって彼女に向き合う。


「それが――お前の理屈か」


「……トワ?」


予想もしなかったその反応に詩織の表情はみるみる曇り、凍りついた。


「善も悪もない。価値基準も時代によって変わっていく。そこにある有り様をどう判断するかは、次代の人間の問題だ。現在の我々の最重要任務は、人が滅びぬよう人類を存続させ、その為の仕組みを補完する事のみだ」


「トワ……どうして……」


にべもない態度に、詩織は全てが理解できないと、その理由を考える事から逃げ出したい衝動に駆られた。言葉が通じないどころか、悪意を持って揚げ足を取ろうとする敵対的弁論者を前にしたかのような緊張が、彼女の背中のあたりを寒くする。


「人の幸せを図る事に意味はない。慣れればそれが幸せとなるのもまた人だ」


「何言ってるの、それとこれとは、――意味分かんないよ」


「言葉は意味を成さない」


「そうじゃない! それってなんなの……自分だけが知ってる風な事を言って、煙に巻いて逃げないで!」


湧き上がる気持ちが、言われた言葉の意味を理解出来ずに翻弄され暴走する。取り繕う事すら忘れた彼女は、記憶の時を遡り――


「お前の理解が足りないだけだ。私は逃げも隠れもしていない」


「逃げてるよ! それっぽい事言って結局逃げるんだあの時みたいに! 正面から取り組まないで、いつも回り道ばかり探して! 自分がやる必要はないみたいな事言って! そう言って音楽からも逃げたでしょ!」


――飛び出した言葉に、自らの言動に驚く。


自分でも何を言っているかわからない。だが気が付くと、湧き上がる衝動が、詩織の中に押しとどめていた理性の力を押し退けていて、沈殿していた(にが)い記憶への怨嗟をぶちまけていた。


それは一片ではあったが、彼女が自分の脳への過負荷を――生命の危機を――把握するには十分な事象であった。


電子伝達性海綿状脳症(ETSE)――このままではシステムが自分という個を侵食し尽くし、やがて自分の自我は希薄化する。思いついた事をそのまま口にする老いた人間のように、心は子供に返り、やがて知性は失われる。


だが例え自分がどうなろうとも、この問題は何としても伝えなければならない。この計画は中止しなければならない。――悲しみと一緒に吹き上がっていく様々な負の衝動を詩織は懸命に抑えこみ、耐える。


「私以外に適正者がいるなら私が行う必要はない。音楽とて何が違う。懸命に取り組んだ時期があったからといって、それが何だというのだ」


それを見ていた鳩摩羅什は、しかし詩織の様子の変化も言動の乖離も指摘する事無く、声のトーンを落とし、毅然と反論する。


「でも、貴方(あなた)は私に薦めたでしょ? 音楽はいいものだぞって、人種を超えて人を繋げるぞって、皆が喜び幸せになる、一緒にやってみないかって。私には……私の大切な……私には、わた……それ、が、すべてだったよ?」


言葉にすると嗚咽が漏れそうになる。高ぶる感情を必死に抑えて、彼女は出来るだけ短い言葉を選ぶ。


「君には私以上の才能があった。故に私がそれを続ける必要はなかった。君はそれを証明し私はそれを納得した。それだけの事だ」


「証明って何!? 賞状? トロフィー? そんなもの……そこじゃない! 一緒にって!……貴方(おにい)がいなくなるなら、やらなかった。何の価値もない! 私は、貴方(おにい)に喜んで、もらいたか、――一緒に……もっと――」



