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八重鏡  作者: 藤崎悠貴
たましいを守って
99/122

たましいを守って 5-1

  5


 正行は、もとは緑に茂っていたであろう森の残骸を見て愕然とした。

 想像するに、何十年、何百年とこの地で生きていた木々があり、秋になれば実をつけ、それを鳥が食べ、小動物が食べ、それらがまた森を潤すという営みがあったのだろう。

 それらは何百年と続く強固なものだが、一度失われてしまえば、二度と戻ることはない。

 馬は、切り倒された木の幹を避けるようにして進む。

 愕然とする正行と腕のなかで、ミドリは表情を変えず、じっと前を見つめていた。

 その横顔が、なにも思わないはずはない。

 しかし正行にはかける言葉がない。

 裸になった森を見て、これなら馬で一気に駆け上がれると、とっさに打算が働いた正行には。


「正行参謀殿」


 と伝令の兵士がやってくる。


「山をぐるりと取り囲むように布陣が完成しました。これで、敵の補給線は失われたと」

「わかりました。しばらくはそのまま待機を」

「はっ、了解いたしました」


 正行よりもぐんと年上の兵士が敬礼し、馬を走らせ去っていく。

 ヤンが後ろから正行に近づいて、


「ひどい状況ですね。なにも、ここまでしなくても」

「ニナトールを殲滅させるためには、この方法しかないんだろう。森や動物、そのすべてがニナトールというなら、それらをすべて打ち倒さなければ。でも――同じ人間がしたことだと思えば、心が痛む」

「なぜ心が痛む?」


 ミドリがぐいとあごをのけぞらせ、正行を見上げた。


「これを行った人間と、きみとはまったく別の人間だろう。きみが心を痛めることはない」

「まあ、それはそうなんだけど――共感性っていうのかな。他人の痛みを自分の痛みのように感じるのは、仕方ないことだ」

「それこそ、矛盾だ。これを行った人間は痛みなど感じていない。そして切り倒された木々も、剿滅させられた動物たちも、人間を基準にした痛みは感じていないだろう」

「それでも、さ」


 正行が呟けば、足元にさっと影が差す。

 頭上からふわりと舞い降りたロゼッタは、マントがばさりと頭にかかったのを面倒そうに振り払いながら、


「上から見てきたけど、山の向こうの兵士たちは森のなかへ入ったみたいだったよ」

「そうか、ありがとう」

「それでそなたの予想どおりとなったわけだ」


 クラリスが、銀髪をなびかせながら近づいてくる。

 馬上で背筋を伸ばしたクラリスがこの失われた森を歩くと、それだけで悲しみがぽろぽろとこぼれ落ちるような、なんともいえぬ物悲しさがある。


「補給線を絶ち、敵を森のなかに追い込む。そのあとは、どう戦う?」

「さあ――」


 挑むようなクラリスの表情から目を逸らし、正行はミドリの頭頂部をぼんやり見下ろした。


「徹底した兵糧攻めは、ここでは意味がありません。それに、森には食料や水が豊富にある。そもそも敵の数も正確にはわかっていないし――」

「だいたい三十万というところだろう」


 ミドリがぽつりと言った。

 正行がぎょっとして見ると、むしろミドリのほうが首をかしげて、


「なぜ不思議そうな顔をする」

「ど、どうして敵の数を知ってるんだ」

「私はニナトールである。この土地は、すべて私なのだ。森のなかで人間たちがどこに何人いるのか、感じることはむずかしくない。無論、広大な土地のすべてに感覚が行き渡っているわけではないが、人間たちが入り込んでいるごく浅い地域程度ならすべて把握できる」

