#2 愛と充弘[1]
「ここの桜の木、切り落とさなかったんですね?」
少女は天使のような声で少し嬉しそうに囁いた。
意外だった。無口なのかと思っていたからである。まさか、少女のほうから話しかけてくるなんて思ってもいなかった。
「そうなんですよ。あの桜の木は、ここの名物になると思いましたから」
広々と勢いよく伸びる枝。その貫禄は申し分が無い。この店は元々空き地として放置されていた売り地をある筋から借り受け、ちょうど半年前に建てられたのである。
「ありがとう」
少女は、窓の外のまだ桜の蕾を見つめながら答えた。
何故『ありがとう』と言ったのか解らなかったが、思い入れのある木なんだろうと思いを巡らせた結果、
「あなたは、この桜の木に何か思い出でも有るのですか?」
五十嵐は、ここぞとばかりに話に乗った。こんなチャンスは無いと思ったからである。
少女が身に纏っている制服は、この街の何処にも存在しないセーラー服だから、きっとわざわざこの地に足を運んできたのではなかろうか?そう推測した。そして、この喫茶店に立ち入ったのだろうと推測した。そして、この喫茶店に立ち入ったのであろうと。
「思い出……そうですね。もう昔のことなんですが、素敵な思い出です」
昔というのは変な話だ。この若さで昔なんて言葉を使う彼女はそんな年には見えない。
それとも、最近の子は幼少のことをそう言う様になったのか?いや、そんなはずは無いと頭を横に振る。
『もしかして、今流行の何ちゃって高校生?』
たまに、学生風を装って制服を着ているものが居るとか……そんな話を聞いたことがある。この少女もそうなのか?
「まだまだ若いのに、昔なんて事言ったら笑われますよ?」
出来上がったセイロンティーが入ったカップの花柄の受け皿に、冷蔵庫から取り出した、半透明のタッパに入っている輪切りのレモンを添えると少女の座っているテーブルに運びながら、五十嵐は苦笑いした。
「そうでしょうか?」
少女は気の無い振りをして桜の木を眺めていた。
その前に、五十嵐は腰を掛けた。籐で出来ているその椅子が『ギシっ』と軋む。
「誰か待ってるんだ?」
五十嵐は、ボーっと外ばかり眺めている少女に向かって、もしかしたら待ち合わせでもしているのだろうか?とそう感じた。
「来ないかもしれない……でも約束を破るような人ではないってそう信じているから」
少女はここにきて初めて五十嵐の顔を覗き込んだ。
「不思議なことも有るものなのですね?」
今度は、目を閉じて目尻が下がると綺麗な笑顔を見せてくれた。五十嵐はそれにつられて微笑み返した。その言葉がどういう意味を持って語られているかなど気にもせずに。
それだけ、彼女の笑顔は魅力的だった。
「待ち人が来るまで、宜しければ、その思い出話などにお付き合いしますよ」
五十嵐がそう言ってしまうほどに……
真冬の太陽は人々から遠ざかるかのように色を落としていた。
吐く息はとても白く、行きかう人の群れはその白い世界の中で鮮やかな原色に彩られ、生き生きしている。
「充っちゃん待って!」
長い三つ編みの少女が、先を急ぐ少年に向かって早足で駆け出していた。
「愛!おい、走るなよ。まだ雪残ってるんだから。こけて頭でも打ったら笑うに笑えないぞ!」
充弘はそう告げると、後ろから子犬のように走って来た愛に向かってそう告げる。愛は、その言葉を知らん顔で受け止めると、充弘の右腕にしがみつく。
「今日は、映画観に行くって話しでしょ?凄く楽しみにしてたのに、何でキャンセルなの?」
少し膨れっ面をする頬がこの寒さの中赤く染まっている。それがあどけなくて、充弘は返す言葉を失いそうになった。
「……雪。また積もりそうだから、早く帰ろう?熱出たらまずいし」
愛は、幼い頃から身体が弱く風邪をこじらせては肺炎を起こす体質で、幼馴染の充弘はその事を熟知していた。
「熱なんか出ないよ。凄く凄く楽しみにしてたんだから!ね?」
しかし、充弘の返事はダメの一点張り。
「おばさんに言われてるの!愛が今度熱出したりしたら、二度と遊びには出させませんってね!」
幼馴染のこの愛と充弘は、アパートのお隣同士の同級生。何をするにも一緒に育ってきた。端からみれば仲の良い兄妹のように見えるであろう。
「お母さんの言う事、真に受けちゃってさ……」
愛は詰まらなさそうに、道端に転がっていた小石を軽く蹴飛ばした。
「もっと暖かい日にしよう?な?」
充弘は、そんな愛の気持ちを汲んでかそう言うと、近くの駅へと足を伸ばした。
愛の言う事は、何でも聞き入れてきた。充弘は愛のことを心の底から好きだったから。
だけど、それも今日で終わり。そう解っていたから、映画を見に行きたいって言った言葉を受け入れた。そうでなければ、こんな真冬の寒い日に愛を連れ出そうとは思わない。
約束はいつ果たされるのであろう?
心にそう思い描くが、まったく予測が付かない。もし、明日、愛が……自分が、父の会社経営失敗の為に、突如九州に引越すことを知ったとしたら、どう思うであろうか?
嘘つき呼ばわりされるであろうか?
一生この自分を許してくれないのではなかろうか?
そんな事が帰り道、頭に過ぎったのであった。