その時、アイヒシュテットを抱きかかえた玄奘が、二人の間――宙から現れ、着地した。


アイヒシュテットは完全に気を失っていたが、玄奘は二人を見つけると、急いで立体虚像制御卓(コンソールスヴェイ)を呼び出し転送先を再設定した。


一瞬、玄奘と鳩摩羅什の視線が重なったが、言葉はかわされなかった。


転送が始まり、二人は淡い光に包まれて、空気に溶けるようにその場から消えた。



光を見送り、転送の完了を確認して、鳩摩羅什は無機質な声で詩織に告げる。


「お前の仕掛けた攻撃(ウィルス)は我々が駆除したが、影響を受けた情報群は電網の漏斗の中で渦を巻き主要ホストへ流れ込んだ。だが我々はこれらを全て消去する。この空間(ゾーン)も直に隔離され秩序(アルゴリズム)は崩壊し、ゆっくりと消滅を迎える」


「そんな事できるわけない。太平洋にばら撒かれた藻を手網でさらうと言っているようなものだわ。それにもしそんな事が出来ても、そんな事をすれば人は滅ぶ」


「人は滅ばない」


覆いかぶせるようにきっぱりと彼は言った。


「滅ぶのはこの世全ての悪だ。悪とは肯定できない人の意思。人は自らが善いと思う事のみを行う善となる。故に我々を理由に人が滅ぶ事はない」


一つの疑問も感じていないと言わんばかりの、自説を盲信する彼の姿に詩織は言葉をつまらせた。その断言に絶望を感じ、詩織は自分の説得がすべて無駄に終わるだろう事を悟った。


――理解に至るまで何度でも対話を重ねられるのが人間の真骨頂というものだね――


自分に巻き付く紫に変わりつつある薔薇に視線を落とし、彼女は師の言葉を反芻する。


彼女は、けれどなお、彼との対話に食い下がる。


「そう。そうね、人は滅ばない。夢を見ないただの種子になるだけ」


「進化の形が変わるんだ。芸術が時代を経て新たな形、新たな手法を獲得するように。人間も変化を迎える」


「退化を華美しているだけ! 大事なものを失ってから気がついても遅いの!」


「失うものなど何もない。旧来の良きものに加えて人類は新しい選択肢を獲得する」


「新しい選択肢? 奇抜すぎる逸脱を? 王道でも定番でも、人は出発したらいつかは帰ってくるべき生き物なの。またかとか、飽きたとか言いながら、失敗や成功を繰り返して、やがて故郷となる位置づけのものに帰る。人はそこに帰ってまた新しい出発をするって。帰る事が出来るからまた飛び立てるって、私の言葉じゃないよ。貴方(おにい)の言ってた事だから!」


彼女はすがる。社会人としての二人ではなく、身内であった日の二人の時間に。この世界で最も大事な家族であり、最も大好きだった兄に、叫びながら、彼女は願った。


「帰る場所があろうが無かろうが人は前に進む。進まなければならない。何故顧みる必要がある。それは無知だったからだ。人は産まれ落ちたその時から否が応でも旅立たねばならない。我々の作るシステムは無知による苦難を排除する。人が光を得て夜の闇を払ったように、我々のブレイクスルーを以って人は新たなる高みへと旅立つ」


「旅立つんじゃない、打ち捨てられるんだよ! このシステムの未来では! 物理的にも精神的にも、そんなもの無くなってしまう! 人の心には帰るところが必要だもの。知恵とか知識とかじゃなくて! 貴方(おにい)が出て行ったあの日の事を考えればそんなもの馬鹿だって気がつ――!」


