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襲撃③

視界が暗くなり、光が感じられなくなる。


黒い渦の中を漂っている。


浮いている感覚は無い。意識だけが切り取られ流されているかのような。


こんな事は初めてだ。しかしどうしてか、既視感がある。


ここはさっき見た、渦の中なのではないだろうか。


――さっき?


さっきとはいつの事か。アイヒシュテットは考える。


広がる闇に果てはない。目を開けても目を閉じてもそこには闇がある。


アイヒシュテットは自分が死んだのだと思った。


だとすると、確かにこれは初めての体験であるはずだ。


宗教の中には輪廻という考えがあるが、まさかこれがそれなのか。


いやまさか。アイヒシュテットは思い直す。そんな訳はないと。


目は開いている。見えないだけでまばたきは出来ている。闇ばかりで何も見えないが、恐らく手も足もある。自分はきっと、人間の(てい)をしている。


根拠はない。己の感覚が正しいと証明する手段もない。死者に自我があるものなのかもわからない。だが、恐らく自分は死んではいない。



そうやって暫くの間、アイヒシュテットが辺りの様子を(うかが)っていると、遠くの方から重い扉が軋みながら開く音がした。途端、闇には星が満ち、所々に沢山の、様々な種類の柱時計が浮遊しているのが薄っすらと見え始めた。



「やぁ。ようこそ僕のハウスへ」


視界の端ギリギリに、玄奘が着ていた物に似ている衣装――輪無唐草の(くろ)(ほう)に八藤丸文の袴――を着た、精悍な面構えの男性がそこに立っているのが見えた。


どうやっているのかわからないが、彼の第一声はどこで喋っているのか距離感の掴めないものだった。頭の中に直接響いてきた気もするし、単に耳元で囁かれただけな気もする。


しかし視界に捉えている彼は、随分と遠くにいるように見える。


「君が動けなくなったのはこの蜂のせいだよ。こいつには意思が設定されていない。風や雨と同じ環境オブジェクトだ。だから設定では防げない」


男が右腕を上げたのと同時に、星かと思っていた光の一つがアイヒシュテットに近づいた。


そうだ。あれは蜂だ。アイヒシュテットは目を見開く。


ホタルに似た淡い光を放つ虫。あの時この蜂が飛び込んできた。そして体中に走った不可思議な感覚のせいで手足が動かなくなり、胸を突かれたのだ。


「思い出したね。そう。君は胸を突かれて死んだ。――三度」


三度? アイヒシュテットは怪訝に思う。だが構わず男は続けた。


「一度目は胸を突かれて、二度目は胸を打たれて、三度目は胸をえぐられて、だ」


何の話をしているのだ――彼は最初そう思った。だが同時に、それが事実であるという直感もあった。


そうだ。その男の言う事はその通りだ。だがどうしてそうなったのだったか。アイヒシュテットはそれらの記憶を思い出せない自分に不気味さと不安を覚える。


「一度目ははっとしただろう。まさか討たれるとは思いもしなかったろうからね。でもそれ以上に、それを受け入れた自分にこそ実は一番胸を突かれたんじゃないかな、君は」


「二度目は感動しただろう。感じた事もない威圧感。強大すぎる存在感。為す術なく葬り去られた圧倒的な戦力差は初めての経験だったと思う」


「三度目は哀切きわまりない気持ちになったろう。この件については、うん。まぁみなまで言わないでおこう。君はベストを尽くした。それだけだ」


淡々と語る言葉は輪唱となってアイヒシュテットの頭に直接響いた。まるで彼の返答など求めない自分語りのような一方的な口調で。


彼は更に言葉を続けた。


「偶然なのか因果なのか。シナリオの種を作ったのは我々だが、仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。だが、君には自分が何者かを知る権利がある。僕はそう考えた。君がこの世界にいる限りは、我々運営側にも君を助けなければならない義務があるからね。ベストエフォートを約束しよう」


自分の感想を述べ、自分から反省し、自分だけで完結する。置いてきぼりにされたアイヒシュテットは、男が何の話をしているのかまるでわからない。


だが男は構わず話を続ける。


「さて、今の君の状態だけど、一つの人格に二つの記憶が混在する状況にあるというのが我々の見解だ。このテストに参加した本来の君の記憶と、この世界を盛り上げる為のギミックとして作成されたストーリーキャストバックボーンの共生。いわばシステムの二律背反――デュアルペネトレイトだ。一つのオブジェクトに外部入力と内部出力によって異なるユニークデータが同時に組み込まれ、正規の存在として世界に認識される障害。アイヒシュテットというテスターに起こった障害は、上っ面はそれで間違いない。本来であればアレはダンプごと、物語上の役割を終え舞台から退場、つまりこの世界の死を受け入れた時点で消去されるはずだった」