「はあ、そんな能力があったとはな」

「私はニナトールである、と何度も言ったはずだが」

「おれはまだニナトールって存在がよくわかってないらしい。でも、三十万か。思ったより開きがある。こっちは十万、ちょうど三倍だ」


 うつむく正行に、ロゼッタが不安そうに言う。


「勝てそう? 正行くん」


 正行はにやりと笑い、


「数では負けてても、なにしろこっちにはニナトールさまがついてる。どうにかなりそうだよ」



 フォークナーはとるものもとりあえず森のなかへ逃げ込んだ。

 周囲の兵士たちも同様である。

 兵士はすべて前方の森に対して戦線を作っていたから、背後からの奇襲は想定外、まっさきに危険なのはしんがりに位置する司令部であった。

 なぜ、背後からの攻撃を想定しなかったのか。

 フォークナーは森のなかを駆けながら、ぎりぎりと歯を鳴らした。

 なぜ敵が正面からくるものと思い込んでいたのか、狙うなら、伸びきった補給線に決まっているではないか。

 これでハルシャの兵三十万は、退くことも叶わなくなった。

 それがどれだけ恐ろしいことか、フォークナーは身体をぞくりと震わせる。

 この得体のしれぬ森のなか、ろくに陣形も作れぬままなのだ。


「一塊になれ、孤立するな! 兵士同士、決して離れるでないぞ」


 フォークナーは枯れ葉を踏みしめながら叫ぶ。

 しかし、伝令も散り散りになって、いまや離れた場所で戦線を作っている兵士たちに指示を送ることさえ困難である。

 大多数の兵士たちは、まだ敵の襲撃を知るまい。

 フォークナーはすぐすべての戦線へ情報を伝えろと伝令を送ったが、運悪く伝令兵のほとんどが出払っているところで、どれだけ時間がかかるかもわからない。

 ともかく、軍を立て直さねばならぬ。

 フォークナーは走り続けて切れた息を整えるため、立ち止まって木の幹に手をついた。

 単純な兵力では優っているのだ。

 立地さえ適当であれば、負けるはずがない。

 しかしこの森のなかでは。

 フォークナーはあたりを見回し、わずかに兵が集結しているのを見て、内心不安になった。

 ロマンさまの期待に応えるどころか、とんだ失敗をしたのではないか――ハルシャの兵を失うことになれば、斬首は免れまい。

 しかしそれよりも、ロマンの無表情な目で見つめられることが、フォークナーには恐ろしかった。

 希望も失望もしていないような、たとえばはじめに地図を作った兵士に斬首を言い渡したときのような、あの目で見つめられながら死ぬゆくほど恐ろしいことはない。


「ともかく、兵を一箇所に集めるぞ。それが最優先だ」

「しかし、フォークナーさま」


 兵士のひとりが、額を拭いながら言った。


「この森のなかで、三十万もの兵士が集結できましょうか」

「わからぬ――やるしかないのだ。さらに森の奥へゆくぞ、皇国の兵にいま追いつかれてはひとたまりもない」


 フォークナーは、その一歩一歩が絶望を深める結果になりはしないかと怯えながら、それでも兵を引き連れて森の奥へ向かった。



 ハルシャの皇帝ロマンは、ニナトール領内に設営された司令部を退いたあとも、ニナトールの周辺に滞在していた。

 いわく、皇帝業を休業しての隠居である。

 周囲はそれが冗談なのか本気なのかわからず、ともかく戦況は伝えるなと言われているから、ロマンの身に万が一のことがないよう、周囲を遠巻きに警備するしかなかった。

 ロマンは日がな一日、打ち捨てられて久しい古城に立てこもっていた。

 なかでなにをするかといえば、とくになにをするわけでもなく、読書もしなければ眠るわけでもなく、長椅子に座りぼんやりと天井を見上げている。

 ロマンが一日を過ごす部屋は、おそらく古い時代はサイロとして使われていたであろう円形石組みのちいさな建物で、外見は塔に似る。

 天井はすぼめられ、古い時代はそこに屋根があったのだろうが、のちの時代に改造が施されたらしく、いまはぐるりと窓が取り付けられ、鎧戸を下から開けると、太陽がどの位置にあっても室内へ光を取り込めるようになっている。