刹那、詩織は、はっと言葉をつぐむ。熱せられていた感情のうねりが冷水を浴びた如くサーっと引いていき、代わりに別の何かがさざめきだした。



帰る場所があったとして、帰って人は何をする。次への旅立ちの準備、それは具体的に何を指す。補充か。休息か。若しくはその他の何か、或いはそれらすべて――。


詩織の脳裏に、一つの仮説が不意に浮かんだ。



トワは、帰らなかったのではなく、帰れなかったのではないのか、と。



そう閃いた時、過去の記憶が詩織の脳裏に溢れ出した。


堰を切ったように、記憶の濁流がおびただしい涙にその形を変えて詩織の涙腺に殺到した。


そしてそれは瞬く間にまぶたを押しのけ、止めどなく外へ流れた。


「表現を繕っても結果的には同じ事だ」


鳩摩羅什は言った。詩織の様子を見ても微動だにせず、短く、淡々と、感情が乗らないよう心を殺しているのではないかと思わせるほど徹底した無機質な声で。



――あぁ。そうか、わたし――



詩織は納得した。


その表情からは険が取れ、安心した子供が見せる甘えのような、好意的で、柔らかで、優しげな微笑みが浮かび、やがてそれは少しずつ悲しみに歪んだ。


彼が帰ってこなかったのは、帰る場所を必要としなかったのではなく、帰れる場所を欲していたからこそ、ずっとそれを探し続けていただけなのではないか。音楽を捨てたわけでも、義妹(いもうと)を捨てたわけでもなく、彼はきっと――


「帰るところがなくなるつらさを、貴方(おにい)はどうしてたの」


詩織の筐体の瞳から溢れる涙は止まらない。意識に直結している筐体は、感情により体に現れる変化を忠実に再現する仕様上、理性の都合だけでそれを偽る事が出来ない。


涙を堪えせき止める事が出来ない詩織は、泣き続けながら、それでもまっすぐ彼を見つめる。


「――帰れない者など溢れているだろう。お前は何を言っている」


その彼女の瞳を真っ直ぐに見返して、鳩摩羅什は淡々と、熱のない言葉を返す。


その言葉で詩織は理解した。大切なものをしっかりと認識しつづけるという行為には、彼の場合、きっとそれが必要だったのだと。



少しずつ空間は解体され、空から一条の光が差し込む。剥がれ落ちた背景テクスチャが光の粒子となって降り注ぎ、二人のいる空間を満たしていく。


「あぁ、メレディス――」


その光に、詩織は絶句した。崩壊し始めた背景の中に佇む彼に、詩織が既視感を憶えたからだ。


そしてそれがただの錯覚ではなく、彼女が全く想像し得なかった情報の奔流によってもたらされたものだと理解したのは、ストーリーキャストの名を自分の口が発した直後だった。


慈しみのような、喜びのような、信じられない心情に満ちたその声は、確かにストーリーキャストの名前を告げた。詩織の中にいる詩織とは別の人格、この地を見守ってきた初代媛巫女の記憶が、添い遂げたかった男性とトワの姿を重ね見ていた。


詩織は自分もまた、システムの障害が生み出した記憶事故の被災者、アイヒシュテットと同じ【殻界侵犯者(デュアルペネトレーター)】であった事に、この時初めて気がついた。


そしてもしかすると――詩織は鳩摩羅什を見る。


「あの方はその為だけに生きている。技術的特異点(シンギュラリティ)を超えた想起点と呼ばれるもののさらに先。――新世紀の預言者だ」


――あぁ、トワにぃも……――


鳩摩羅什がゆっくりと歩いてくる。


激しく感情を発露させ息を詰まらす彼女に、彼は手を差し出し、優しくその涙を指で拭う。詩織と、詩織の中に重なる彼女は、この時漸く、自分が本当に欲しかったものを認める事ができた気がした。

「どうして、私を置いていったの、どうして連れて行ってくれなかったの」


彼は何も答えない。光の粒子が背景のテクスチャを引き剥がし、世界が白の希薄な空間へと変容していく。


「さよなら。トワ。最後に逢えて……思い出す事ができてよかった――ごめんね」


詩織の手がトワへ延びる。彼に触れ、微笑んだ彼女は、そのまま光の塵となってぼろぼろと風化し、消失した。



「――。詩織」


消失する瞬間、詩織には彼――君村永久(きみむらながひさ)――が、別れの言葉を口にしたように聞こえた。



鳩摩羅什は虚ろな目で、消滅した詩織のいた場所に視線を落としていたが、やがてその空間から掻き消えた。


まるで何もなかったかのように静まり返ったその場所には、光を失った静かな闇だけが残った。



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