アイヒシュテットの眼前に、スクリーンが現れる。


そこに映し出されたのは、グロックドルムの王城の中枢にある謁見の間だ。


玉座の左右に控えるのは王直属近衛兵団幹部と王の側近達。玉座に座っているのは――間違いない。グロックドルムの開戦を決断し、翼竜に乗って自ら陣頭指揮を執る勇ましき青年、即位したばかりの新王であった。


「しかし不明な介入により何らかの改ざんがなされ、彼の筐体は消滅しなかった。そして何者かが、その筐体にユニークデータであるテスターのパーソナリティデータをひも付け、inviteesとしてコンバートした。システムからはプレイヤーとみなされエラーの検知にかからず、管理者の定期検索からはデータ上NPCと見なさ見落とされる。君の特異性は異常性を検知されないまま、今日まで隠匿されてきた」


スクリーンに謁見の間に入ってきた一団、グロックドルム特務局ベルディグリのメンバーが映し出される。その中には、聖騎士に与えられる純白のマントに身を包んだ人間の姿があった。


その映像に、アイヒシュテットは動揺する。


――馬鹿げている。こんなものが何だというのだ。


結論から言えば、アイヒシュテットはこの光景を知らない。


映像の視点の問題でその顔を確認する事は出来ないが、近くに控えているベルディグリメンバーの中には、いかり肩で特徴的な後ろ姿を持つ班長らしきシルエットもあった。


この光景だけを見れば、ソレは自分であるはずだ。


これはいつの事なのか。まったく思い出せない。自分の記憶が確かならば、ソレは自分ではない。しかしこの光景が事実ならば、自分はソレではない。


――私は一体……。


誰なのか。アイヒシュテットはその疑問を飲み込む。


自分は記憶の改竄をされているからこの光景を覚えていない。男はその証拠としてコレを見せた。しかしだとするなら――アイヒシュテットは直ぐにその考えを否定する。


自分は錯覚させられているのではないか。この映像だけを見せられて状況を考えようとすれば、自ずと思い描きやすい結果を推察する。そもそもこの異常な状況の中で正常な判断を行なえというのは無理がある。これが幻術の類でないと客観的に証明する(すべ)はないのだから。


アイヒシュテットは少なくとも、この映像が男の言葉を真実とする証拠には成り得ないと判断する。

「君は始まるべくして始まる始まりのこの場所に、本来納まるべき始まりのコッペリアを依り代とするのではなく、この世界が創りだした見せかけのハリボテを依り代とした存在なんだ。そして君は、設定を体験として記憶野に刷り込まれ記憶障害を起こした。珍しい症例だが当然の結果だろう。何故なら君は――いや、これは君のせいではなくあの女の……うん、まぁこの話はいいだろう」


男はスクリーンの前まで歩くとアイヒシュテットの方を向いた。


スクリーンの映像は切り替わり、武器を構え大空を滑空する二匹の翼竜騎士の姿を写した。その光景は、恐らく騎翼戦(アインツェルカンプ)。しかも騎手は――信じがたい事だが――新王とその妹君、リーズ王女による決闘に見えた。


「これらは、全て予定されていたシナリオだ。どうだろうか。君はきっと言葉では言い表せない絶望みたいなものを感じてくれたと思う。だがすまない。君の冒険はここで終了だ。私の解説はサービスだから、まずはこのまま死んで欲しい。うん。君はあの死霊には絶対に勝てなかったんだ。すまない」


映像が消える。二人の戦いを最後まで見る事は出来なかったが、恐らくは新王が勝つだろうと戦いの内容からアイヒシュテットは予想する。もし新王が討ち取られるような事があれば、指揮系統は崩壊し戦線も維持出来ず、敗戦が確定するだろう。


しかし何故。リーズ王女は精鋭のみで組織された虎の子の【第一空戦兵団ブリュンヒルデ】を率いる新王の右腕だ。決して裏切るような方ではないし、何より二人は実の兄妹。裏切る要素もメリットも皆無のはずだが。


アイヒシュテットは男の話をそっちのけで映像の真偽について考えていた。アイヒシュテットには元々何を話しているかわからない上一方的すぎる話の内容の理解に務めるより、映像で見せられた事件の分析をする方が建設的に思えたのだ。