 ロマンは常にその鎧戸を開けさせ、光を身体に浴びて何時間も動こうとしなかった。

 気を利かせた兵士が、近くの集落から若い女を集め、ロマンにどうかと差し出してみても、ロマンはちらとも顔を動かさず、


「興味はない。褒美を与え、集落へ帰すがよい――いや、ひとりだけ、連れてこい」


 と兵士に呼び立てられたのは、いかにも農民ふうの、ごわごわと毛羽立った布を身体に巻きつけた、そばかすの浮いた女であった。


「あ、あの――」


 女は怯えたように跪き、兵士はその場を出ていく。

 ロマンは長椅子にぐったりと身を横たえたまま、


「そばに寄れ。いや、そうしたくないというなら、その場でよい。おれの声が聞こえる距離なら、どこにでも好きな場所にいろ」

「は、はい――では、この場所に」

「おまえには、おれはどう見える?」


 ロマンはわずかに顔を上げ、女を見た。

 女はロマンと目が合った瞬間、さっと視線を下げて、ついで頭を垂れた。


「精悍で、その、ご立派でございます」

「そのようなことを訊いているのではない。おれはおまえのなかでどのような存在になっておるのか、訊きたかっただけだ。おれは悪魔か、それとも人間か?」


 答えられない女に、ロマンは声を上げて笑った。


「そうか、そうか。それでよい。たしかにおれは悪魔であろうよ。殺せと命じた人間の数は、おそらく一生かかっても数えきれん。そしていまも、何十万という大群を全滅させるにはどうすればよいかと考えていた。無論、近々実行に移すつもりの計画だ。しかしな、おまえには信じられぬかもしれんが、おれは自分の手でひとを殺したことはただの一度もないのだ。そもそもおれは剣がどうにも苦手で、ろくに扱えん。ハルシャの王を殺したときも、部下にやらせた。おれは首のないハルシャ王の身体を王座から引きずり下ろし、その椅子に座っただけのこと」

「ろ、ロマンさま――どうかそのような恐ろしい話はおやめくださいまし」


 女は青い顔で、震える腕をきゅっと抱く。

 ロマンは心底不思議そうに女を見て、


「なにが恐ろしいというのだ。ひとが死ぬということが恐ろしいのか? しかし人間は必ず死ぬのだ。人間にかぎらず、ニナトールのような化け物でないかぎりは。たとえば、石に命はないが、風雨ですり減り、やがては塵になる。塵、というのは、すでに石ではない。そしてまた、石材もすでに石ではない。おれの座っている長椅子は、どことも知れぬ木から切りだされ、木材として組み合わされたものであろうが、これはもはや木ではないのだ。木と呼ばれたものは死に、いまは木材と呼ばれるものとなる。やがてはこれも朽ち、木材としての死を迎える。あらゆるものがそうなのだ。空も山も大地も、やがては消えてなくなる。おれはそう信じている。空に輝く太陽や星々でさえ、遠い将来には消え去るであろう。ましてや、人間の命など。しかし、ニナトールの化け物どもは、決して死なん。この大地が滅び、太陽が滅び、空が滅び、星が滅びようと、その滅びを眺めておるだろう。おれはそれが気に食わん。まるで天上人でも気取っておるようではないか。やつらにも死があるのだというのを、やつら自身に教えてやるのだ」