だが次の男の一言で、彼は男に意識を引き戻される。


「殺伐とした世の中でそういう気持ちを忘れないで欲しい、そう思って君をここに手繰り寄せた。さて、もうここに君がいる意味は無いし、我々も君を戻す準備が出来た。カプセルの中で眠っていた君は意識を取り戻し、現実世界に無事復帰だ――じゃあ、リセットしようか」


――何の隠語か知らないが、つまり殺すと言いたいのか。


アイヒシュテットは、初めて見せた男のにこやかな表情に警戒する。今度こそ本当に殺す――彼の口にしたリセットという言葉に、アイヒシュテットはそれが、殺害を示す比喩と察する。


無念に顔を歪ませ、アイヒシュテットは道半ばで倒れる己の不甲斐なさに悔しさを感じ、存在するかわからない拳を強く握った。


その時だ、異変に気がついたのは。


――――? ……動く?


体が、動く。


アイヒシュテットは足をバタバタと大きく激しく動かしてみた。


間違いない。僅かながら、視点が動く。


それをきっかけに、異変は徐々に拡大した。


暗闇が晴れ、辺りが徐々に明るくなっていく。闇に浮かんでいた柱時計も丸く輝く小さな灯りも消えて、明るさを取り戻していく世界は少しずつ、辺りに宮殿の風景を映し始めた。



◆◇◆◇◆◇



そこはグロックドルムの宮殿ではない。


もっと広く、もっと高く、もっと格式高い空気に満ちた、見た事もない至高の宮殿。


最初に目に飛び込んできたのは等間隔に配置された細かく美しい細工が施された大きな柱だ。宮殿の壁には法術がかけられているのか柔らかい明かりが灯っていて、空間全体を満たす上品な明るさに一役買っている。


大理石で作られた床にはキメの細かい美しい金の刺繍をあしらった真紅の絨毯が敷かれており、琥珀色をした何の素材で出来ているかわからない高い天井からは、宝石を散りばめ緻密な細工を施したシャンデリアが吊るされていた。


――ここは天国……いや真逆(まさか)な。だとすると、ここがうわさに聞く審判の門へと続く大聖堂、もしくは死者の集うヴァルハラ宮殿か。


アイヒシュテットがそんな事を考えていると、急に体に重力が戻り、彼の体は情けなく床に投げ出され転がった。


大した衝撃ではなかったが、床にぶつかったその感触はアイヒシュテットに肉体が戻った事を十分に実感させた。


「貴様、我が主を戒めた罪、万死に値すると知れ」


床に崩れた自分の視界の前に、二本の足――白銀の具足――が降りてきた。


女性の低い、それでいて静かで凄みのある声は、アイヒシュテットの頭上から聞こえてきた。


「やれやれ、竜王の末裔の言った通りになりましたね」


「偽りの予言者めに我が君の御身体を預けねばならぬとは」


「お、お兄ちゃん、お、落ち着い、て」


「我が主よ。ここはあたしらにお任せを」


「グフフ、執行者カ。相手にとって不足は無い」


アイヒシュテットの斜め後ろから文字通り老若男女の声がした。


体に力が入らず視界を移動させる事は出来なかったが、先程からアイヒシュテットと共にいた世道の男の顔だけは見る事が出来た。


彼は顔に薄ら笑みを浮かべ「これはひどいな」と呟いて、両手を開いて降参のポーズをしている。

「それはなんだ。負けを認め恭順するというのカ」


一番歳をとっていそうな男の声が響く。


「恭順? そんなの認められるわけないんだけど?」


「馬鹿馬鹿しい。我が君に対して働いた蛮行、死すら生ぬるい」


ハキハキとした若い女性の声に続いて聞こえたのは、高圧的な少年の声だ。


「驚いたが合点がいった。実に興味深い。そして滑稽だ。成る程あのデータ量、それで――まさに灯台下暗しだ」


男は上げた右腕を右耳に当てて「イリス。閉じ込められた。誰でもいい至急迎えをよこしてくれ。座標を送る」と楽しげに呟いた。


「さて執行者(シニアゲームマスター)。先に申し上げておくと、我々には貴方に対抗する為の手段がありますが――どうします?」


アイヒシュテットの後ろ側から、紳士的で知性を感じさせる優しげな男性の声が世道の男に交渉を持ちかけた。だが彼はまっすぐにアイヒシュテットだけを見下ろして、しかしアイヒシュテットではない何かと楽しげな口調で話を始めた。


「イリス。SQMにアサイン。被験者AN007の解体に失敗。本件を凍結し新たに被験者AN007に内包するデータを検証解析するチームメンバーの選抜を指示。発見したクテシフォン宮殿と、それを中心とした、中東地域デザイン開発委託企業に関係する者の中から、筑波のプラットフォームを利用した事のある者をピックアップ。アクセスログ解析後データをプロセスファイルUGPSTに照会し出力されたコードを私に報告」


「聞いているのか貴様ぁ!」


「お兄ちゃん、待って、お、落ち着いて。ご主人様の前だから」


――何だ、何が起こっているんだ。彼らはどこから、一体何者だ?


新たに現れた者達の言葉を聞くに彼らの主人なる人物がこの場にいるようだが、それらを確認することは出来ない。肉体は戻れども身体の自由は全くきかず、声を発する事すら出来ないアイヒシュテットには、事態が動くことを待つ事しかできなかった。



「緑眼の聖騎士とはよく言ったものだ。秘匿改竄案件(アゾット・エ・アデッソファイル)を示す手がかりがまさかそういう意味の暗号だったとは。本当に愉快だよ。君は知っていたのかい? ――いや、それはないか。そうだとしても消去済みだろう。二回目の転送に介入しなかったのはやはり失敗だったか。……しかし、思えばこの感覚は久方ぶりだ。我々が出し抜かれる事なんてそうは無い」


そういうと男は、パチン! と、唐突に指を鳴らした。


まるで耳元で鳴らされたかのような大きく強く響いた音は、その瞬間アイヒシュテットから世界の色を奪った。



モノトーンの世界の中で、アイヒシュテットは周りから先ほどまで伝わってきていた様々な感覚が遮断された事を悟る。五感は著しい制限を受け、頭の半分を麻痺させられたようなその感覚にアイヒシュテットは息を詰まらせた。


「最初に説明しておこう。これは彼らに立場の違いを判らせる為の余興だ。君をどうこうしようとは考えていない。ただの時間制御だから安心してほしい」


――時間制御?……時を止めたとでも言いたいのか。


しかしモノトーンの世界の中でも世道の男は普通に振舞っているし、自分もそれを観測している。言葉通りではない何かをしているのだろう。


「さて君の処遇だが、こうなってしまっては解き放たざるを得ない。私もそこに散らばる素子達に無駄なデバッグをさせられたくはないからね。だけれど君のおかげで――正確には君じゃなく、君に悪戯を仕掛けた者のせいだが、我々は今迷子だ。帰るには迎えを待たなければならない。それまでお互い暇を持て余すだろう?」


そう言うと、男はアイヒシュテットに向かってくるくると指を回した。トンボの目を回させる要領で滑稽に動く指先を、アイヒシュテットは直視させられた。


すると、頭の痺れが少しだけ和らいだ。


「余興として私がこれから幾つか質問をするから、YESであれば視線を縦に、NOであれば視線を横に動かそうか。判らなければ中央で視線を固定だ。勿論それなりの謝礼はしよう。どういう形でかは私に一任してもらうがね。どうかな」


断りたい気持ちはあれど、それは愚策だ。この状態で意地を貫く程アイヒシュテットは気概に富んではいなかった。彼はすぐに視線を縦に動かした。


「よろしい。ではひとつ目の質問だ。――君はどこまで自分の事を思い出せる? 嶋川祥二郎という名前に心当たりはあるかい?」


アイヒシュテットは視線を横に動かした。


「ふむ。ではふたつ目の質問だ。君は君に語りかけてきた内なる声について覚えているだろうか。あぁ、今席を外している君の相席者じゃなく、君をモニタリングしていた彼らの創造主の事なんだけど、どうかな?」


アイヒシュテットは視線を横に動かした。


「そうか。じゃあ、今君を取り巻くソレらについても心当たりはないのかな?」


周りを見渡す男の視線を見て、ソレというのがアイヒシュテットの周りに突如現れた謎の集団についてだと察する。一瞬おいて、彼は視線を縦に動かした。


「成る程実に興味深い。やはり知覚しているわけだ。嘘を言ってないだけに事は深刻だね。埋め込まれている種が孵化する瞬間を思うと同情を禁じ得ないよ」


アイヒシュテットは正直に答えたつもりだ。それはこの男の反応に得体のしれない恐ろしさを感じたせいだが、答えている内に何故か彼の胸の内には妙な不安がこみ上げてきていた。