 怒涛のようにまくし立て、ロマンはふうと息をついた。

 女はびくりと打ち震え、すこし扉に近い位置へ身を寄せる、もし扉へ飛びついたところで、外の兵士から逃れる術はあるまいが。


「そうとも、考えてみろ。人間など、放っておいても四、五十年で死ぬのだ。そのあいだ、なにを成すか? おまえは、どうだ。その人生でなにを成す」

「わ、わたしでございますか。それは――」


 女が口ごもるのに、ロマンはうなずき、


「答えられやせん。なにしろ、おまえは生きているのだ。毎日、日が昇れば畑へ出て仕事をし、飯を食い、兄弟の面倒を見て、日が落ちれば眠りに就く。やがては子を産み、育て、そして死んでいく。おまえの人生は生そのものだ。生きている人間に、ものを考えるひまなどない。その点、おれは幸いにも親が商人でな、働く必要もないし、そうしろと言われることもなかった。その分、考える時間は無限にあったのだ。そこでおれは生を考え、死を考えた。四、五十年の人生、おれになにができるか、なにを成すべきか。そしておれは皇帝になった――この世界の半分を牛耳った。残り半分も、近く手に入れる。しかし、本来世界など、所有せずとも生きていける。おれは生きながらにして死に、死にながらにして生きているのだ。おれのくだらぬ四、五十年が消費され、やがておれのことなどだれひとり覚えておらん時代がくる。しかしおれはなんら構わん。おれはやりたいようにやり、そして死ぬのだから。死も生も、おれを捕らえることはできん。国もひとも、なぜおれを捕らえられようか。死など、くるならいつでもきてみろと歓迎しているほどだ。しかしその瞬間まで、いや、死してなお、おれは思い通りに動くであろう」


 女は呆然とロマンを見ていた。

 ロマンは長椅子に横たえていた身体をすこし起こし、女ではなく天井を見て、ぽつりと言う。


「おれはあらゆることに興味がない。そしてあらゆるものを手に入れたい。だが、いま思うのはある男のことだ」

「ある男?」


 思わず女が問えば、ロマンはにやりと笑って、


「雲井正行という男よ。知っておるか?」

「いえ――」

「そいつは北端のグレアム王国で参謀をやっておる。異邦人だそうだ。雲井正行と会ったことはないが、おれは子どものころに一度、異邦人と会っている。商人だった父が家に連れ帰ったのだ。黒髪の、小柄な男だった。その男はおれにいくつかの不思議を教えてくれたのだ――なぜひとは生きていくのか、なぜひとは死ぬのか。なぜ血は流されるのか。なるほど、たしかに不思議なことだ。子どものおれは考えて、生きていくのにも死にゆくのにも、血が流されるのにも人類の行く末にも意味などないと理解した。だからこそ、おれはひとを殺し、自分の手で殺そうとは思わん。その異邦人は、もう死んでいるはずだが、いまおれの目の前に新たない異邦人が立ちはだかっている――そいつは、どうやらおれとは別の答えを持っているらしいのだ。ひとが生まれて死ぬ意味を、血が流されても人類が続く意味を持っているのだとおれは期待している」


 ロマンは笑っていた。

 口元を吊り上げ、目尻をぐいと下げて、子どものように顔全体で笑っていた。


「なにしろ、雲井正行はおれとよく似ているが、あらゆる点でちがう――おれは破壊を望み、やつは保存を望むのだ。言ってみれば、どちらの観念が勝つかという戦争なのだ。おれとあいつ、どちらが有能かというのではない。どちらの兵が多く、どちらの兵が強力かというのでもない。おれの答えが正しいのか、やつの答えが正しいのか、それを知るためだけの争いなのだ。――まあ、おまえには、理解もできんだろうが」


 不意にロマンは飽きた顔で視線を外し、再び長椅子にごろんと寝転がった。

 女にはひらひらと手を振り、部屋を追い出す。

 入れ替わりに入ってきた兵士、ロマンは顔も上げず、それまでどおり鎧戸を開けた天井の明かり取りをじっと見上げて、


「いまの女の首を切れ」

「はっ――」


 兵士がためらいがちな顔で、


「なにか、粗相がございましたか」

「そうではない。理由はとくにないが、あの女を生かしておくべきではない」

「りょ、了解しました――首を、こちらに持ってまいりましょうか」

「その必要はない。報告だけでよい」

「はっ」


 敬礼ひとつ、兵士が部屋を出ていく。

 ロマンは天井から降り注ぐ光を身体に浴びながら、薄く目を閉じ、ぽつりとひとりごちた。


「ニナトールも順調に進んでおるであろうし、あちらもそろそろか。雲井正行にはおれと同等の戦力を得てもらわねば困る――それも団結した、強い戦力を。その上で、最後のひとりまで殺し合おうではないか。答えはその果てにある――すべての答えは、血の川の向こうに」

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