それは、果たして自分は本当に正しい答えを返しているのだろうか、という自分に対しての疑心暗鬼であった。


「しかし今の君の証言は(きた)るべき君と私の住む世界の終末を先延ばしにするかもしれない。君がどうなるかには興味が無いが、君はきっと喜ぶのだろう。この情報はサービスだから気にしないでくれ」


嘘をついていないのに嘘を付いて答えている気がする気持ちの悪さ。そしてそれを見極めんとしているだろう男の視線。アイヒシュテットの思考は奇妙な焦燥感に埋め尽くされる。


「じゃあ次が最後だ。なぁに、身構える事はない。この問いは単なる世間話だ気を楽にして答えてくれ」


男は勿体つけて一拍置いてから、最後の質問をした。


「――時に君は、異世界の存在を信じるかい?」


その質問が何を意図しているのか判らず、アイヒシュテットは視線を動かす事が出来なかった。


はいかいいえかで答える事が出来る質問の形はとっていた。しかし、意味がわからない。


「今のこの時代においても用意出来ない程の気の遠くなるような膨大な演算能力と、領域のきっかけたる時間と空間の歪みを駆使すれば、人は過去へ遡れるという仮説がある。……とは言っても、それはアニメに出てくる机の引き出しの中のタイムマシンの話じゃない。そう……あえて形容するなら――予知だな」


答えないアイヒシュテットに男は情報を追加する。しかし今のアイヒシュテットでは、それを情報として認識し処理することは出来ない。それをするだけの心のゆとりがない。


「このシステムを使えば、人は高密度の予測情報を獲得する事で擬似的な未来を体験出来る。未来起点から言えば、人は過去をやり直せるという事だ。デュアルペネトレーターである君は、私からすれば異世界人そのものだよ。いや、この世界そのものが異世界との境界にあると言っても過言ではない。つまり」


視線を動かせないアイヒシュテットの瞳を男は真っ直ぐに見る。幸いしたのは否が応にも見つめ合う光景をアイヒシュテットが第三者視点で認識出来なかった事だ。叶っていたなら彼は嫌悪を感じ視線を維持してはいられなかっただろう。


だが男は構わずそのままの状態で、真顔で彼の顔に自分の顔を近づけた。


「君にとってのつい昨日の出来事は、私達にとっては多分――」


そして小声で囁く。


「――明日の出来事と言う訳だ」


「…………」


男はアイヒシュテットの瞳をその鋭い目で覗き込む。


得体のしれない化け物に直視されているかのような恐怖と危機感。アイヒシュテットにとってはとても長く感じられた時間。――だがそうしていたのは、実際には三秒に満たない。


男は直ぐに身を翻す。そして斜め上を見上げて、右手を天に翳した。


「来たか、早いな」


その言葉をきっかけにモノトーンだった世界が一気に色を取り戻す。


「叔父さん! なんでクテシフォン大宮殿が?! どこにあったんですか! それにあの解析依頼は、って、えー!? 何でアイヒシュテット君!? 叔父さん何やってるんですか!」


聞こえてきたのは玄奘の声だった。


男は一瞬あっけにとられた顔をし、そしてすぐに眉間に皺を寄せ、再びアイヒシュテットを――今度は注意深く見る。


世道の男の顔からは、既に笑みは消えていた。


「人手が足りなくてな。やむなく出張ってきただけだ。だが丁度いい。彼はお前に任せよう。同期エラーを起こしたようだから復帰誘導してやってくれ。そのための措置としてお前を一時的にSGM(シニアゲームマスター)エイリアスに追加する。チャンネルB(ベー)を開ておけ。チームリーダー間の情報共有権限も付与する」


「えぇ!? あ、はい! わかりました! ありがとうございます!」


返答した玄奘の声には、驚きと恐縮と感謝が入り混じっていた。


「あぁ、それと――」


男は宙を見つめつつ右手で見た事のある動作――何もない空間をなぞったりつまんだり開いたり――をして、ふと、何かを思い出したかのように虚空を凝視し、指を止める。


「ここはアトリエだ。叔父さんとは呼ばないように。ちゃんと役職名で呼び――いや、鳩摩羅什(くまらじゅう)と呼んだほうがいいな、設定通りに」


男が言い終わるのと同時に、重い鉄扉が軋みながらゆっくりと開く――初めて男がアイヒシュテットの前に現れた時と同じ――音がした。


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